抱きしめてあげてください
広大な芝生の丘。
ずっと先で駆け回る兄妹を目に映したまま歩き続ける。
痩せ細って体力の落ち切った身体では、歩調を早めることもままならない。
このまま子供達に追いつくことなく命尽き果ててしまうのではないか。そんな要らない不安が胸の中に澱んでいる。
「良いお天気ですね。熱くありませんか?」
弱音を吐く心を気取られたのか、隣で付き添ってくれる女性スタッフが日傘を私に傾けつつ明るく声を掛けてくれる。
黒のスラックスパンツに半袖のブラウス姿。黒髪を後ろでまとめ上げ、メイクのラインも綺麗に整った凛々しい感じの人。
自分より歳下なのは間違いないはずなのに、芯から落ち着き払った頼もしい印象は、この人も何か特殊なのだと予感させる。同時に、私の方が年齢相応の落ち着きが無いのではと痛感したりもする。
「大丈夫です。それであの、このパーク、私たちしか居ませんけど。今日は休園日だったのでしょうか?」
「いえ。今日はここを全部貸し切りなんです。贅沢で気持ちいいですよね」
空いている方の腕をぴんと伸ばして深呼吸をしている。
こっちはとんでもない事実に息が止まりそうなのに。
「それって、もの凄くお金がかかるのでは……」
「そうですね。うちのボスにしては思い切った大盤振る舞いかも」
くすくすと笑っているけどそんな場合じゃない。
どう考えてもあの悪魔の仕業だ。
やられた。「報酬と必要経費は別ですよ」とか平気で言うタイプだった。でも、そういったお金の話は普通の事だし、冷静に事前確認しなかった自分の落ち度だ。世間知らずのまま暮らしていた自分の人生が悔やまれる。
「ちなみに、お幾らほどなのでしょうか……」
「それが、急なオーダーだったので全て事後精算のようになってしまっていて。この後の仕事が思いやられます」
今度は肩を落としてため息。思ったより表情豊かな人だ。
お店を手放して得たお金は、マンション購入費と子供たちの当面の生活費に充てるつもりだった。こんな事になるなら、入院生活なんてさっさと切り上げればよかった。
残る貯金でどうにかなればいいけれど。
「それにしても、こんなに大きな施設が貸し切りにできるものなのですね」
本来ならたくさんの人々で賑わうはずの土曜日。
そんな場所を独占するなんてお金を積めばいいだけとも思えない。
「はい。少々強引な方法で。それ以外も諸々潤沢に資金を注ぎ込んだので、まあ、億は超えるでしょうね」
「お、オクッ!! ごめんなさい無理!!」
何考えてんのあの悪魔、うちにそんな財力ないこと一目でわかるでしょうに!
まさか、うちの子たちに背負わせて一生稼がせる気なの?
そんなこと絶対に許さない。
死なば諸共よ。ゆきと君。
「無理? ああ、ご心配なく。瀬戸内様に費用請求することはありませんので」
「え、今、なんて?」
「ですから、瀬戸内様がお金を支払う必要はありません」
「本当に?」
「本当ですよ。あっ、大丈夫ですか?」
一気に力が抜けて芝生にへたり込んでしまう。
もう、みんな説明がなさすぎ!
「じゅ、寿命が縮まった……」
でも、こんなにショック受けても生きてる。
私の寿命、意外にまだ残ってるのかも。
「申し訳ありません。ご説明しておくべきでしたね」
「いえ、こちらこそ。早とちりしてお恥ずかしい」
心配そうに屈むその人のネームプレートが目の前にくる。
説明して欲しいことは他にも沢山あった。
「えっと、白木、さんも、神崎さんと同じお仕事を?」
「私はあそこまで残念な廃課金虫取りオンナではありませんよ?」
ニコッ。
なんのオンナかは聞き取れなかったけれど、どうやら質問を失敗してしまったらしい。仕事上の摩擦か美人同士の確執か、惣菜屋の娘には縁遠くて恐れ多い。
知りたいのは、この人たちの生業。
「その、死神からお仕事を請け負うとか聞いたのですけど……」
今度は質問を理解してくれたようで、言葉を選んでいるのか、少しだけ空を見上げてから語ってくれる。
「そうですね。私達は、瀬戸内様と同じようにあれらと関わり、その後も故あって縁を断ち切れないでいる人間の集まりなのです」
あまり詳しくは話せませんが、と前置かれて知らなかった事実を教わる。
死神と言っても人間の死を自在に操れる存在ではないこと。
死神には蟲と呼ばれる天敵がいること。
その蟲を駆除する仕事を特殊な人間が請け負っていること。
特殊とは死神や蟲が見えてしまう能力を指していて、そうした人間は普通に社会で生活するには難しい場面が多々あるので、互いに助け合う組織に属し、蟲を駆除する仕事で収入を得てどうにか暮らしているのだそう。
思った以上に厳しい現実だった。
「皆さん大変なご苦労をされているのですね。土足で踏み込むようなことを訊いてしまいました。ごめんなさい」
「とんでもありません。疑問を持たれるのは当然です。私たち、普段は気持ち悪い蟲ばかり相手にしているので、こうして直接人様のお役に立てる仕事は嬉しい限りなんです」
ぱっと明るい笑顔を見せてくれる。
嘘は無くて、実際はもっと辛い事が多いのだろう。
支えられる方の私が気遣っても意味などない。
ここは甘えるべきなんだと思う。
「そう言っていただけると、助かります」
「今日ここに居るスタッフ全員が瀬戸内様の味方ですから。安心して楽しんでくださいね」
味方。
味方は家族だけだった。
それでも全部を曝け出して頼ることもできない孤独を抱えていた。
初夏の頃、会うべき人がいると不思議な思いが突然湧いて、このまま入院していては絶対に後悔すると考えるようになった。会うべきが誰の事かもわからないまま帰らなければいけないと焦る気持ちだけが膨らみ続けて、とうとう我慢できずに飛び出して来たものの、その先はどうしていいかさっぱりわからず。
まわりに迷惑を掛けるばかりで、何も起きはしない。やはり病院へ戻って静かに終わりの時を迎えるしかないのだろうと諦めかけていた。
それが昨日になって。
その人は当たり前のように現れて、いとも簡単に私の孤独を消し去った。
一夜明けてもまだ、夢のような出来事が続いている。
そうだ。悪魔なんているわけない。
「なんだかホッとしました。ゆきと君もその組織の仲間だったのですね」
その名を出した途端、白木さんはきょとんとした顔になった。
また失言してしまったような胸騒ぎがする。
「違いますよ?」
「えっ、でも、さっき黒澤さんと知り合いのような態度でしたけど」
白木さん、人差し指を立てて左右に振る。
「あの子は……、金のなる木なんです!」
急に興奮気味になって、語り始めた。
うちのボスは嫌がってますけど、この間はあの子のおかげで大きな臨時ボーナスがあって大助かりだったんです。
しかもこの程度で終わる金蔓ではないと私は直感しています。
今日はあの子絡みの仕事で、しかもあのボスの弱り様。
儲かる予感しかしません。
うちのスタッフ全員が気合い入ってるのです!
「そ、そうなんですね……」
人様のお役に立つのが嬉しくてスタッフ全員が味方とは?
やはり悪魔なのね。
「母さん!」
不意に叫び声を耳にして見遣ると美羽を抱えた善が駆け寄ってきていた。
脚をもつれさせながら、汗だくになって、必死の形相。
どうやらこの座りこんだ格好の所為でとんでもなく心配させてしまったらしい。
「善、ごめんね、ちょっと躓いただけなの。大丈夫だから!」
精一杯の声を出して無事を知らせたけれど駆け足は止まらない。
私の前まで来て息を切らせたまま美羽を置くと、芝生に膝を突いた。
まさかお金の勘違いで腰が抜けたとは言えず、ごめんねと繰り返すしかなかった。
そして、美羽は疲れ切った善の背中に隠れて私に怯える。
今日はとても体調がいいから、怖い顔に見られないで済むかなと少し期待していたのだけど、子どもの目はそう簡単に誤魔化せないらしい。
「みーうちゃん。これ、なんだろー?」
日傘を横へ置いた白木さんが膝立ちになって、スラックスのポケットから何かを取り出して見せた。
美羽は興味を示し、それを確かめようと恐る恐る前に出た。
「めーね?」
「そう、メガネだよー。しってるのえらいねー」
両脇にリボンの形をしたアクセントが付くピンク色のフレーム。
白木さんは美羽に持たせながら、折り畳んだツルを立てていく。
「みうちゃんの、おかおにかけたらあ、おねえさんになれるよー」
うまく誘導して、そっと頭にもっていって小さな鼻にかけた。
「わあ、かわいい、おねえさんだー」
白木さんが大きく手を振ってぱちぱちと手を叩いて褒めると、にっこりと笑顔になって、くるくる回りながら喜んだ。
流石だなと思う。その笑顔を見られただけでも良かった。
でも、結局。
回るルーレットの止まった先に私がいた。
すぐに美羽の笑顔は歪んでしまって、泣いてしまう。
ごめんね、美羽。
「ママーあああ!」
美羽が、泣き声を上げて私の胸に駆け込んできた。
顔を埋めて、小さな両手を使って必死に私を掴む。
予想外の出来事に、私は身動きができなかった。
それでも、胸から伝わってくる温もりが確かにあって、痛いほどの喜びに変わっていく。勝手に涙が溢れて、目にするもの全てが歪んでしまう。
「そのメガネをかけると余計なものが見えなくなります。美羽ちゃん、やっとお母さんに会えたんです。抱きしめてあげてください」
白木さんの言葉が、辛いのは子に拒絶される自分じゃなくて、母親に会えない美羽の方だったと教えてくれた。
自分だけが孤独を抱えているつもりでいた。
私はなんて馬鹿で独りよがりの母親なのだろう。
この子を抱きしめる資格などあるわけがない。
なのに、白木さんは震える私の両腕をとって、美羽の背中で組んでくれる。
死ぬ前にもう一度だけと祈った願いが、叶った。
そこから先は、美羽よりも煩い私の泣き声が広場に響いた。
善の息切れが治り、私が鼻をすする程度に落ち着くまで、白木さんは根気よく待ってくれた。
これがこの人たちの仕事なのだなと思うと、感激してまた涙が出てきてしまう。
「でも、不思議です。メガネひとつでこんなに変わるなんて」
白木さんは私の不思議を微笑んで頷く。
「それ、私の娘のものなんです。うちも同じでした」
衝撃だった。仕事がどうの以前に、この人は、自分と同じか、それよりもずっと辛い経験を乗り越えてきたのかもしれない。尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
「今、娘さんは?」
「元気ですよ。もう困っちゃうくらいお転婆さんなんですよ。そのメガネ、差し上げますね。度は入ってませんので」
「そんな、大事なものでしょう」
両手をひらひらさせて首を横に振る白木さん。
今年小学生になって、もっとお洒落なのがいいと高価なフレームのメガネを買わされたのでと嘆息。
「子供は逞しいですね。最近はママの代わりに悪者をやっつけるなんて、ぞっとすることを言い出すんですから」
「お仕事のこと、わかってるんですか?」
「酔った旦那がペラペラと。一年間の禁酒を命じました」
思わず笑ってしまう。
この逞しい母にして、その娘あり。
私がもう何年か生きられたら、そんな母娘になってみたかったと憧れてしまう。
叶わぬことに思いを馳せても詮無いこと。
こうして家族三人が寄り添えるだけで私は十分に満たされた。
でも、幼子はそうもいかない。
「ママ、あそぼ!」
びっくりするほど強く手を引っ張られる。
その小さなカラダのどこにそんなチカラがあるのと感動する。
なにして遊ぼうか。
三人であれもこれもと迷いながら歩いていく。
今日はこのパークを全部貸し切りなんですって。
善に教えてあげたら、目をまんまるにして驚いた。
ああ、なんて幸せな日なのだろう。




