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王国じまい、はじめます!  作者: 七嶋璃
身替りの王太子妃
30/39

ヒルデガルトのピアノレッスン

アレクとのわだかまりがなんとなく消えた後、ヒルデガルトとの次のお茶会は初回のお茶会から丁度一週間後、同じ曜日の同じ日時となった。

ヒルデガルトはなるべく早くと思っていたようだが、人気のある楽士のエドワードの都合がつかず、一週間後となった。

お茶会の準備の指示を出し、昼食後ゆったりと過ごしていると、約束の時間より大分早くヒルデガルトがやってきた。

セシリアが急いで応接室に向かうと、ヒルデガルトはひとりで壁に掛かった女性の肖像画を眺めていた。

「早く来すぎるのも失礼かと思ったのですが、待ちきれずに来てしまいましたわ」ヒルデガルトは莞爾と笑って言う。

「はあ」セシリアは気の抜けた返事を返すことしかできなかった。

まるでこの部屋の主は自分だと言わんばかりに堂々としているヒルデガルトに違和感を覚える。すぐに供の者が誰もいないからだと気付いた。

「今日はおひとりですか。お付きのかたは」

「どこかで時間を潰してもらうことにしました。夕方になれば迎えにきます」

「はあ」セシリアは再び気の抜けた返事を返した。

春宮(とうぐう)にピアノを聴きにきていることがベルンシュトルフ公の耳に入らないためなのだろうが、あまりに無防備ではないだろうか。早く来たことといいエドワードのピアノを堪能しようという意気込みが感じられる。

「エドワードが来るまで少し時間があるので、お茶でもいかがですか」

「ええ、でもその前に少しピアノを触ってみてもいいかしら」

「別に構いませんけれど」

ヒルデガルトは嬉々としてピアノの前に座った。鍵盤に指を落とす。ぽーんと音が鳴り響く。

ヒルデガルトは右手で鍵盤を低いほうから高いほうへと一撫でした。そのあとで、音を確かめながらひとつひとつ鍵盤を押していく。

たまに外れることはあったが、それは誰もが一度は聞いたことがあるであろう子守唄だった。

短い子守唄を弾き終えて、ヒルデガルトは満足そうに鍵盤から指を離した。

「それではお茶をいただきますわ」

ヒルデガルトは茶器が用意されているテーブルに戻り、椅子に腰を下ろした。給仕が支度を始める。

王室の紋が入った薄手のカップにお茶が注がれる。ふわりと湯気がたち、いい香りが広がる。しばらくお茶を楽しんだあと、ヒルデガルトがセシリアにたずねる。

「貴女はどのような曲がお好みですか」

「私、ですか」

セシリアは聞かれて困った。ピアノを聞くのは好きだが、自分からすすんで聞くほどではないし、これほどの熱量を持っているヒルデガルトに曲名を言うのにもためらいをおぼえた。少し考えて、ダンスの練習でエドワードが弾いてくれた何曲かを答える。

円舞曲(ワルツ)がお好きなんですね。確かにエドワードの円舞曲は素晴らしいですわ。自然と体が動いてしまうような……」ヒルデガルトはエドワードのピアノを思い起こすように、遠い目をして言う。「でも私は小夜曲(セレナーデ)が一番好きですわ。甘美で叙情的で」

更にヒルデガルトはとどまるところを知らず、早口でまくしたてる。セシリアは言っている内容は正直よくわからなかったが、ヒルデガルトがピアノについて話したいというのはよくわかった。そうこうしているうちに、エドワードがやってきた。

約束の時間より前なのに、お茶会が始まっていることにエドワードは少し驚いたようだったが、そのままピアノの前に座った。

「今日はなにから始めましょうか」エドワードが言う。

「おまかせするわ」間髪入れずにヒルデガルトが返す。

「小夜曲ではなくてよろしいんですか」

「ええ、こういうのは流れ、というものもあるのでエドワードにおまかせするわ」

「承知いたしました」エドワードが鍵盤に指を落とす。明るくて速い調子の曲が流れる。立て続けに3曲続き、小休止となった。

ヒルデガルトはエドワードにお茶を勧め、エドワードは初めは固辞したものの結局同じテーブルに着いた。

エドワードの分のカップが用意され、ヒルデガルトがさっきの調子で曲の感想を熱く語っている。それをエドワードはただにこにこと聞いている。

長く仕えてくれているマリアムはどんなにセシリアが誘っても同じテーブルにつくことはない。その点、楽士のエドワードは貴族と同じテーブルにつくということも多々あるのだろう。落ち着いていて場慣れている、という印象をセシリアは受けた。

(わたくし)が迂闊にもピアノを弾いてみたいといってしまったばっかりに、エドワードをうちに呼べなくなってしまったのは返す返すも残念でなりませんわ」

「ピアノを弾きたいというのがそんなに咎められるようなことなのですか」

「お父様にとってはそうだったのです。その、貴女の前では言いにくいのですが、普通の貴族に嫁ぐのであればピアノが弾けるというのは役に立つのかもしれません。しかし、王太子妃にとっては必要がない、と。お父様はピアノを弾く暇があれば、もっと役に立つことをやったほうがいい、というお考えなのです」

確かに楽器を習う貴族の子女はいるが、必須の教養ではないし、あくまでも好きで趣味でやるといった意味合いが強い。シーラッハ家の兄妹も楽器など習う余裕もなく、ピアノはセシリアが幼い頃にとっくに売り払われていた。

セシリアは貧乏でできないことはたくさんあったが、両親に禁止されたことは特になかった。セシリアの嫁入りが見込めないといった事情があったにせよ、ずいぶんと自由にさせてもらった。

かたやヒルデガルトはすべてベルンシュトルフ公に決められて、自由になることなどほとんどないのだろう。

カップに添えられたヒルデガルトのきれいに磨き上げられた爪を見ながら、セシリアは頭に思い浮かんだことをそのまま口にしていた。

「今からエドワードにピアノを教えてもらったらいかがですか」

「……え」

「ピアノを聴きに来ていることはベルンシュトルフ公には秘密なのでしょう。秘密ついでにエドワードに教えてもらえばよろしいんじゃないでしょうか」

驚きのあまり固まっているヒルデガルトは置いておいて、エドワードにたずねる。

「エドワードはどうかしら」

「私でよければ」

「え、っと、私、弾いてもいいんですか」ヒルデガルトが上ずった声でたずねる。

「誰にも知られなければいいんじゃないかしら」

セシリアは給仕たちを下がらせ、ヒルデガルトはエドワードにうながされるままにピアノの前に座った。エドワードが説明をはじめ、ヒルデガルトが真剣に聞き入っている。

「あの、私は外したほうがいいかしら」エドワードの説明が一区切りついたところで、セシリアが申し訳なさそうに聞く。

「聞かれるのは恥ずかしいけれど、いてください。お茶会の最中なのに貴女がほかの場所にいるのは不自然でしょう」

「そうですね。あの、本か刺繍かなにか持ってきてもいいかしら」

ヒルデガルトはただうなずいた。セシリアは自室に向かい、刺しかけの刺繍と本を一冊持って戻った。

集中しているふたりを傍目に、テーブルにつき本を広げる。ぽろんぽろんと曲というには未熟な音を聞きながら本を読み進める。

ヒルデガルトの初めてのレッスンは、思いのほか早く終了した。ヒルデガルトの頬は薔薇色に染まり、明らかに高揚しているのがわかった。

「ありがとう。私、ずっとピアノを弾いてみたいと思っていたの」ヒルデガルトがエドワードに礼を言う。そしてセシリアのほうを向き、少し固い調子で言った。

「貴女にもお礼を言うわ。ここに来なければピアノを弾けることはありませんでしたから」

セシリアは本から目を上げ、ただ微笑んだ。

「弾けるようになるには、続けて練習できる場があればよいのですが」エドワードがおずおずと言う。それはセシリアも考えていたことだった。

「このお茶会を定例にしましょう」セシリアは本を閉じて立ち上がった。

「春宮で毎週お茶会をすることに問題はないかしら。定期的に春宮に来ることをお父様はどう思われるかしら。アレ……王太子殿下はお許しになると思うのだけれど」

「父は、問題ないと思います。私が王太子妃になれないのであれば、せめて王太子殿下の動向を知りたいと思うでしょうから」

「随分率直におっしゃるんですね」失礼な物言いだなと思いながらも、セシリアは言わずにいられなかった。

「父に対しては思うところがないわけではありません。でも、今の父の地位のおかげでこうしていられる。それは重々わかっています。それにこのような場と機会をいただいて貴女に感謝もしているのです」ヒルデガルトは眉根を寄せて言う。

「こちらこそベルンシュトルフ家の方と親しくできるのはありがたいことです」

「貴女も直截におっしゃるのね。シーラッハ家の姉姫は変わった方だと聞いていたけれど、本当のようですわね」

「貴族の娘として常識がないだけです。私は修道院に入るはずでしたから、その、貴族の子女としての教育はほとんど受けていないのです。ですから、ほかの方からは変わっているように見えるのでしょうね」セシリアはため息交じりに言った。

「とにかく、エドワードと日取りを決めていただければと思います。来客はほとんどないので応接室はだいたい、いつでも空いていますから」

ヒルデガルトとエドワードは次の日取りを話し合い、帰宅の途についた。帰り際、ヒルデガルトはピアノのレッスンが受けられる喜びとセシリアの手を借りる不本意さが綯い交ぜになった表情を浮かべて言った。

「また来るわ。この恩義には必ず報います」

「どうぞ、お気になさらず」セシリアが笑って答える。

ヒルデガルトのほうが年上なのだが、どことなく妹のカタリナを思わせるところがあり力を貸してあげたいという気持ちになる。

セシリアは午後の柔らかな光の中、ベルンシュトルフ家の豪奢な馬車を見送りながら、アレクに今日のことをどう報告しようかと考えていた。

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