40:黒狐の秘密!(菖蒲視点)
庭に咲いている花の種類が増え、徐々に気温も上がってきた。
春は、もうすぐ終わる。
人間の世界から戻って数日後、朝早くから部屋に薄がやって来た。
どうせ、私の様子を伺いに来たのだろう。
心配しなくとも、今は人間の世界に行く気はない……今は。
先日、光るパソコン画面の前に座って男の情報を眺めていた薊の顔を見た時……既に彼女が人間の世界を切り捨てているのだということが、ありありと分かった。
だから、今更過去の件を何度も蒸し返すのもどうかと思ったのだ。
薊が捨てた日々に、私がいつまでもしがみついていても仕方がない。
けれど―—
あの男がまた何か余計なことをすれば……
私自身が我慢出来なくなれば……
きっと、私は迷わずに人間の世界へと出向くだろう。
「教室で自白したあの男は、人間の世界では針の筵だ。どのみち、楽には暮らせないさ」
私の様子を見た薄が、静かに口を開いてそう言った。
薊は、まだ隣の部屋で眠っている。
自然と声の大きさを抑えて、私は薄の言葉に答えた。
「薊があの様子だから、しばらく手出しはしないけれど……私はそれだけでは不満だよ。噂を広めた他の人間が、のうのうと生きているのも気に食わない」
そっと呟いた私に向けて、薄は更に言葉を重ねる。
五月の爽やかな風が、私と薄の髪をふわりと揺らしていった。
「その件だけど、俺は大丈夫じゃないかと思うぞ。テレビで無責任な回答をしていた奴らは、顔写真がネットの流出してえらいことになっている。薊の通っていた学校には悪評が立って、大学の推薦入試枠も大幅に減らされたみたいだしな。命までは奪わなくても、それなりに効果はあったんじゃないか?」
……そうかもしれない。
けれど、それでもやっぱり心に引っ掛かりを感じた私は、無言で口をへの字に曲げた。
「そう言えば……最近、お前ん所の敷地内に鴉は来ないのか?」
「来るよ。けれど、薊には私が会わせない」
「まあ、それがいいな……」
鴉には、引き続き人間の世界で奴ら情報を掴んでもらっている。
情報収集に長けている種族である鴉は、狐よりも個人の情報を調べるのが上手いのだ。
春ももうすぐ終わるし、特に大きな問題はないだろう。
それに……
「あの鴉、薊の他に新たなターゲットを見つけたみたいだよ」
以前ほど、薊に執着しなくなった鴉。
その変化は、他の種族である私にも分かったくらいだ。
「それは良かったな。まったく、人騒がせな奴らだぜ」
「本当にね……」
隣の部屋で、薊の起き上がる気配がした。
薄も気付いたらしく、会話を打ち切る。
「じゃあ、俺はもう行くな。外出するなとは言わねえ。寧ろ、お前はどんどん外に出ると良い。けど、境界を行き来するときは俺に声掛けろ。毎回色々と破壊されたんじゃたまらない」
「分かった」
薄が立ち去ったのを確認した私は、寝室に繋がる襖をそっと開ける。
すると、二つ並べた布団の片側に、寝ぼけ眼の薊がちょこんと座っていた。
彼女はまだ半分寝ているようで、いつもよりも動きが鈍い。
「おはよう、薊」
「……んー、おはようございます。今、誰か来ていました?」
伸びをしながら、薊がおもむろに尋ねてくる。
なんとなく、他人の気配を感じ取ったのだろう。
「さっきまで、薄が来ていたんだ。もう帰ったけど」
「薄は、早起きですねぇ……」
「年寄りだからじゃない?」
自分のことを棚に上げた私は、薊に向かってそう答えた。
薊は何も知らない。彼女の同級生の男のその後や、私がそいつにした仕打ちを。
知らなくても良い、知らないでいて欲しい。
……これは、私の我が儘以外の何物でもないのだから。
彼女には、ただ幸せに笑っていて欲しい……そう思った。




