あくる日迷子・前編
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オフィスビルの立ち並ぶ道路を降り出した強い雨が容赦なく叩きつける。
先刻まで太陽が出て道路を照らしていたが、十分もしないうちに空は曇り、一気に雨へと様変わりしていった。
雨の湿気と道路に残る夏の熱気がぶつかり合い、不快指数は一気に跳ね上がる。
傘をさして歩いても雨が衣服の裾や靴の中を、汗がじわりと背中を濡らしていく。
じっとりとした空気にトウマはため息をついた。
「………シャワーと冷房が恋しい」
片手に傘を持ち、反対側の肩に防水の買い物バッグをかけて、トウマはオフィスビルの軒下へ入り込んだ。
アイロンで整えた短い髪も湿気で重くなってるし、ワックスで動きを足した前髪も汗で額に張り付いている。鏡を見たいけれど見たくないような…そんな気分に襲われた。染めたばかりのシルバーブルーなのに…気分が上がらない。
こんな雨の強い時に買出しへ行かせた相手に恨み節を言ってやりたい気分だ。
傘の水滴をある程度落とし、トウマは商業ビルの地下へ通じるやや急な階段を下っていった。
階段を下りきった先にはトウマの職場、地下喫茶店・睡蓮文具店の入口が見えてくる。
「ただいまー」
扉を開ければ頭上で来客を知らせるドアベルが軽快な音を立てた。
芳醇なコーヒーの香りと冷房のひんやりした空気が出迎えてくれる。
ちらっと店内の壁掛け時計を確認すれば現在時刻は十時を少し過ぎたあたり。開店して三十分は経つというのに店に客の姿はない。
地下にある喫茶店だが、狭すぎず広すぎない店内。店の出入口から低い段差を三段下がって広がる空間は不思議と圧迫感を感じさせず、壁付けの燭台風ライト、テーブルランプがシックな雰囲気を醸し出してくれている。
トウマの声が聞こえたのか、キッチンフロアから背中まである黒髪を首の後ろで一つにまとめた女性、シオが顔を出した。
「おかえりなさい、トウマ。買い出しお疲れ様です」
二十代の後半になる彼女は、落ち着いた大人の雰囲気がある。薄化粧にスッキリとした一重の瞳が小綺麗さと生真面目な印象を与える。制服の上に黒いエプロンを身に付けた、この喫茶店の店長だ。
「本当だよ。おかげで全身びっちょり…。シオ、衣類乾燥機使わせて」
「構いませんけど…ズボンはともかく靴は使えませんからね?」
「わかってるよ、靴の中に新聞紙突っ込んどく」
シオに買い物バッグを渡してスタッフルームに入っていくトウマ。
以前、シオが家から持参し、そのままスタッフルームに居座っている衣類乾燥機。そいつに濡れたズボンと靴下を入れ自動乾燥モードにセット。靴も脱いで新聞紙を敷いたり、丸めたものを中に入れておいた。
汗で濡れたシャツは体を拭いたタオルと一緒に予備で持ち歩いているビニール袋にいれてロッカーの中へ。
替えの靴下と仕事用の靴、制服を身につけフロアに戻った。
「…閑古鳥鳴きすぎでしょ、うちの店」
呆れたため息をつい吐いてしまうのも、もう何度目か。
着替えやその他のことに二十分も使ったというのに、店内には相変わらずシオしかいない。
「仕方ないですね。うちは知る人ぞ知る、隠れ家カフェですから。平日の午前なんてこんなものですよ」
そのシオはというと、キッチンブースの方でトウマに買ってきてもらった調味料を容器に移し替えたりしている。
「隠れ家カフェって言ってもさ、お客さん来なかったら商売にならないじゃん。駅近といえど周りは全部オフィスビル。ショッピングできる店とかゲーセンも近くになし。ライバルになる喫茶店や居酒屋も少ない。条件は完璧だけど、地下にあって見つけられにくいし、看板も地上に出てないって、どうなのさ」
「常連のお客様からはウケがいいんですよ。秘密基地みたいで落ち着くってね」
トウマがぼやくとシオはいつもの不満ごとねと呆れながら食品をしまったり調味料を整理したりと作業を続けていく。
「やっぱさ、文具店って名前、変更したほうがいいんじゃない?喫茶・睡蓮とかさ。そうしたら客入りもよくなってお給料も増えるかもだし」
「それは以前オーナーに相談して却下されました。睡蓮文具店は文房具店兼喫茶店じゃなきゃだめだって」
ぼやき続けるトウマにシオが何度も繰り返す却下理由を伝える。一応、文具店と名乗れるよう会計カウンターの横にはコーヒーカップの付箋メモやブックマーカー、万年筆やインク壺などが数点販売されている。
「やっぱだめかー…オーナーっていま、二号店にいるんでしょ?一号店のことはシオに任せてるんだから、融通利かせてくれてもいいのにな」
「わたしに聞かれても困りますよ。…できるならわたしだって改名したり、特設サイトを立ち上げて大々的に広めたいんですから」
「一号店より二号店が栄えてるってさ、店長としてどう思うの?」
「その点はノーコメントで」
軽快なやりとりを続けていたシオの目が遠くなったのを瞬時に判断したトウマは早々にこの話題を掘り下げるのをやめた。シオの機嫌を損ねたら彼女は無言を貫くだろうし、それをやられたら無言が苦手な自分はきつい。気まずいのも居心地悪いのもごめん被る。
「それに、どうせランチタイムになったら人が雪崩れ込んできますよ。ぶつくさ言わない」
「へーい」
シオがこの店の店長になったのはつい半年前。
最初こそ従業員と店長と言う立場を気にして敬語を使おうとしていたトウマだったが「敬語使われても違和感しかないからそのままで」という彼女の言葉に従ってあえてタメ口で接している。
入社したてからこうだったわけではないが、今はもうこれが当たり前になっていて、敬語に戻す隙もなくなってしまった。
客がくるまで暇だ…と店内の小物の位置を直していると、フロアの一角に黒い毛の塊を見つける。
「……シオ、うちの店に犬のぬいぐるみなんてあった?」
「ぬいぐるみ?」
調味料容器を元の場所へ戻し、買い出しの品をしまい終わったシオがキッチンスペースから出てくる。フロアのソファスペースで丸くなってる毛の塊…もとい、犬のぬいぐるみ(?)に気づき「ああ」と返事をした。
「店の前でずぶ濡れになってたから保護したんです」
「ボーダーコリー?」
「見た目で判断すれば恐らく」
「てことは…迷子?飼い主は?」
「周辺を探したんですけど、それらしい人がいなかったので。雨が上がったら動物保護センターや警察署に届けようと思ってます」
自分のことを話していると気付いたのか、黒い毛並みのボーダーコリーが嬉しそうな顔をしてトウマの足元までひょこひょこと歩み寄る。
大きさから見るに成犬。首輪もない。ハフハフと舌を出して甘えたような表情でトウマの手に鼻を寄せて匂いを嗅いでいる。
「人懐っこいみたいで、わたしもそれやられました」
シオが穏やかに笑う。
ボーダーコリーは匂いを嗅いで満足したのか、しっぽを振ってこちらを見つめている。
「…なにこいつ、めちゃ可愛いじゃん」
甘えたそうにしているワンコに先に折れたのはトウマの方で、クシャクシャに顔を緩ませてボーダーコリーに抱きついた。
「即落ちじゃないですか」
「こんな可愛いの見て落ちないやつなんていない」
落ちないのは人間じゃない!と豪語してトウマはボーダーコリーをウリウリと撫で回す。
当のボーダーコリーはというと、撫で回されるのが嬉しいのかしっぽを降る速度が一段階上がったようだ。
「ねぇ、シオ。こいつさ…」
「ダメです」
「まだ何も言ってない!」
「この店で飼えないか、でしょ?ダメです」
「なんでだよ!いいじゃん!看板犬!こんなに大人しくて人懐こいのに!」
不満げに抗議するトウマ。ボーダーコリーを背後から抱えて前足を掴むことも忘れない。
彼の言葉を分かっているのか、ボーダーコリーもワフ!と追い打ちをかける。
「おっ、お前言葉わかるのか。賢いなぁ!よし、今日からお前は喜左衛門だ!」
「勝手に名前をつけない。そして誰ですかそれは」
「忘れた!直感!でもイケてるっしょ!」
「そうじゃなくて…名前なんて付けたらセンターに届けにくくなるでしょ」
「だから看板犬にしようって言ってるじゃん!ボーダーコリーで名前もかっこいい!しかも可愛イケメン!この三拍子揃った逸材を逃がすなんて、人材…いや犬材を見抜く目がない!」
「言ってること無茶苦茶すぎ…第一、わたしが許可してもオーナーが許可するかどうか…」
頭痛がする…と、こめかみを押さえるシオ。
喜左衛門と名付けられたボーダーコリーは嬉しそうにワンワン!と吠えて、トウマとはしゃいでいる。
「喜左衛門!お前も名前付けられて嬉しいかぁ!そっかー!よかったなぁ!」
可愛いやつめ!とぎゅっと強く抱き着くトウマ。
抱き着かれてさらにテンションがあがる喜左衛門。
こんなかわいい喜左衛門とお別れするなんてあり得ない。トウマは喜左衛門に頬擦りしながらぱっと思いついたことを口にする。
「ならさ!オーナーも断れないように外堀埋めようよ」
「はい?どうやって?」
「ワタルだよ、ワタルからも推薦してもらって喜左衛門を看板犬にする!」
「……確かに、彼はオーナーの甥っ子ですし…推薦という手もなくはない…か?」
家族を味方につけて推薦というのはちょっとズルい気もする…と悩んでいるシオ。なんのかんのと言いながら本気で喜左衛門を拒む気はないようだ。
「よぅし、決まり!いつもならこの時間帯に来るよな?」
時計を確認すれば午前十一時を回ろうとしていた。ランチタイムのオーダーは十一時半からなので、もうそろそろ最初の客か、あるいは民俗学者のフィールドワークと称して件のワタルが入り浸りに来るか。
「そうですね。予定がなければもうじき、くると思いますけど…」
シオが入口を確認すると、次いでバタバタと激しい足音と共に扉が殴り開けられバタン!と荒々しい音を立てる。来客ベルが激しく打ち鳴らされて、噂の渦中の人物、ワタルが焦った様子で入ってきた。
「二人とも、この犬知らないか!?」
ライトブラウンの肩先まであるミディアムヘアは汗や湿気でしっとりして、顔に張り付いている。息もあがっている様子から走ってきたのだろう。
いつも余裕があって落ち着いている彼がここまで慌てているのを見たことがない、とシオとトウマは顔を見合わせる。
ワタルが開け放たれた扉から手を離すと、勢いを付けたまま音を立てて閉まる。いつもなら扉は静かに開け閉めしてと注意するシオだが、今日はワタルのただならぬ様子に言葉を飲み込んだ。
彼は慌ててジーンズのポケットからスマホを取り出し、画面を二人に見せる。
スマホの画面には茶色のボーダーコリーが畳の上で行儀よくお座りしている写真が映っていた。
写真を見つめてシオは怪訝そうに首を捻り、その横で喜左衛門を抱えたトウマは写真の犬に目元を緩ませる。
「……黒じゃなくて、茶色のボーダーコリー?」
「こっちもかわよい」
トウマの浮気発言を理解したのか喜左衛門は不機嫌そうにグゥ…と唸った。




