17:前髪を切りました!
「おはよう、薊。まだ眠そうだね」
「菖蒲、お早うございます……昨日はご迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」
「少し落ち着いた?」
「はい。あの後、菖蒲がずっと一緒に居てくれましたから」
夕方には、私の状態もだいぶ落ち着いてきたのだ。薄はそのまま、柊の元へ帰って行った。
食事を終えた後で炊事場を見に行ったけれど、菖蒲の家の刃物類や紐類、先の尖った物などが全て消えていた。
彼は私の無実を信じてくれたけれど、私の自殺衝動の方はまだ信用していないらしい。昨日の自分のことを考えれば、当然の措置だとは思う。
あれから、菖蒲は私を夜になるまで宥めてくれていたのだ。
彼のおかげで、今日の私は比較的落ち着いている。
でも、その落ち着きをぶち壊すのも菖蒲だ。
「薊、そろそろ私の嫁になってくれる?」
「……検討中です。私はまだ女子高生ですよ」
「あの後調べたんだけど……今の人間の結婚年齢は、二十歳の半ばから三十歳の手前が一番多いらしいね」
「その通りです」
「では、薊が成人するまでは待つから許婚という形を取るのはどう? とはいっても、天狐の間ではもう薊は私の嫁という扱いなのだけれど……私としては、早く何らかの確約が欲しい」
「菖蒲?」
彼がここまで強引に嫁の話を進めることは珍しい。初めてのことだ。
「許婚という名目があれば、確約になるのですか?」
「それだけではならないけれど……私も、不安になることはあるんだよ? 薊が私のことを嫌いになったらどうしようとか、薊が家出したらどうしようとか、薊が目を離した隙に死んでしまったらどうしようとかね」
最後の二つには、反論出来ない。昨日の私が、実際に実行しようとしたことだからだ。
菖蒲から軽蔑されたくなくて、彼から拒絶の言葉を聞きたくなくて……その前に。私は命を絶とうとした。結果的に、そんな心配は必要なかったのだけれど。
「私が、いきなり菖蒲を嫌いになることはないと思うのですが……今もお世話になっている身ですし」
「それは、私が君をこの家の中に囲い込んでいるからでしょう? 結界を解けば、きっと薊は逃げて行ってしまう」
そうかもしれない。
今までの私ならば、喜んでナップザックを背負い、山へと向かっただろう。
「今は、ここから逃げる気はないんですけどねえ」
「昨日、逃げ出そうとしたばかりなのに? ナイフを持ち出す前は、薊は廊下をグルグル回っていたね?」
家から逃げ出す点でも、私はまだ菖蒲の信頼を得ていないようだ。彼の言うことは、尤もである。
「では、菖蒲がそうしたいのなら許婚でいいです。私は……」
勇気を振り絞って菖蒲を見つめる。
それは、私にとっては、とても大きな意味を持つ決断だった。
今だ、言うんだ——
今度こそ、彼に伝えるんだ——
大きく息を吸って、一気に言葉を吐き出す。
「私は、菖蒲を信じることにします」
他人を信じても、報われないことばかりだった。
だから、私は誰に対しても過度な期待を持つことをやめていたのだ。
けれど、菖蒲は、菖蒲だけは違うと思いたい。
私は、もう一度だけ他人を……菖蒲を信じてみようと思う。
「薊……」
「だけど、菖蒲が私を必要としなくなったときは、すぐにここから出て行きます……遠慮せずに言ってくださいね」
「そんなことにはならないよ」
「実は……今の私は、菖蒲のことがちょっと気になっています。ごめんなさい」
本当は、気になっているどころか完全に好きになってしまっているけれど、臆病で見栄っ張りの私はそれを口にすることができなかった。
「どうして、薊は謝るの?」
「だって、私みたいな目つきの悪いブスに好かれるなんて……普通の男の人は、嫌がると思います」
人間の世界にいる椎や、他のクラスメイト達のように。
「薊はブスじゃないよ。しいて言えば、長過ぎる前髪が悪い。野暮ったく見えるね」
「前にも言ったように、顔をさらしたくないだけですってば」
「じゃあ、切ろう。薊は少し化粧をすれば、とても色っぽい顔になるよ。いいじゃない、どうせ私と薄と柊くらいしか顔を合わせないんだから」
菖蒲は、全く私の話を聞かない。
「……勝手にしてください」
私が菖蒲を意見を受け入れたことに、彼は破顔する。
その夜、菖蒲に呼ばれた柊によって、私は前髪をばっさり切られた。今の私の前髪は、眉の真下くらいの長さだ。柊は、ついでとばかりに私の顔に化粧を施す。
この後、すぐに風呂に入るのに勿体ない……
何故か、菖蒲も柊も前髪の短くなった私の顔を絶賛していた。
顔を褒められたことのない私は、唯々困惑するばかりだった。