第1話 機が満ちました
「お父様、お母様。今まで育てていただき、本当にありがとうございました」
その言葉を聞いた瞬間、父は味噌汁の椀を取り落としかけた。
母は箸を止めた。
兄は唐揚げを口に運びながら、眉をひそめた。
そして三人は、ほぼ同時に私を見た。
「……何?」
母が代表して尋ねた。
「ですから、これまで二十年にわたり――」
「いや、そこじゃなくて。何。急に」
「感謝を申し上げたのです」
「それは聞いた」
父が妙に低い声で言った。
「その先を聞いている」
私は頷いた。
どうやら、ようやくこの日が来たのだという感慨のせいで、少々前置きが長くなってしまったらしい。
仕方がない。
一度息を整え、私は改めて家族を見渡した。
「機が満ちました」
沈黙。
台所の換気扇だけが、ぶうん、と低く鳴っていた。
兄が唐揚げを咀嚼する。
「何の?」
「布教です」
今度こそ完全な沈黙が訪れた。
母が目を閉じた。
父は天井を見た。
兄は二個目の唐揚げに手を伸ばした。
「お母さん」
「うん」
「俺、前から言ってたよね」
「言ってた」
「こいつのアレ、治ってないって」
「聞こえていますよ、お兄様」
「聞かせてんだよ」
私は少々不満だった。
二十歳にもなった妹を、いまだに中学二年生の頃と同じ扱いをするのはいかがなものか。
「誤解のないよう申し上げますが、これは思春期特有の自己同一性形成に伴う一過性の空想ではありません」
「中二病ってそういう言い方すると強そうだな」
「そもそも私は中学二年生以前から一貫して同じことを申し上げています」
「そこが一番怖いんだよ」
兄は冷静だった。
私の名は天城光莉。
二十歳。
都内の大学に通う二年生である。
そして前世は聖女だった。
もっと正確に言えば、アルセリア聖教国において第七十三代聖女を務め、十六歳で神託を受け、十八歳で北部疫病を鎮め、十九歳で魔王軍による第三次侵攻に従軍し、二十二歳で死亡した。
原因は戦傷だったと思う。
最後の記憶は、薄暗い神殿の天井と、私の手を握って泣いていた侍女の顔である。
そして次に目を開けたとき、目の前には巨大な女の顔があった。
母だった。
最初は巨人族に転生したのかと思った。
違った。
私が赤ん坊になっていただけだった。
当時の私はかなり混乱したものだが、二十年も経てばさすがに慣れる。
自動車にも乗れる。
スマートフォンも使える。
Suicaだって持っている。
前世の私に見せたら間違いなく神器と勘違いするだろう。
だが、私には一つだけ、二十年間変わらなかったものがある。
使命である。
「ということで」
私は椅子から立った。
そして食卓の下に置いておいた紙袋から、一冊のファイルを取り出した。
どん、とテーブルに置く。
父の眉間にしわが寄った。
「……何だ、それ」
「事業計画です」
「宗教で事業計画って言った?」
「便宜上です」
ファイルの表紙には、私が二週間かけて作ったタイトルが印刷されている。
《現世救済計画 第一期活動方針》
副題。
《地域共同体における信仰・福祉・精神支援機能の再構築について》
兄が覗き込み、露骨に嫌な顔をした。
「ガチじゃん」
「もちろんです」
「パワポじゃなくてWordなのもガチ感あるな」
「百二十七ページあります」
「もっと嫌だ」
母が恐る恐る手を伸ばし、ファイルを開いた。
目次だけで四ページある。
第一章、活動理念。
第二章、日本社会における宗教的需要の分析。
第三章、初期信徒獲得戦略。
第四章、収支計画。
第五章、リスク管理。
第六章、宗教法人化に向けた中期ロードマップ。
「光莉」
「はい」
「お母さん、聞きたいことがあるんだけど」
「何でしょう」
「いつ作ったの?」
「高校三年生から草案を作り始めました」
母はそっとファイルを閉じた。
「受験勉強は?」
「並行して行いました」
「だから第一志望落ちたの?」
「それとの因果関係は証明できません」
「あるよ」
兄が言った。
失礼な。
確かに受験前の十二月に《現代日本における世俗化と共同体機能の分離》について六千字ほど考察していたが、模試の判定は悪くなかった。
「待て」
父がようやく口を開いた。
父は地方銀行勤務、五十三歳。
私の知る限り、人生の大部分を住宅ローンと金利とコンプライアンスに捧げてきた人物である。
当然、こういった話には家族で最も弱い。
「布教って、具体的に何をするつもりだ」
「まずは小規模な集会を開催します」
「どこで」
「我が家で」
「駄目だ」
「即答ですね」
「当たり前だ」
「では市民センターを借ります」
「もっと駄目だ!」
「なぜです」
「名字出るだろ!」
なるほど。
家族の風評リスク。
計画書に記載がなかった。
私は手帳を取り出した。
「ご指摘ありがとうございます。リスク一覧に追記します」
「やめろ。会議みたいにするな」
「そもそも!」
父が机を叩いた。
「宗教なんて簡単に始めていいものじゃないだろ!」
「信教の自由は日本国憲法第二十条により――」
「法律の話をしてるんじゃない!」
「ですが宗教活動そのものについては届出制ではありません」
「調べてる!」
「当然です」
二十年間、日本に住んでいたのである。
その程度のことを知らずに布教を始めるほど無責任ではない。
前世でも神殿運営には帳簿と規則が必要だった。
神の意志があろうとなかろうと、人間が三人以上集まると書類が発生する。
これは世界を越えて不変の真理らしい。
「お父さん」
母が静かに言った。
「一回、話だけ聞いてあげたら?」
「お前まで何言ってるんだ」
「だってこの子、どうせ止めてもやるよ」
母は私を見た。
私は微笑んだ。
「はい」
「ほら」
「『はい』じゃない!」
父が頭を抱えた。
兄はスマートフォンをいじっている。
薄情な兄である。
「お兄様からも何かありませんか」
「あるよ」
「お願いします」
「宗教名は?」
私は少し姿勢を正した。
重要な質問だ。
「《慈愛と光明による現世救済会》です」
兄がスマートフォンから顔を上げた。
「ダサい」
「……何と?」
「長いしダサい」
「名称には、我々が目指す慈愛の実践と――」
「略称どうすんの。慈光会?」
「それでは病院の名前のようではありませんか」
「現世救済会?」
「怪しいです」
「全部怪しいよ」
不思議なことを言う。
母が計画書を再び開いた。
「ねえ光莉。ここに『初期目標、信徒五十名』って書いてあるけど」
「はい」
「誰かもういるの?」
「いません」
「ゼロ?」
「ゼロです」
「五十人も集めるの?」
「まず三か月以内を想定しています」
「どうやって?」
「駅前で説法を」
「やめなさい」
母の拒絶は父より速かった。
「ではSNSを活用します」
「何を投稿するんだよ」
兄が聞く。
「神の教えを」
「伸びなさそう」
「なぜです?」
「説法のショート動画とか誰が見るんだよ」
「人類すべてに必要な内容ですが」
「TikTokってそういう仕組みじゃないから」
ここにきて私は、初めて小さな不安を覚えた。
計画上、初期の布教チャネルとしてSNSはそれなりに重要な位置を占めている。
「……お兄様」
「何」
「後ほど相談に乗っていただけますか」
「嫌だよ。俺を宗教の広報担当にすんな」
「月二万円までなら活動協力費を――」
「金払えばいいって話じゃねえ」
「金は大事ですよ」
「聖女が言うセリフじゃないだろ」
「聖女だから言うのです。善意だけで組織を運営すると必ず誰かが無償労働を背負います」
兄は黙った。
父も黙った。
母だけが、
「そこは妙にまともなのよね、この子」
と呟いた。
私は再び椅子に座った。
「いずれにしても、本日はご報告です。明日から具体的な活動を開始します」
「明日!?」
「はい」
「何するの?」
「第一回布教活動です」
「だから何を」
「大学で同志を募ります」
兄が笑った。
「宗教サークル作るの?」
「まずは学生団体としての登録を検討します」
「絶対学生課に警戒されるぞ」
「活動内容は適切に説明します」
「何て?」
「祈祷、人生相談、治癒、霊的災厄への対処――」
「最後二つ消せ」
「なぜです」
「怖いからだよ」
「治療は有益では?」
「医療行為になったらもっと面倒だろ」
確かに。
私は手帳に《医師法との関係確認》と記した。
「ところで」
母が言った。
「前から気になってたんだけど」
「はい」
「光莉って、本気で自分が聖女だったと思ってるの?」
それまでとは少し違う声だった。
食卓が静かになる。
これは家族の中で、何度か触れられそうになって、なんとなく避けられてきた話題だった。
私は幼いころから前世について話していた。
三歳の私は母に、
「以前の世界では、聖堂の鐘は朝六つ鳴りました」
と言ったらしい。
五歳のときには、七夕の短冊に、
《この地にも神殿が建立されますように》
と書いた。
小学校の卒業文集では将来の夢を、
《再び聖女として人々に仕える》
と記した。
中学ではかなり浮いた。
高校では学習したので、聞かれない限り話さなくなった。
家族も次第に、「光莉はそういう世界観を持っている」と処理するようになった。
つまり。
誰も本気にはしていない。
「はい」
私は答えた。
「思っています」
父が苦い顔をした。
「記憶があるのか?」
「あります」
「夢とかじゃなく?」
「二十二年分、おおむね」
「だったら」
兄が面白半分に言った。
「証拠とかないの?」
「ありますよ」
三人が止まった。
「……あるの?」
「はい」
「初耳なんだけど」
「聞かれませんでしたので」
「二十年一緒に暮らして、そこ黙ってたの?」
「言っても信じていただけないかと」
「今さら宗教始めるって言ってるやつが、そこだけ慎重になるなよ」
それもそうだった。
私は右手を差し出した。
掌を上に向ける。
「何するの?」
母が尋ねる。
「簡単なものを」
目を閉じる。
二十年間、一度も完全には失われなかった感覚。
この世界には、前世ほど濃密ではない。
けれど、確かに存在している。
身体の奥から光が立ち上がる。
祈りというほど大げさなものではない。
呼吸するように、ほんの少し力を流す。
掌の上に、小さな光球が浮かんだ。
白く、淡い光。
蛍より明るく、電球より柔らかい。
それは音もなく宙を漂い、食卓を照らした。
父の口が開いた。
母は目を見開いた。
兄の手から唐揚げが落ちた。
衣が皿の端で跳ねた。
「……は?」
兄が言った。
「《小灯》という初歩的な奇跡です」
「いや」
「暗所を照らす以外、特に用途はありません」
「そうじゃなくて」
「もっと分かりやすいものがよろしいですか?」
「待って待って待って」
母が立ち上がった。
「光莉、ちょっと待って」
「はい」
「それ何?」
「奇跡ですが」
「だから!」
私は首を傾げた。
ずいぶん驚いている。
そこまで珍しいものではないのだが。
前世なら、神殿学校に入ったばかりの子供でも使える程度の術である。
「消せる?」
父が聞いた。
「もちろん」
指を閉じる。
光が消えた。
食卓は元のLED照明だけになる。
誰も喋らない。
私は箸を取った。
味噌汁が少し冷めていた。
「……というわけで」
私は一口飲んだ。
「明日より布教を開始します」
「いやいやいやいや!」
三人が同時に叫んだ。
父が立ち上がる。
「先にそっち説明しろ!」
「そうよ! 二十年間何してたの!」
「いや俺いま人生で一番怖いんだけど!」
「落ち着いてください」
「お前が一番落ち着くな!」
兄が両手で頭を抱えた。
「本物じゃん! お前、本物のやつじゃん!」
「先ほどからそう申し上げています」
「そういう問題じゃねえんだよ!」
母が私の肩を掴んだ。
「他にもできるの?」
「治癒、浄化、祝福、結界など」
「病気治せるの!?」
「種類によります」
「幽霊見える!?」
「見えます」
「家にいる!?」
「今はいません」
「今は!?」
質問が一気に増えた。
私は少々困った。
これでは計画書の説明に戻れない。
「皆様」
私は掌を叩いた。
「質問は順番にお願いします」
「家族会議を仕切るな!」
「まずお父様から」
「布教中止!」
「却下します」
「何でだ!」
「機が満ちたからです」
「それ万能ワードじゃないからな!」
食卓は騒然としていた。
母は私の手を何度もひっくり返して光の発生源を探し、父は「警察」「大学」「宗教法人」「マスコミ」など単語だけを呟きながら頭を抱え、兄はなぜかスマートフォンで《手から光 仕組み》と検索していた。
私は、その光景を見ながら少しだけ懐かしい気持ちになった。
前世で初めて神託を受けた日のことを思い出したのだ。
あの日も周囲は大騒ぎだった。
司祭たちは走り回り、鐘が鳴らされ、私は何人もの大人に囲まれた。
ただ、一つだけ違う。
前世の人々は私が聖女だと知った瞬間、跪いた。
今世の家族は誰一人として跪かない。
「光莉!」
「はい」
「とりあえず明日は大学休め!」
「講義がありますので休みません」
「布教はするな!」
「空きコマに行います」
「するな!」
私は思わず笑った。
こちらの方が、どうやらずっと大変そうだ。
だが悪くない。
神殿もない。
司祭もいない。
信徒はゼロ。
両親からの理解すら得られていない。
それでも私は、もう一度ここから始めるのだ。
この世界に生まれて二十年。
学び、観察し、待ち続けた。
準備は整った。
機は満ちた。
「では明日、まず一人目の信徒を獲得して参ります」
「目標設定が営業なんだよ!」
兄の叫びが、我が家に響いた。
こうして。
後に国内最大級――とまではまだ誰も想像していない新興宗教は、東京都郊外の、ごく普通の一軒家の夕食時に誕生した。
初日時点の信徒数、ゼロ名。
家族支持率、ゼロパーセント。
前途は、極めて多難であった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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