EP 5
トラウマの足音と、遠いサイレン
ルナミス帝国からの買い出しを終え、ハーレーがポポロ村に帰り着いた頃には、空はすでに深い茜色に染まっていた。
「……荷物は店に運んでおく。お前は少し休め」
『鬼龍』の裏口にバイクを停めると、龍魔呂は輝夜から受け取った大量の荷物を抱え、そっけなく背を向けた。
その足取りはいつも通り隙がなく、堂々としている。
だが、駐車場のゴロツキに銃を突きつけた時の、あの張り詰めた横顔と、重ねた手から伝わってきた微かな震えを、輝夜は忘れることができなかった。
(龍魔呂さんは……ずっと、見えない何かと戦っているんだわ)
輝夜は、彼の赤いジャケットの背中が見えなくなるまで、静かに見送った。
彼が心の奥底に封じ込めている絶対的な「痛み」。それに触れることは、生半可な覚悟では許されない。それでも、彼をあの冷たい孤独の中に一人で放っておくことなど、輝夜には絶対にできなかった。
◆ ◆ ◆
それから一時間後。
村の中央広場には、夕暮れ時の穏やかな時間が流れていた。
医療プラントで完治し、村の居住区に身を寄せることになった難民の子供たちが、鬼ごっこをして無邪気に駆け回っている。
その広場の隅で、龍魔呂は店で使うためのハーブをプランターから摘み取っていた。
輝夜もまた、子供たちに配るためのお菓子が入ったカゴを持ち、広場を通りかかった。
「こっちだよーっ!」
「あははっ、待てーっ!」
平和な笑い声。
輝夜が微笑ましくその光景を見守っていた、その時だった。
『ドンッ!』
走っていた小さな男の子が、ぬかるんだ地面に足を取られ、派手に転倒した。
「あっ……」
男の子は顔をしかめ、擦りむいて血が滲んだ膝を抱え込んだ。
そして、堪えきれずに大きな声で泣き出した。
「うわあああぁぁぁんっ!! いたい、いたいよぉぉっ!!」
夕暮れの広場に響き渡る、子供の鋭い泣き声と悲鳴。
普通の大人からすれば、子供が遊んでいて怪我をした、ただのありふれた日常のハプニングだ。
輝夜も「大丈夫?」と駆け寄ろうとした。
だが。
『ガシャンッ!!』
背後で、硬質な音が響いた。
振り返ると、ハーブを入れたカゴを取り落とした龍魔呂が、彫像のように硬直して立っていた。
「……え?」
輝夜は自分の目を疑った。
いつも冷静沈着で、どんなゴロツキを前にしても顔色一つ変えなかった彼の顔から、文字通り『すべての血の気』が失われていたのだ。
唇は青ざめ、見開かれた瞳孔は激しく収縮と拡大を繰り返している。
「あ……、あぁ……っ」
龍魔呂の喉から、空気が漏れるような掠れた音が鳴る。
彼の網膜には、広場の景色など映っていなかった。
響き渡る子供の悲鳴が、彼の脳の最深部に焼き付けられた『トラウマのスイッチ』を、暴力的に蹴り破ったのだ。
――『おにいちゃん……っ! いたい、いたいよぉっ!』――
――『たのしませろよ、奴隷! お前が負けりゃ、このガキの命はねぇんだからなぁ!』――
薄暗い地下格闘場。
鉄格子の向こうで、血まみれになって泣き叫ぶ弟・ユウの姿。
観客の下劣な笑い声と、鉄の匂い。
「や、やめろ……。泣くな……、俺が……俺が、ころしてやる……っ」
龍魔呂の巨体が、糸を切られた操り人形のようにガクンと崩れ落ちた。
泥の地面に両膝をつき、自分の頭を抱え込むようにして激しく震え始める。
「龍魔呂さん!?」
輝夜が持っていたカゴを放り出し、彼のもとへ駆け寄った。
「龍魔呂さん、どうしたの!? 大丈夫ですか!」
輝夜が肩に触れた瞬間、ビクンッ!と彼の体が大きく跳ねた。
彼から立ち上る、異常なほどの冷や汗と、呼吸の乱れ(過呼吸)。
そして、彼の右手に嵌められた『鬼王の指輪』が、主の暴走する精神状態に呼応するように、不吉な赤黒い光を明滅させ始めていた。
「違う……俺じゃない……ユウ、ユウ……ッ!!」
龍魔呂は、輝夜の顔すら認識できていないようだった。
焦点の合わない目で虚空を睨みつけ、うわ言のように弟の名前を呼び続ける。
その姿は、冷酷な処刑人でも、頼れる無口な店主でもなかった。
ただ、理不尽な暴力に大切なものを奪われ、絶望の底で泣き叫ぶことしかできなかった『無力な少年』そのものだった。
彼を縛り付け、心を壊し続けてきた地獄の蓋が、今、完全に開こうとしていた。




