最終章『青草の香る場所』
流れる水の音。
青草の匂いが香る。
高校の卒業式の帰り道。
私は川面をながめながら、河原で立ちすくんでいた。
私の名前は、広津吉乃。
人が死ぬことが日常だった戦国の世から、いにしえの技を伝える広津家の長女である。
男として生まれた者は、いにしえの技を後世に伝える。
女として生まれた者は、いにしえの血を後世に残す。
そんな時代を超越した考え方を持つ一族の中で、本家の長女として生まれた私の人生は、あまり楽しみの多いものではなかった。
大好きな短刀術の研究に没頭したいのに、そんなことよりはむしろ、茶道、華道、和琴や日舞といった習い事に時間を費やせ、と、子供の頃から、いつも言われ続けていた。
いにしえの技を伝える六家の統領である武上家。
女として生まれたことがわかった時、私の将来は、その武上家の妻となることに決まった。
武上家の人間を、私はあまり好きではない。
決して、感情を顔に出さず、本当に必要なこと以外は、うなずくか、首を横に振るかで済ませてしまう、無口な人たち。
子供の頃から、将来は、そういった人たちばかりいる家の人間にならないといけないのだと教えこまれた。
そんな静かな、不気味なほど無口な武上家の中で、異端とも言える存在の子供がいた。
名前は、武上直人。
武上家の次男坊で、最初に出会った時は、失礼なことに、あまり賢そうではない男の子だと思ってしまった。
まっすぐに進むことしか知らず、口は悪いくせに、変に優しいところもあって。
いつのまにか、私は直人くんの横を一緒に歩くことが当たり前になった。
ある日。
直人くんが、崖から滑り落ちた。
なにかの修行の最中だったのか、それとも崖の壁面に咲いていた花を採ろうとしたのか、くわしいことは忘れてしまったけれど。崖から落ちた時に、直人くんの左腕の骨が折れてしまったことは、鮮明に覚えている。
完全に折れて、肉を突き破りそうになるほど飛び出てしまった、左腕の上腕骨。
このままでは、直人くんは一生、刀を握ることができなくなってしまう。
そう思った時、私は知らないうちに泣いていた。
大人を呼ぶとか、骨を接いで添え木を当てるとか、できること、しなくてはいけないことはたくさんあったはずなのだが、気が動転してしまった子供の私は、直人くんの前で泣くことしかできなかった。
「泣くなよ。こんなの、大したことないって」
大したことがないはずがない。痛くないはずがない。
しかし、直人くんは歯を食いしばって、脂汗を流しながら、私の前で平然を装った。
擦り傷だらけの体からは、ところどころ血がにじんでいたけれど、直人くんは折れていない右腕で、泣いている私の手を引いた。
「ほら。世話が焼けるなあ。吉乃が怪我したわけじゃないんだから、泣くなって」
痛かったはずなのに。動けなくなるほど、痛かったはずなのに。
直人くんは、泣いている私を気づかうばかりで、自分の痛みは無視していた。
手を引いてもらって、道場に帰っている途中。
野草が生え、石が転がる山道に足を取られながら帰っている途中。
困った顔で、まだ泣き止まない私の手を引いている直人くんと一緒に帰っている途中。
私は、今まで感じたことがない感情を感じた。
この人がそうなのだ、と。
それが好意と呼ばれる感情だということは、ずっと後になって知った。
武上家の頭領を決める、真剣を用いた勝負。
直人くんが元服を迎えた年、昔は正式に大人になったことを見とめられた15歳になった時、それは行なわれた。
真剣勝負の相手は、お兄さんの正人さん。
まだ体も心も、技さえも発展途上だった直人くんは、惜しくも正人さんに負けてしまった。
これで将来、公式に、私が正人さんの妻になることが決まったと、みんなが思っていた。
悲しいことに、直人くんもそう思ってしまったみたいで、彼はしきたりに従って、刀を捨てると言い始めた。
私は、時代錯誤の決闘の結果に従うつもりはなかったし、子供の頃から木刀を振っていた直人くんが、いまさら、大事にしてきたものを捨てるはずもないと思っていたので、楽天的であった。
その気楽さが、焦りに変わったのは、いつの頃からだったろうか。
宣言どおり、直人くんが木刀を握ることもしなくなってしまってから、一ヶ月近く。
それだけの日々が過ぎ去ってから、私は初めて、直人くんがどれだけの決意で、刀を捨てると言ったのか、気づいてしまった。
歯を食いしばり、脂汗を流し、それでも平然と振る舞う。
辛さを決して顔に出さない直人くんの姿は、子供の頃の、あの時を思い出させた。
しきたりに逆らうことを口に出すには、まだ二人とも若過ぎる。
そう思ったが、辛そうな直人くんを放っておくことはできなかった。
直人くんと二人なら、きっと、なんとかできる。
そう思い、決意した矢先の、あの出来事。
正直、私がオートレイと呼ばれていた時のことは、あまり覚えていない。
クロードと呼ばれていた直人くんに再会するまでは、ぼんやりとした記憶しかないのだ。
誰もいない練習場で、武上一刀流の型を練習していた直人くんを見た時。
この人がそうなのだ、と、はっきりと感じた。いや、正確には、思い出したのだろう。
クロードが、つまり、直人くんが剣を持って戦っている姿を見た時、私は直人くんがクロードだとはわからなかったし、直人くんのことも思い出してはいなかったけれど、とても嬉しかったような気がする。
きっと、クロードだろうと、直人くんだろうと、彼が再び剣を持っていることが嬉しかったのだろう。
直人くんの横には、もう別の女の子、アルフェミアという名前のタルフォードがいて、私が部屋に遊びに行くたびに嫌そうな顔をしていたが、彼女のことも嫌いではなかった。
彼女は、タルフォードとしては優秀ではなかったかもしれないが、劣る能力を努力で補い、むしろ、努力でしか得られないものを、惜しげもなく直人くんに渡していた。
それはきっと、直人くんもわかっていたのだろう。
闘技場での戦いで優勝し、神族に出会った後でも、直人くんはアルフェミアを自分の横から離さなかった。
その頃から、アルフェミアに暗い感情を覚えたような気がする。。
なぜ私ではなく、彼女を自分のパートナーに選ぶのだろう。
ふさわしいのは自分の方なのに。
それが嫉妬と呼ばれる感情だということは、すでに知っていたが、別に恥ずかしいとも思わなかった。
いつの日にか、クロード、直人くんは、私の方を振り向くだろう。
とても楽天的だった。
そんなに現実は甘くないと思い知らされたのは、この世界に戻る直前のこと。
せっかく生身の体に戻ったのに、再び機械戦士となり、あの世界に残ることを決意した直人くんは、悲しげではあったが、その目は誇りに満ちていた。
ゲートの中にいる私に、直人くんは残る理由を説明してくれたが、私は悔しいばかりだった。
自分ではなく、アルフェミアの方を、直人くんは選んだのだと、そんな愚かなことを思ってしまった。
今は、とても恥ずかしいことを口走ってしまったと思う。
直人くんは、覚悟していたのだ。
あの世界、あの場所で、直人くんのことを大事に思い、命さえも投げ捨ててくれた人たちがいる。
その人たちに報いるため、彼は残ると決めたのだ、と。
その言葉を聞いた時、私は悲しかったが、自分の選択が一つも間違っていなかったことに、改めて気づいてしまっていた。
この人こそが、そうなのだと。
待つ、と、私は言った。
戻って来る、と、直人くんは言ってくれなかったけど、それでもいい。
直人くんが戻って来るまで。
髪が白くなり、歯が抜け落ち、体から肉が削げ落ち。白き骨となって、土の中で眠ることになっても、待ち続ける。
そういう意味をこめて。
待つ、と、私は言った。
そう決意して、もう二年になる。
大人と呼ばれる年齢になり、学生服を脱ぐ時も近づいてしまった。
待っているのは、正人さんとの祝言。
直人くんが、私のそばにいるなら、その昔から決められていた、しきたりを覆す勇気も出たのだろうけれども。
私の十八歳の誕生日を、涙を流して喜んでくれた両親の顔を見てしまって、その決意は揺らぎつつある。
別の世界、別の場所、別の姿で戦っている直人くん。
一族の間では、失踪扱いになっている彼を、いまだに待っているとは、誰にも告げていなかった。
私の想いは、私独りだけのものだった。
このまま、帰って来るかどうかわからない、彼を待ち続けることが正しいのか。
それとも、しきたりに従うことが正しいのか。
突然、青草が強く香った。
それは、あの時、この場所で、直人くんと一緒に感じた香り。
その感じのいい香りに、私の眉は曇った。
私には、わかってしまった。
直人くんが帰ってきたのだ、と。
今、この場所に、直人くんは帰ってきた。
姿も、言葉も、何もないけれど。
あの世界で、戦うことを決意した彼の魂は、この世界に帰ってきた。
勝てるはずもない戦い。
機械戦士の造物主である神族との戦いを決意した、直人くん。
どうなってしまったのか、予想はついていた。
それが今、唐突にわかってしまった。
「直人くん。あなたは、この世界に帰って来たのね」
つぶやいて、涙をこぼした。頬が、とても冷たかった。
きっと、元の姿で、無事に元気で帰ってくると信じ続けた二年間。
それが、もっとも望んでいなかった形で報われたのだと、わかってしまったから。
悲しかった。
とても悲しかった。
目の前の水面が私を呼んでいるような気がしたが、あと一歩のところで踏みとどまった。
こんなことで、彼の決意、彼の誇り、彼の想いを汚してはならない。
水面に背を向け、歩き出す足取りは重かった。
けれど……。
「クロード。オートレイを見つけました」
いつか聞いた声。
あわてて、私は振り向いた。
黒とも青ともつかない、不思議な髪の色をした娘が、私の方を向いて、手を振っている。
走り出した。
震える足がもどかしかったが、それでも前に進んで走り出した。
「どうしたのですか、クロード。あんなに会いたがっていたのに」
「言うなよ。照れ臭いんだ」
頭を掻きながら言う、一番、聞きたかった声。
その声を目がけて、私は矢のように飛んでいく。
頬をこぼれた涙は、さっき流した涙とは比べ物にならないほど熱くて。
「おかえり、なさい」
涙と一緒に、一番言いたかった言葉がこぼれ出た。
ー機械戦士物語ナイトクロード 了ー