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第1話「やれるかどうかじゃない」(前編)

 工場の音がする。


 歯車が回る音。蒸気が噴き出す音。金属がぶつかる音。ハンマーが鉄床を叩く音。大小さまざまな歯車が噛み合って、回って、何かを動かしている。


 この街は——歯車で動いている。


 蒸気歯車都市クロックハイム。百万個の歯車と千本の煙突で構成された街。電気はない。魔法もない。蒸気と歯車だけで全てが動いている。信号機も歯車式。路面電車も歯車式。街灯もガスの炎を歯車仕掛けのシャッターで点滅させている。


 この街で——ベルは生まれた。


          ◇


 朝。七時。


 目覚まし時計が鳴っている。ゼンマイ式。歯車が回って、ハンマーがベルを叩いている。かんかんかんかん。うるさい。


 手を伸ばした。ベッドから。目を閉じたまま。目覚ましのボタンを叩いた。ゼンマイが止まった。静かになった。


 もう五分。


 あと五分。


 ——ベル。起きて。遅刻するよ。


 お母さんの声が階段の下から聞こえた。


 目を開けた。


 天井。木の天井。歯車模様の壁紙。窓の外から蒸気の音が聞こえている。朝の工場が動き出している。


 起き上がった。


 ベッドサイドのテーブルに手を伸ばした。メガネ。銀色のフレーム。レンズに指紋がついている。昨日の夜、本を読みながら寝落ちしたから。


 メガネをかけた。


 世界がくっきりした。ぼやけていた天井の木目が見えた。壁紙の歯車模様の歯の数が数えられるようになった。窓の外の煙突の煙が見えた。


 鏡を見た。


 ベル・クロックワーク。十六歳。クロックハイム技術学校二年生。


 茶色い髪。肩より少し長い。寝癖がついている。右側がはねている。メガネ。銀色のフレーム。丸いレンズ。目の下にうっすら隈がある。昨日の夜、歯車機構の教科書を読みふけったから。


 背は高くない。クラスで前から三番目。手は——大きい。同い年の女の子より大きい。お父さんの手に似ている。歯車職人のお父さんの手に。


 「……行きたくないな」


 呟いた。


 学校に行きたくないわけではない。授業は好きだ。歯車の設計。蒸気機関の原理。金属加工の実習。全部好きだ。


 行きたくないのは——人がいるから。


 クラスメイトと話すのが苦手だった。何を話せばいいかわからない。歯車の話をすると「また歯車?」と笑われる。蒸気機関の話をすると「難しい」と言って離れていく。


 一人でいる方が楽だった。工房で歯車をいじっている方が楽だった。


 「ベル! 朝ごはん冷めるよ!」


 「行く!」


 制服に着替えた。クロックハイム技術学校の制服。紺のブレザー。チェックのスカート。胸ポケットに学校の校章——歯車のエンブレム。


 階段を降りた。


 キッチン。お母さんが朝ごはんを並べている。トーストと目玉焼きと蒸気で温めたミルク。お父さんの席は空いている。朝は早い。工場にもう出ている。


 「今日も遅くなるの?」


 「ん。工房で課題やる」


 「ご飯ちゃんと食べなさいよ。工房にパンだけ持ってくのやめなさい」


 「……はい」


 トーストを齧った。


 窓の外。朝の街。歯車が回っている。煙突から蒸気が上がっている。路面電車が走っている。


 普通の朝。いつもの朝。


 ——しかしこの日の放課後、ベルの日常は終わる。


          ◇


 放課後。


 学校の工房。地下一階。石壁に囲まれた実習室。旋盤と万力とハンマーが並んでいる。棚に歯車の部品が並んでいる。大小さまざまな歯車。真鍮。鉄。アルミ。


 ベルは一人で工房にいた。


 課題制作。「自立駆動する歯車機構の設計と実装」。小さな歯車を十二個組み合わせて、蒸気の力で自律的に動く機構を作る。テスト期限は来週。


 歯車を組んでいた。ピンセットで。小さな歯車の歯と歯を噛み合わせて。一つずつ。正確に。


 かちり。


 噛み合った。三番目と四番目の歯車。回転比は三対一。四番目が一回転すると三番目が三回転する。加速ギア。


 かちり。かちり。


 五番目。六番目。七番目。


 手が止まった。


 八番目の歯車。噛み合わない。角度が合わない。七番目との接合角度が急すぎる。歯が引っかかる。


 「……七十度だと引っかかる」


 呟いた。設計図を見た。自分で描いた設計図。接合角度七十度と書いてある。理論上は最短距離で噛み合う角度。


 しかし実際に組むと——引っかかる。


 理論と実装の差。


 「四十五度なら——」


 指が歯車を持ち直した。角度を変えた。七番目と八番目の接合角度を四十五度に。


 かちり。


 滑らかに噛み合った。引っかからない。回転が滑らか。


 「やっぱり。教科書は七十度って書いてるけど——手で組むと四十五度の方がいい」


 ノートに書き込んだ。シャーペンで。0.5mmの細い線で。「接合角度 理論値70° → 実測最適値45° 歯の摩耗を考慮すると緩い角度の方が長寿命」。


 その時。


 工房の奥で——音がした。


 歯車の音ではない。金属の音でもない。


 何かが——落ちた音。重いものが石の床に落ちた音。


 「……誰かいる?」


 声をかけた。返事はなかった。


 工房の奥。倉庫の扉。普段は鍵がかかっている。しかし今——扉が少しだけ開いている。


 近づいた。


 扉の隙間から覗いた。


 暗い。倉庫の中は暗い。しかし——奥に、何かが光っている。


 金色の光。


 小さな光。蛍のような。しかし蛍にしては——動きが速い。ぐるぐると回っている。光の粒子を撒きながら。


 「……何」


 扉を開けた。


 倉庫の中に入った。棚に古い歯車の部品が積まれている。埃が舞っている。蒸気パイプが壁を這っている。


 奥の隅に——それは、いた。


 金色の光。手のひらに乗るサイズの——。


 妖精だった。


 四枚の翅。金色の燐光を放つ翅。小さな体。大きな目。歯車模様の衣装を着ている。体の周りを金色の粉が舞っている。


 妖精がベルの方を向いた。


 大きな目が——ベルのメガネに映った。


 「やっと見つけた!」


 声が聞こえた。高い声。しかし子供の声ではない。はきはきした声。快活な声。


 「あなたがベルね! ベル・クロックワーク! 探してたのよ!」


 「……え?」


 「私はギア! 蒸気歯車の精霊! あなたのパートナー!」


 「パー……え?」


 「説明してる時間ないの! 外見て!」


 ギアが翅で窓を指した。倉庫の小さな窓。外が見える。


 見た。


 空が——赤かった。


 夕焼けではない。赤い。空全体が赤い。雲が赤い。煙突の蒸気が赤く染まっている。


 そして——街の中央に、何かがいた。


 巨大な影。黒い影。歯車の形をした——しかし歯車ではない。歯車の形を模した、黒い何か。街の時計塔より大きい。建物の三階分はある。


 影が動いた。街の歯車を——噛んだ。


 巨大な歯が街の歯車機構に噛み合った瞬間、歯車が砕けた。金属の破片が飛び散った。路面電車が止まった。街灯が消えた。


 街の歯車が——壊れていく。


 「ジャミング。歯車を食い荒らす闇の存在。あいつが街の歯車を全部食べたら——クロックハイムは止まる。全部止まる」


 ギアの声が——真剣だった。


 「あなたにしか止められない。ベル。あなたが——蒸気歯車の魔法少女だから」


 「魔法少女って——私はただの技術学校の二年生で——」


 「技術学校の二年生が歯車を一番よく知ってるでしょ! いいから来て!」


 ギアがベルの手を引いた。小さな手で。驚くほど強い力で。


 倉庫の棚の奥に——何かがあった。


 埃をかぶった箱。古い木の箱。蓋に歯車の紋章が刻まれている。


 ギアが蓋を開けた。


 中に——ステッキがあった。


 銀色の軸。先端に歯車のエンブレム。握りの部分に蒸気パイプのような意匠。ボタンが二つ。トリガーが一つ。


 古い。しかし——美しかった。歯車のエンブレムの歯が一本一本、精密に刻まれている。職人の仕事。


 「蒸気歯車のステッキ。あなたの武器であり工具。これを握って——変身する」


 「変身って——」


 窓の外で——轟音が響いた。建物が崩れる音。歯車が砕ける音。悲鳴。


 街が——壊れている。


 ベルはステッキを見た。


 手が——震えていた。


 怖い。


 何が起きているかわからない。魔法少女なんて知らない。ジャミングなんて知らない。ただの技術学校の二年生だ。歯車を組むのが好きなだけの。メガネをかけた。人と話すのが苦手な。普通の女の子だ。


 しかし——外で歯車が砕けている。


 お父さんの工場の歯車も。路面電車の歯車も。街灯の歯車も。この街を動かしている百万個の歯車が——壊されていく。


 ベルの手が——ステッキに触れた。


 冷たい金属。しかし握った瞬間——振動を感じた。ステッキの中で何かが回っている。小さな歯車。ステッキの内部に歯車機構が内蔵されている。握力に反応して回り始めた。


 ギアが目の前でホバリングしていた。金色の翅が光っている。


 「怖い?」


 「……怖い」


 正直に言った。


 「やれる?」


 「わからない」


 「——やれるかどうかじゃないの」


 ギアの声が——変わった。快活な声が、一瞬だけ静かになった。


 「やるの。やれるかどうかなんて、やる前にはわからない。やった後にわかる。だから——やるの」


 ベルはギアを見た。メガネの奥の目で。不安な目で。怖がっている目で。


 しかし——ステッキを握った。


 握った。


 「……やる」


 声が出た。小さかった。震えていた。しかし——出た。


 「やるって言ったね! なら——メガネ外して!」


 「え? メガネ外したら見えない——」


 「大丈夫! 変身したら見える! いいから!」


 左手でメガネを外した。世界がぼやけた。ジャミングの巨大な影がぼんやりした黒い塊になった。何も見えない。


 しかしステッキを握った右手は——震えていなかった。


 ギアが飛び上がった。ベルの頭上で高速回転した。金色の光の粉が降り注いだ。


 ステッキの歯車が——回り始めた。先端のエンブレムが回転した。蒸気がステッキの軸から噴き出した。白い蒸気。暖かい蒸気。


 ベルの足元が——光った。


 石の床に——巨大な歯車が現れた。金色の光で描かれた歯車。直径三メートル。精密な歯。軸。スポーク。全てが光の線で構成された、魔法の歯車——ギアシール。


 ギアシールが——回転を始めた。ゆっくりと。ベルを中心に。時計回りに。光の歯車の歯が一本ずつ輝いていく。かちり。かちり。かちり。


 ギアが翅を全開にした。金色の光の粉が——雪のように降り注いだ。光の粉がギアシールに触れるたびに、歯車の輝きが増していく。


 光が——ベルの足元から立ち上った。


 ブーツが現れた。銀色の装甲。蒸気パイプが脚に沿って走っている。しかし——ブーツの縁に、小さな歯車型の宝石が嵌め込まれている。金色に光る宝石。ギアの粉と同じ色。


 光がスカートに達した。制服のチェックスカートが——光に溶けて、銀色の装甲スカートに変わった。プリーツの一枚一枚が薄い金属板。裾に歯車模様のレースが走っている。動くたびに歯車レースがきらきら光る。


 胸部装甲。銀色。中央に歯車のエンブレム。肩アーマー。歯車模様のガントレット——指先だけが露出している。歯車を組むために。


 最後に——背中。


 六枚の歯車翼が、一枚ずつ展開した。扇状に。銀色の歯車——しかし歯車の縁が蝶の翅のように薄く、透けて光を通す。蒸気が翼の隙間から噴き出して、虹色に輝いた。機械の翼でありながら——蝶のように美しい翼。


 そして——髪に。


 茶色い髪が光の粉に染まって、毛先だけが金色に輝いた。髪をまとめるように——歯車型のリボンが現れた。小さな歯車が二つ重なった形のヘアアクセ。ギアの翅と同じ金色。


 メガネが消えた。しかし——目が見える。視界が鮮明になっている。メガネなしで。変身が視力を補正した。


 ギアシールの回転が——最高速に達した。光の歯車が一瞬で収束して、ベルの胸のエンブレムに吸い込まれた。


 ベルは自分の手を見た。ガントレットに覆われた手。しかし指先は素手。歯車を組むための、剥き出しの指先。


 「——名乗って! 名乗らないと変身が完了しない!」


 ギアの声が頭上から降ってきた。


 名乗る。何を。


 口が開いた。


 言葉が——出た。自分でもわからない。しかし胸の奥から、歯車が回るように、言葉が噛み合って出てきた。


 「ロードアウト——」


 ステッキを前に突き出した。先端の歯車エンブレムが高速回転している。蒸気が噴き出している。光が集束している。


 「——アイアン・ブート!」


 光が——爆発した。


 倉庫の壁が吹き飛んだ。屋根が開いた。空が見えた。赤い空。ジャミングの影。壊れていく街。


 蒸気が晴れた。


 ベルが立っていた。銀色と金色の装甲。歯車の蝶翼。歯車リボン。装甲スカートの歯車レースが風に揺れている。ステッキを右手に。左手を腰に。背中の六枚の歯車翼が扇状に展開して、一枚ずつ順番に回転を始めた。がちり。がちり。がちり。六つの歯車が噛み合う音。全翼が連動して回り出した瞬間——金色の光の粉がベルの背中から吹き上がった。


 ギアがベルの頭上を一周して、肩に降りた。歯車リボンの横に。


 ベルの目が——開いた。メガネのない目。変身が視力を補正した鮮明な目。不安が消えたわけではない。怖さが消えたわけでもない。しかし——目の奥に、歯車を組むときと同じ光があった。集中の光。


 ステッキを天に掲げた。先端の歯車エンブレムが最高速で回転している。蒸気が白い柱になって空に昇った。足元にギアシールの残光が一瞬だけ輝いた。


 「魔法少女アイアン・ベル——起動!」


 声が——街に響いた。壊れかけた歯車の街に。砕ける金属の音の中に。ジャミングの唸りの中に。


 十六歳の少女の声が、蒸気と歯車の街に響き渡った。


 ベルの目は——鮮明だった。メガネなしで。変身した目で。


 全部が見えた。


 広場のジャミング。黒い歯車の歯。壊れていく街。逃げる人々。


 怖い。足が震えている。心臓が暴れている。メガネがないから顔がむき出しで、泣きそうな目が全部見えてしまう。


 しかし——ステッキを握った手は震えていない。


 歯車を握る手。お父さんに教わった手。五歳のときから工房で歯車を触ってきた手。


 「——行く」


 蒸気歯車の魔法少女が——走り出した。


 壊れていく街に向かって。

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