第2話「影の歯車」
昨夜のことは——半分夢のようだった。
しかし右手がまだ痺れている。歯車を矯正したときの衝撃が残っている。膝にはあざがある。石畳に膝をついた跡。泣きながら帰ったことは覚えている。お母さんに「顔色悪いよ」と言われたことも。
ベッドに倒れ込んで——気づいたら朝だった。
目覚まし時計が鳴っている。かんかんかんかん。いつもの朝。
枕元にステッキがある。夢ではない。
ギアがカーテンレールの上で丸くなっている。夢ではない。
メガネをかけた。制服に着替えた。朝ごはんを食べた。学校に行った。
普通の一日が——始まるはずだった。
◇
昼休み。屋上。一人で。
パンを齧りながら、ギアに聞いた。
「昨日みたいなの——また出るの?」
「出るわよ。毎日どこかに。大きいのは週に一、二回。小さいのは毎日」
「毎日……」
「魔法少女ってそういうものよ」
パンを飲み込んだ。味がしなかった。
「昨日はたまたま四十五度で弱点がわかった。でも全部のジャミングが歯車型とは限らないんでしょ?」
「限らないわ。靄のような形態もある。実体のないタイプ。歯車の矯正が効かない相手もいる」
「……その場合は?」
「自分で考えなさい。あなたは技術者でしょう」
冷たい。しかし——正しかった。昨日はジャミングの歯車構造が見えたから四十五度で対処できた。しかし構造が違う敵には、違う方法が必要になる。
その時——屋上の床が揺れた。
小さな揺れ。しかし空気が変わった。重くなった。影が——濃くなった。太陽が出ているのに。屋上の床に落ちる影が——二重になっている。
ギアの翅が橙色に変わった。
「来たわ。裏門の方。——昨日とは違うタイプ」
パンを口に咥えたまま立ち上がった。ステッキはバックパックに入れてある。今日はちゃんと持ってきた。
屋上から階段を駆け降りた。バックパックを背負ったまま。四階分を飛ぶように。
裏門に出た。
見えた。
——歯車ではなかった。
黒い靄。霧のような存在。裏門の石壁に張りついて、壁の中の配管を侵食している。形がない。輪郭がない。ただ黒い霧が——壁を蝕んでいる。
「シャッテンラート。影の魔獣。ジャミングの亜種よ。実体がない。靄だから——」
「物理攻撃が通らない」
「わかってるじゃない」
昨日の歯車型ジャミングなら、歯車の矯正で止められた。しかしこれは靄。歯車がない。矯正する対象がない。
バックパックからステッキを取り出した。握った。歯車が回り始めた。
メガネを外した。ポケットに入れた。世界がぼやけた。
変身した。
昨日と同じ手順。しかし今日は——手が震えなかった。
「ロードアウト——アイアン・ブート!」
「魔法少女アイアン・ベル——起動!」
視界が鮮明になった。シャッテンラートの黒い靄の粒が一つ一つ見えた。
ステッキを構えた。蒸気が噴き出した。
——さて。どうやって倒す?
昨日の方法は使えない。靄に歯車はない。矯正できない。
蒸気を撃った。白い蒸気がシャッテンラートの靄にぶつかった。
すり抜けた。蒸気が靄を通り抜けた。手応えがない。
もう一度。出力を上げて。
すり抜けた。
「物理攻撃は通らないって言ったでしょ!」
「じゃあどうすればいいの!」
「考えなさい! あなたは——」
「技術者でしょ、わかったよ!」
考えろ。考えろ。
靄。実体がない。物理攻撃が通らない。蒸気も通り抜ける。
しかし——靄には弱点があるはず。靄とは何か。水蒸気の粒子が空気中に浮遊している状態。霧と同じ。霧を消すには——。
光。
太陽が出れば霧は消える。光のエネルギーが水滴を蒸発させるから。光が強ければ——靄も散る。
「光だ。影は光で散る」
ステッキの歯車エンブレムが回転している。ここから蒸気が出る。蒸気は物質。靄に通じない。しかし——光なら?
ステッキから光は出る。昨日の変身で光が溢れた。しかしあれは変身のエネルギーで、武器としての光ではなかった。広がる光。拡散する光。
靄を散らすには——拡散ではなく収束。一点に集中した強い光。
「ギア。エンブレムの歯車——レンズの代わりになる?」
「は?」
「歯車の歯と歯の間に光を通せば、スリットになる。複数のスリットを通った光は干渉して——一点に集まる。回折格子と同じ原理」
「あんた何言ってるの?」
「いいから——エンブレムを回して。最高速で」
歯車エンブレムの回転速度を上げた。ステッキの内部歯車を全速で回した。エンブレムが高速回転する。歯の隙間が——光のスリットになる。
蒸気の中の光が、回転するスリットを通過して——干渉した。散乱していた光が一本の線に集まった。
しかし、ただの光ではなかった。
ギアの光の粉が蒸気に混じっている。金色の粒子が光の線に乗って——回転する歯車模様の軌跡を描いた。光の線が空気中に歯車の紋章を刻みながら、まっすぐにシャッテンラートに向かって伸びていく。
収束光。
白と金の光の線が——ステッキの先端から伸びた。細い。しかし強い。歯車模様の残像を空気に刻みながら。
シャッテンラートの靄に当てた。
靄が——裂けた。
光の線が通った場所から、黒い靄が蒸発するように散っていく。霧が太陽で消えるのと同じ。しかしこれは太陽光ではない。歯車のスリットで収束させた、人工の光。
「通った——!」
しかし一撃では倒せなかった。散った場所が再び集まろうとしている。
「核があるの! 靄の中心に核がある! そこを狙って!」
核。影の中心に——何かがある。靄を維持する源。
収束光で靄を剥がした。一層ずつ。光の線で靄を切り裂いて、内側を露出させていく。三発目で——見えた。
靄の中心に、黒い小さな歯車。
「——あった」
収束光を核に当てた。光が黒い歯車を貫いた。ギアの金色の粉が光の線に沿って走り、核に触れた。黒い歯車が一瞬——金色に輝いた。正しい角度を思い出すように。そして——。
歯車が——砕けた。
シャッテンラートが散った。黒い靄が金色の粒子に変わって、風に溶けた。午後の太陽が裏門に差し込んだ。金色の粒子が光の中で踊るように舞って——消えた。
◇
変身を解いた。メガネをかけた。
裏門にベル一人。ギアが肩の上。
膝が——少し震えていた。昨日ほどではない。
「……勝った?」
「勝ったわよ。新しい技まで編み出して。収束光。回折格子の応用——よくあんなこと思いついたわね」
「工房で光学実験やったことがあるの。レンズの代わりにスリットを使うやつ」
「学校の勉強が役に立つとは思わなかったでしょ」
「……思わなかった」
手を見た。
ステッキを握っていた手。収束光を放った手。
昨日は歯車の矯正で倒した。今日は光の収束で倒した。敵が変われば——倒し方も変わる。同じ方法は通用しない。毎回考えなければいけない。
毎回——技術者として。
「ギア」
「何」
「明日も出る?」
「出るわよ」
「……明日はせめてパンを食べ終わってからがいいな」
ギアが翅を揺らした。金色の粉がベルの肩に散った。
「贅沢言わないの」
ベルは校舎に戻った。午後の授業に。
ステッキはバックパックの中。メガネの奥の目が——昨日より少しだけ、強くなっていた。




