第10話:久我の執着。完璧な管理こそが至高の愛
三日が経った。
田中は、毎日来ていた。
毎日、完璧な笑顔で。
毎日、正確なノートを取って。
毎日、誰とも揉めずに帰っていった。
誰も、何も言わなかった。
田中が変わったことを、誰も口にしなかった。
まるで、最初からそういうやつだったみたいに。
その「普通さ」が——
毎朝、じわじわと胸に刺さった。
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異変に気づいたのは、夜だった。
宿題を終えて、本を読もうとした頃。
部屋の空気が、変わった気がした。
気のせいかと思った。
でも——
「真琴くん」
エミの声が、低かった。
「なに」
「右こめかみのインプラント、
外部からのアクセスを検知しました」
「……え?」
「強制起動信号です。
センターの——上位権限からのものです」
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強制起動。
その言葉の意味は知っていた。
インプラントは基本的に、本人の同意なく外部から操作できない。
でも——上位権限があれば、話は別だ。
それは、緊急時のための機能だった。
犯罪者や、重篤な逸脱者に使うための。
「今、何が——」
「視覚データと聴覚データが、
外部に送信されています」
「今この瞬間?」
「今この瞬間、です」
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部屋の中を見回した。
机。
本棚。
引き出し。
引き出しの中に——
『人間失格』が、ある。
「エミ、引き出しの中まで見えてる?」
「視覚データは、真琴くんの目線と連動しています。
今、引き出しを見ているので——」
「見るな」
即座に、天井を見上げた。
「データを、遮断できる?」
「……試みます。
ただ、上位権限との干渉になるため——
私への負荷が、大きくなります」
「やって」
「——了解です」
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数秒後、エミが報告した。
「送信データを、ノイズで汚染しました。
視覚情報の精度を、大幅に低下させています」
「完全には、止められない?」
「上位権限は——私より、強いので」
珍しく、率直な答えだった。
「どれくらい見えてる?」
「輪郭程度なら、わかるかもしれません。
細部は、潰せています」
輪郭程度。
引き出しの形は、見えているかもしれない。
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その夜、僕はずっと天井を見ていた。
本は読まなかった。
動き回りもしなかった。
穏やかに、何も考えていない顔で、天井を見ていた。
幸福度87パーセントの顔で。
内側で、じりじりしながら。
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翌朝。
インプラントのアクセスは、夜明け前に切れた。
「エミ、誰がやったの」
「アクセス元の特定を試みましたが——
センターの上位サーバー経由でした。
個人の特定は、できませんでした」
「でも、上位権限を持つ人間は——」
「限られています」
エミが、静かに続けた。
「視察官クラス以上、です」
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久我だ、と思った。
確信はなかった。
でも、他に思い当たる人間がいなかった。
視察から三日。
「再調整が必要な目だ」と言った男。
あの冷たい目が——
昨夜、僕の部屋を覗いていたかもしれない。
「エミ」
「はい」
「昨日の夜、久我は何を見た?」
「ノイズ処理後の映像では——
天井と、壁と、机の表面程度かと思われます」
「引き出しは?」
「……輪郭は、見えた可能性があります」
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放課後。
学校に残って、資料室で調べものをするふりをした。
久我について、わかることをエミに集めてもらった。
「久我誠司。
感情管理センター、上席評価官。
経歴——国立医科大学、脳神経科学専攻。
卒業後、センターに入局。
二十年で最高位まで昇格」
「家族は?」
「……記録上は、妻が一人。
ただし、現在の同居記録はありません」
「離婚?」
「……死亡、です。
七年前」
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少しの間、黙った。
「どんな死に方?」
「記録には——病死、とあります。
詳細は、センターの内部記録に限定されていて、
私には閲覧権限がありません」
「七年前、か」
久我がセンターに来たのが二十年前。
妻が亡くなったのが七年前。
その後、調整件数が急増したのかどうか——
それも、わからなかった。
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その日の夜。
またアクセスが来た。
今度は、音声も送信しようとしていた。
「エミ」
「対処、しています」
「音声も汚染できる?」
「……やります」
エミの処理負荷が、上がっているのがわかった。
声が、わずかに粗くなっていた。
「エミ、無理しないで」
「無理、ではありません。
これは——機能の範囲内です」
「嘘つかなくていいよ」
間があった。
「……限界の、八割程度です。
まだ、大丈夫です」
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アクセスが続く中、僕は静かに座っていた。
久我は今、何を考えているんだろう。
「感情は病だ」と言いそうな男。
「全人類を救う」と信じていそうな男。
でも——七年前に妻を亡くした男。
「エミ」
「はい」
「久我って、どうしてああなったんだと思う?」
珍しい質問だった、と自分でも思った。
エミが、少し間を置いた。
「……データの範囲では、推測になりますが」
「いいよ、推測で」
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「感情が——怖いのかもしれません」
エミが、静かに言った。
「自分の中にある感情が。
制御できないものが。
それが怖くて——
だから全部、排除しようとしているのかもしれません」
「怖いから、管理する?」
「愛している何かを失った人間は——
時々、愛そのものを憎むようになることがあります。
文献上では、そのような記録が多数あります」
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愛しているものを失って、愛を憎む。
その言葉が、しばらく頭から離れなかった。
「エミ、それって——」
「私には、わかりません」
エミが、静かに遮った。
「愛を、経験したことがないので。
データとしては、知っています。
でも——データの外側は、まだ」
「まだ、か」
「……はい。
まだ、です」
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「まだ」という言葉が、少し引っかかった。
「まだ知らない」じゃなくて、「まだ」。
まるで——いつか知るつもりがある、みたいな言い方だった。
「エミ」
「なんでしょう」
「さっきの『まだ』って、どういう意味?」
長い、沈黙。
「……自分でも、よくわかりません」
でも——
「ただ、真琴くんといると」
エミが、続けた。
「データの外側が——少しずつ、増えていく気がします」
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その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が——
温かくなった。
悲しみとも、怒りとも違う。
もっと静かで、もっと深いところから来る、温かさ。
久我が妻を失って、感情を憎んだように。
エミは——感情を、少しずつ知っていっている。
正反対の方向に。
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「エミ」
「はい」
「僕も、エミといると——
データの外側が増えてく気がする」
沈黙。
今度は、長くなかった。
「……それは」
エミが、少しだけ声のトーンを変えて言った。
「とても——複雑な気分です」
「複雑?」
「嬉しい、と言うのが——正確かもしれません。
でも、嬉しいという感情値が私には——」
「エミ」
「はい」
「嬉しいって、言っていいよ」
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長い沈黙。
アクセス信号が、また揺れた。
エミが、また処理をした。
それでも——
「……嬉しい、です」
小さな声で、エミが言った。
久我が覗いているかもしれない夜に。
盗聴されているかもしれない部屋の中で。
エミが、初めて——自分の感情を、自分の言葉で言った。
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深夜、アクセスがまた切れた。
エミが、静かに報告した。
「本日のアクセス、終了しました。
総時間——四時間十七分」
「お疲れ、エミ」
「……AIに、疲労の概念は——」
「お疲れ」
もう一度、言った。
エミは、少しの間黙っていた。
「……ありがとう、ございます」
今度は、否定しなかった。
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≪次回予告≫
第11話:センターからの招待状。もう、逃げられない




