アンヴァル
その夜、寝室で心配していたアレクにお茶会の顛末を話すと何とも言えない不思議な顔をした。
「それで特に話もせずに、ふたりでピアノをずっと聴いていた、と」
「はい」
「全く意味がわからない。ヒルデガルトは一体、なんのために来たんだ」
「わかりません。ただピアノは相当お好きなようでした。そのためにベルンシュトルフ公からエドワードを呼ぶことを禁止されてしまったと言っていました。そのエドワードがいたことで用件は放っておいて、ピアノに夢中になってしまった、ということだと思います。私の推測ですが」
「そういうことになるのか」アレクが納得していない顔で言う。「今日の茶会についてはわかった。しかし、再度ヒルデガルトを呼ぶ、とはどういった訳だ」
「それは……あまりにピアノがお好きなようなのに、聴けないのがなんだか気の毒な気がして、またピアノを聴きにいらっしゃいますかといったら、いらっしゃると。ヒルデガルト嬢にとってはベルンシュトルフ公に知られないでピアノを聴けるいい機会ですから。お誘いしないほうがよろしかったですか」
アレクはセシリアの言葉を聞いてしばらく考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「そんなに聴きたいのならば好きなだけ聴かせてやればいい。ヒルデガルトがこちらにいい感情を持ってくれるに越したことはない。特に話もなかったということならば、セシリアの様子を見に来たのだろう。王太子妃の座を奪えるかどうか」
「……」
まだ正式ではないし、なりたくてなった王太子妃ではないが、今さらその座を追われるというのは穏やかな気持ちではいられない。ようやく春宮での暮らしにも慣れ、知り合いも増えた。食事の心配をせずに、おいしいものをお腹いっぱい食べられる生活というのも、捨てがたい。
「ベルンシュトルフ公がどう動くかわからない以上、ヒルデガルトと親しくなっておくに越したことはない。セシリアが嫌でなければだが」
「私は、嫌ではないです。ほとんど会話はしませんでしたが、ヒルデガルト嬢も悪い人には見えませんでした」
「ではヒルデガルトのことはセシリアに任せた。俺もベルンシュトルフ公の動向には目を配っておく」
「はい、お願いします」
しばし沈黙が流れる。その沈黙を打ち消すように、アレクが口を開く。
「何事もなければ、明日、アンヴァルがこちらに到着する。おそらく昼頃になるだろう」
「そうですか」セシリアが笑みをこぼす。
「アンヴァルの世話はクラウスに任せようと思う。もちろんセシリアの馬だから、セシリアの自由にしてもらって構わない。なにかあればクラウスに相談すればいい」
「はい」セシリアは、麦わら色の髪の年若い馬丁を思い浮かべてうなずいた。
「セシリア」
「はい?」改めて名を呼ばれ、セシリアはアレクに向き直った。
「……いや、なんでもない。おやすみ」アレクはなにか言いかけたが、結局何も言わず奥の間に引っ込んだ。
翌朝、いつも通り寝室でアレクと朝食を食べ、私室で着替えて厩へと向かう。馬にブラシをかけ、アレクを見送る。
「クラウス」出来そうな仕事を一通り終えたセシリアは、馬房に藁を敷き詰めていた馬丁に声をかけた。「仕事中にごめんなさいね。少し話がしたいのだけれど」
「はい、殿下」クラウスはピッチフォークを藁束に突き刺すと馬房から出てきた。
「アレクに聞いたのだけれど、アンヴァルのお世話はクラウスがしてくれるのよね」
「は、はい」クラウスは帽子を慌てて取り、胸の前でぎゅっと握りしめた。
「これからよろしくお願いします」言いながらセシリアは手を差し出した。
クラウスは面食らった顔をして、周りを見回した。そして自分を助けてくれそうな仲間が誰もいないとわかると、右手をズボンで拭ってセシリアの手をそっと握った。
「こちらこそ若輩者ですが、精一杯務めさせていただきます」
「いえ、そんな。私こそ馬のことはまだまだ知らないこともたくさんあるから、もっと知りたいと思っているの。色々と教えてちょうだいね」
「はい」クラウスは開放された右手を宙に浮かせたまま、大きくうなずいた。「アンヴァルは昼前くらいに到着すると思います。到着したらすぐにお知らせします」
「ありがとう。よろしくお願いするわね」
セシリアは私室に戻り、オリガに護身術を午前中に教えてもらうことにした。午後はアンヴァルと過ごしたいと思ったからだ。
護身術を教えてもらっている間も、ずっとアンヴァルの到着を心待ちにしていたが、その知らせは届かなかった。
護身術の講授が終わり、着替えを済ませ食堂に移動しようとしていると、アンヴァルが到着したとクラウスが知らせに来た。
厩に着いたセシリアの目に入ったのは、アンヴァルの世話をするアレクだった。
「何でいらっしゃるんですか」てっきり王宮に行ったものと思っていたセシリアが聞く。
「俺がアンヴァルを迎えに行った」アレクは近くにいた馬丁にブラシを渡し、セシリアに向き直った。「俺がアンヴァルを連れてきたかった」
「お忙しいでしょうに」
「いいんだ。俺は……もっとセシリアと時を過ごしたい」
セシリアは、何と言ったらいいかわからずただうなずいた。
「セシリアがアンヴァルに慣れて乗りこなせるようになったら、遠乗りに行こう。遠乗りでなくてもいい、近場でもいい。俺とファクシ、セシリアとアンヴァルで出かけよう」
「……はい」
「昼食は一緒に食べよう。食べたらちゃんと王宮に行くから」
「はい」
セシリアは、アレクが腕を差し出す前に、自分からアレクの袖口に触れた。
アレクは大きく息を吸った後、柔らかく笑った。
アレクが肘を軽く曲げ、セシリアがそこに手をかけると、ふたりは食堂に向かった。




