謎の道
カラオケボックスの安っぽい木目調のテーブルに、無機質なタブレット端末が置かれた。
石井は無言のまま、慣れた手つきで画面を操作し始める。
青白いバックライトが、彼女の無表情な顔を不気味に照らし出した。
画面に表示されたのは——地図アプリだった。
俺は眉をひそめ、ソファから身を乗り出すようにして横から覗き込む。
「……なんで、マップなんて開いてるんです??」
石井は答えず、ただ淡々と指先で画面をピンチインしていく。
グリッド線に区切られた地図が、ゆっくりと、執拗に拡大されていく。
「実は、あれから私も少し調べてたんです」
その声は、オフィスの時よりもわずかに低く、妙に落ち着き払っていた。
やがて、画面のスクロールがぴたりと止まる。
——映し出されたのは、俺の家だった。
一瞬、肺の空気が凍りつく。
石井が次に何を口にするのか、それを想像しただけで喉の奥がひりついた。
「さっきからマップを見てたんですが……宮田さんの家、ずいぶん海岸寄りですよね?」
石井の声は静かだが、だからこそ奇妙な違和感が耳に残る。
この町は、歪な海沿いの地形にへばりつくようにして広がっている。円を描くように走る幹線道路、その内側に押し込められた住宅地。
——その、最果て。
海が見える、というよりは、海に突き出た崖の上に、俺の家はぽつんと孤立していた。
「……それがどうした?」
防衛本能から、声が少し硬くなる。
石井はやはり答えず、画面の表示を切り替えた。二次元の地図がぐにゃりと歪み、高低差を示す立体的な3Dモデルへと変貌する。建物の高さ、道路の傾斜、崖の険しさが、デジタルな陰影となって浮かび上がる。
「この道……」
石井の細い指先が、画面上の細い一本道をなぞった。
「まっすぐ行くと——」
そこで、指が止まる。
「家から真っ直ぐ、海に進むと……」
画面が滑るようにスクロールしていく。住宅地の境界線を越え、道が獣道のように細くなり——やがて、荒涼とした海岸の断崖へと行き着く。
石井が画面をフリックすると、視点がぐるりと回転した。俯瞰から、水平に近いアングルへ。
角度が変わった、その瞬間だった。
「……これ、見えますか?」
石井の指先が、画面の一点を強く指し示した。
画面の端、荒々しい岩肌の陰。
断崖絶壁にべったりと張り付くようにして、一本の細い影が伸びていた。
目を凝らす。デジタルズーム特有のノイズの向こうに見えたのは——鉄パイプで組まれた、足場のような通路だった。
幅は、人が一人通るのがやっとだろう。踏み外して海に落ちれば、まず助からない高さだ。
「こんなの……あつたか?」
思わず声が漏れた。毎日見ているはずの景色の裏側に、そんなものが隠されていたのか。
だが、石井の観察はそこでは終わらなかった。
「入口が、見当たらないんです」
淡々と、しかし確信に満ちた声で続ける。石井は通路の始点を探すように指を動かすが、崖の途中でブツリと途切れているようにしか見えない。どこにも繋がっていない。“途中から唐突に存在している”のだ。
じっとりと嫌な汗が、背中を伝っていく。
石井はさらに指を動かし、その細い鉄パイプの通路を終点まで追っていった。
そして——。
「……ここです」
画面の動きが止まった。
そこにあったのは、あの地主の広大な屋敷の裏手だった。鉄パイプの足場は、その敷地の境界である鬱蒼とした生垣の裏側へと吸い込まれている。
よく見ると、建物の陰に、わずかな隙間があった。
人ひとりがようやく通れる程度の、意図的に隠すように作られた“隙間”。
「なんすかこれ! この道……あからさまじゃないっすか!」
久城がガタッと音を立てて身を乗り出してきた。いつもの軽薄さは消え、興奮と困惑の混じった目で俺を凝視する。
「宮野さんの家、どっかに繋がってるんじゃないんすか?
床下とか、壁の裏とかに隠し通路とかさ!」
「……それはないと思う。一応、家の中は一通り確認してる」
そう答えながらも、俺の視線はタブレットの画面に釘付けのままだった。
断崖に張り付く鉄パイプの通路。
家の中で、あの壁の向こうから感じた、ねっとりとした視線。
消えた住人、そして帰ってきた“はず”の人間。
バラバラだった点と点が、脳内でカチリと音を立てて繋がっていく。
——面白い。
突然、喉の奥で何かが弾けた。
脳髄を直接揺さぶられるような、強烈な快感。気づけば、自分の口元がだらしなく緩んでいくのが分かった。恐怖が、一瞬で別の感情へと反転していく。
「……宮野さん?」
久城の、低く怪訝そうな声ではっと我に返る。
二人が、じっと俺の顔を見ていた。値踏みするような、あるいは化け物でも見るかのような目で。
「なんで……笑ってるんすか」
「……あ、いや。すみません」
慌てて手のひらで口元を押さえる。
それでも、胸の奥で燻り始めた歪んだ高揚感は消え去ってはくれなかった。
「ちょっと……考え事をしてただけです」
誤魔化すように視線を逸らす。だが、脳裏にはすでに、あの夜の闇に紛れて断崖の通路を這うように進む自分の姿が、鮮明に描き出されていた。
「家の中は探したって言いましたけど、庭は見ましたか?」
久城が何気なく言った。こいつはたまに、恐ろしいほど核心を突いてくる。
「……まだですよ」
短く返す。それだけなのに、カラオケのチープなBGMの裏で、妙に長い沈黙が流れた気がした。
三人の間に流れる、冷え切った空気。その中で、俺の思考はさらに加速していく。
——もう、こいつらにバレてもいいか。
「庭まで大がかりに調べたら、さすがに近所の人に見られますよ」
石井が静かに、釘を刺すように口を挟んだ。彼女はタブレットから顔を上げ、じっと俺の瞳の奥を見つめてくる。
「それに……宮野さん。別なことも探してますよね?」
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。一瞬、思考が完全に停止する。
俺は彼女の視線に耐えきれず、手元のグラスに目を落とした。
脳裏に浮かんだのは、あの“宝”の三文字。
市役所のホームページの片隅にあった、あのあまりにも不自然で曖昧な記述。
「……ああ、それですか」
心臓の鼓動を悟られないよう、できるだけ息を抜いて軽く言った。
「市役所のページに書いてあったんで、ちょっと気になってただけですよ」
グラスを持ち上げる。注がれたコーヒーは、すでに冷めきって黒い泥のようになっていた。それを口に含む。苦味さえも、今はほとんど感じない。
——もし今、この二人に全部知られたら。
宝どころか、この町から五体満足で出られなくなるかもしれない。それは分かっている。狂気だ。
それでも。
俺の意識は、すでに引き返せないところまで引っ張られていた。
断崖の通路。
あの家から人が「どうやって消えたのか」。その物理的なトリック。
喉の奥が、かすかに震える。
身体は恐怖でガタガタと震えているはずなのに、足を踏み入れた先にある暗闇を想像して、胸が躍っていた。
——面白い。やっぱり、面白い。
最悪、死ぬかもしれない。
それでも構わないと、どこかで本気で思っている自分がいた。




