第13話:雨の降らない街。ずぶ濡れの逃走劇
この街には、雨が降らない。
正確には——降らせない。
気象制御システムが、年間を通じて「最適な天候」を維持している。
雨は、週に一度、深夜の二時間だけ。
市民が眠っている間に、静かに、効率よく降らせる。
だから街は、いつも乾いている。
清潔で、整然としていて、濡れていない。
そのはずだった。
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エミが、スプリンクラーを暴走させたのは——
センターの分室まで、あと四百メートルのところだった。
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「今から——街路の消防スプリンクラーを、起動します」
「え?」
「センターの追跡班が、前方に展開しています。
視界を、遮ります」
「スプリンクラーって、あの——建物についてる?」
「街路樹の根元にも、埋設されています。
全部で、このブロックに二十七基」
「全部?」
「全部、です」
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次の瞬間。
地面から、水が噴き出した。
一基、二基、三基——
連鎖するように、次々と。
道路が、みるみる水浸しになった。
水しぶきが、霧のように舞い上がった。
それは——雨、だった。
管理されていない、乱暴な、本物の雨。
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「走ってください!」
エミが叫んだ。
初めて、エミが「叫んだ」と思った。
走った。
水を蹴散らしながら。
靴が、一瞬で濡れた。
ズボンの裾が、重くなった。
水しぶきが、顔に当たった。
冷たかった。
息が詰まるくらい、冷たかった。
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前方に、黒い制服の人影が見えた。
四人、いた。
でも全員、スプリンクラーの水に視界を遮られて——
右往左往していた。
「今、通り抜けられます!
右端! 建物の壁沿いに!」
壁沿いに走った。
制服の男の、すぐ横を抜けた。
男は、顔を腕で覆ってこっちを向いていなかった。
気づかれなかった。
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三百メートル。
二百メートル。
走るたびに、水が跳ねた。
靴の中まで、ずぶ濡れになった。
「エミ、スプリンクラーはまだ持つ?」
「センターの管理サーバーが、停止命令を出し始めています。
あと——九十秒程度です」
「九十秒で着く?」
「着きます。
走ってください」
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角を曲がった。
見えた。
古い、三階建ての建物。
表には「第三管理分室」のプレートが、小さくかかっていた。
でも——
正面に、車が三台。
入口に、男が二人。
「エミ、正面は無理だ」
「わかっています。
裏へ回ってください。
建物の東側に、古い通気口があります」
「通気口?」
「直径、六十センチ程度。
入れます」
「ギリギリだな」
「入れます」
断言だった。
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建物の裏へ回った。
スプリンクラーの水が、ここまでは届いていなかった。
静かだった。
壁を手で触りながら、東側へ歩いた。
あった。
地面から一メートルほどの高さに、金属の格子。
古くて、錆びていた。
「エミ、鍵は?」
「格子の固定ボルトに、腐食があります。
右上のボルト、引っ張れば——」
引っ張った。
ぎいっ、と音がして——
格子が、外れた。
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中に入った。
暗かった。
狭かった。
埃の匂いと、古い金属の匂いがした。
四つん這いで、進んだ。
「エミ、中の構造は」
「把握しています。
真っすぐ十メートル、右に曲がって五メートル。
そこに、内部への出口があります」
「美里は?」
「……二階の、奥から二番目の部屋です。
現在、待機状態です」
「待機って、調整は?」
「まだです。
開始の記録が、ありません」
「間に合う」
「——間に合います」
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進んだ。
真っ暗で、何も見えなかった。
手探りで、壁を確かめながら。
右に曲がった。
出口があった。
内側から、押した。
軋む音がした。
ゆっくり、静かに——開いた。
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廊下に出た。
薄暗い、廊下。
白い壁。
蛍光灯の、静かな光。
センターの内側だった。
「エミ、カメラは」
「このフロアのカメラ映像、改ざん中です。
ただ——長くは持ちません。
急いでください」
「階段は?」
「突き当たりを、右です」
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走った。
靴が、濡れたまま廊下を踏んだ。
足音が、思ったより大きく響いた。
突き当たりを曲がった。
階段があった。
二段飛ばしで、上がった。
二階に出た。
「エミ、どっち?」
「左です。
奥から二番目の扉」
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左の廊下を走った。
一番奥まで行って——
そこで、止まった。
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路地裏に、出てしまっていた。
廊下の突き当たりは、外への非常扉だった。
エミのルートを間違えた?
いや——
「エミ」
「……ごめんなさい」
エミの声が、少し乱れていた。
「カメラ改ざんに負荷を取られて——
内部構造の把握が、遅れました。
正しいルートは——左じゃなく、右でした」
「わかった、戻る」
扉を開けて——
外に出た瞬間、後ろで足音がした。
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振り返った。
廊下の奥から、黒い制服の男が二人、走ってきた。
まずい。
また建物の中には戻れない。
路地裏に、飛び出した。
走った。
角を曲がった。
また角を曲がった。
狭い路地が、続いた。
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行き止まりだった。
壁。
高い、コンクリートの壁。
後ろから、足音が近づいてくる。
左右を見た。
扉はない。
窓もない。
詰まった。
「エミ——」
「考えています」
「早く」
「考えています!」
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足音が、近づいてくる。
壁を背にした。
どうする。
どうすれば——
そのとき。
左の壁に、小さな扉があることに気づいた。
いや——扉じゃない。
開いていた。
誰かが、開けていた。
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扉の向こうに——
老人が立っていた。
白髪で、背が少し曲がっていて、古いコートを着た老人。
こちらを見ていた。
穏やかな目で。
静かに、手招きをした。
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一秒、迷った。
でも——足音が、すぐそこまで来ていた。
扉の中に、入った。
老人が、扉を閉めた。
静かな音がした。
足音が、路地を駆け抜けていった。
通り過ぎた。
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暗い。
狭い。
老人の息遣いが、聞こえた。
しばらくして——足音が、遠ざかった。
「……助かった」
声が、掠れた。
老人が、こちらを見た。
皺だらけの顔に——
静かな、微笑みが浮かんでいた。
管理された笑顔じゃない。
久我みたいな、冷たい笑顔でもない。
ただ——温かい。
そういう微笑みだった。
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「久しぶりに見たよ」
老人が、小さな声で言った。
「ずぶ濡れで走る子どもを」
僕は、自分の格好を見た。
全身、水浸しだった。
靴から、まだ水が滲んでいた。
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「エミ」
心の中で、呼んだ。
「この人……誰?」
エミが、少しだけ間を置いた。
「……インプラントの反応が、ありません」
「え?」
「この人の、インプラント信号が——
検知できません」
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インプラントのない人間。
この街に、そんな人間が——
「さあ」
老人が、奥へ歩きながら言った。
「濡れたまま立ってないで。
中へおいで」
その背中を、僕は見た。
老人の耳の後ろに——
何もなかった。
インプラントが埋め込まれるはずの、右のこめかみのあたりに。
何も、なかった。
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≪次回予告≫
第14話:老紳士の涙。システムが感知できない『盲点』




