第四章 鬼と月の世界
月見酒と、無口な店主
ポポロ村の夜は、不思議な静寂に包まれている。
遠くで稼働する全自動農業プラントの微かな電子音と、秋の虫たちの鳴き声が、心地よい和音を奏でていた。
その村の片隅に、ひっそりと赤提灯を下げる小さな店がある。
小料理屋兼BAR『鬼龍』。
扉を開けると、出汁の甘い香りと、仄かなアルコールの匂いが鼻をくすぐった。
「こんばんは、龍魔呂さん。まだ開いてる?」
輝夜が顔を出すと、カウンターの奥でグラスを磨いていた青年が、静かに視線を向けた。
黒をベースにした深い赤のジャケットに、赤黒いズボン。
長めの前髪の奥にある、どこか哀愁を帯びた瞳が、輝夜を映す。
「……ああ。適当に座れ」
低く、落ち着いた声。
龍魔呂はそれだけ言うと、グラスを置き、手際よく火口に火を入れた。
輝夜はカウンターの隅に腰を下ろす。
この『鬼龍』は、昼間は龍魔呂目当ての女性客でひしめき合っているが、深夜ともなれば客足は途絶え、静かな大人の隠れ家になる。
「いつもの、お願いしてもいい?」
「……肉じゃがと、芋酒だな」
コトリ、と。
少しして輝夜の前に差し出されたのは、湯気を立てる肉じゃがと、素朴な陶器に注がれた芋酒だった。
「いただきます」
肉じゃがを一口頬張る。
じゃがいもの芯まで、甘辛い出汁が完璧に染み込んでいる。
飾り気はないが、五臓六腑に染み渡るような、極上の『家庭の味』だった。
「美味しい……。龍魔呂さんのご飯を食べると、なんだか肩の力が抜けるわ」
輝夜がふわりと微笑むと、龍魔呂は何も言わず、ただ小さく頷いた。
そして、自分のマグカップに注いだ漆黒のブラックコーヒーを一口飲み、傍らの小瓶から『角砂糖』を一つ取り出して、そのままガリッと無造作に齧った。
それが、彼なりの休息の合図だった。
輝夜は芋酒を口に含み、開け放たれた窓から見える夜空を見上げた。
雲一つない空に、美しい月が浮かんでいる。
「……月って、いいわよね」
輝夜は、ぐい呑みの縁を指でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「太陽みたいに、ギラギラと人を焦がして無理やり引っ張っていくわけじゃない。ただ、暗闇の中で迷っている人の足元を、優しく照らしてくれる」
龍魔呂は黙って、角砂糖を転がしながら輝夜の横顔を見つめている。
輝夜の瞳には、かつて彼女が身を置いていた霞が関の不夜城と、そこで心をすり減らしていった人々の姿が映っていた。
「人は、自分だけじゃ輝けないの。暗闇の中じゃ、前に進むこともできなくて、迷って、怯えて、泣いてしまう」
「…………」
「だから、私は月になりたい。みんながそれぞれの場所で輝きながら働いて、夜になったらこうして、笑って月を見ながらお酒を飲める世界を作りたいの。……月は、決して迷わないから」
それは、彼女の魂の底にある、祈りのようなポエム。
地球の強大な権力の中枢にいても、異世界で国家をひっくり返しても、決してブレることのない彼女の『本当の自分』だった。
静かな店内に、輝夜の優しい声だけが溶けていく。
「……こんな青臭い理想、笑うかしら」
輝夜が少しだけ自嘲気味に笑うと、龍魔呂は静かに息を吐き、新しい芋酒の瓶を手に取った。
「……いや」
トクトク、と。
輝夜のぐい呑みに、波々と酒が注がれる。
「悪くない」
龍魔呂の口から出たのは、たったそれだけの、短い言葉だった。
だが、その一言には一切の嘘や誤魔化しがないことを、輝夜は感じ取っていた。
彼は、雄弁に語って輝夜の理想を肯定するわけではない。しかし、彼女の理想を真っ向から受け止め、ただ静かに寄り添ってくれる「深さ」があった。
「ありがとう、龍魔呂さん」
輝夜は嬉しそうに目を細め、再び月見酒を煽る。
無口な店主と、月を愛する女性。
夜の静寂の中、言葉以上の温かな空気が、二人の間を穏やかに流れていた。




