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16:逃避衝動、再び!

「なんで、どうして出られないの! こんな時にまで!」


 もう嫌だ。やっぱり菖蒲の家からは抜け出せない。

 早くこの場所から去りたいのに——


「そうだ、ロープ……なんでも良いから首を絞めよう。ああ、刃物でも良いかも……早くしなきゃ、早く、早く」


 菖蒲から拒絶の言葉を聞く前に、この世から消えなければならない。

 もはや、私は正常な判断力を失い、死に逃げることしか考えられなくなっていた。


「そうだ……炊事場。前に届いたホールケーキをカットしたナイフがあったはず……」


 いつも食事を取る部屋の傍には、炊事場がある。

 少し奥まった場所にあるこの場所は普段は使われていないが、調理器具一式が揃っているのだ。


「あった! ナイフ、ナイフ」


 私は、小さめだけれどよく切れるそのナイフを急いで首筋に当てる。

 本当に死にたい人間は、手首なんか切らない。

 何カ所も手首を切る人間は、「手首を切っている可哀想な自分」を他人にアピールしたいだけなのだ。もしくは、切ることにより自分の存在意義を確認して、そんな自分に酔っている……と私は思っている。


「頸動脈ってどこだっけ。このまま、ザックリいけば届くかな……」

「——薊!」


 菖蒲の叫びとともに、突如巻き起こったものすごい風が、私を床に転がした。

 その拍子に、ナイフが炊事場の隅へと転がっていく。


「あっ……!」


 慌ててナイフの方へ伸ばした私の腕を、力強く美しい大きな手が掴み、地面に押さえつけた。


「薄! 刃物を薊の目につかない場所へやって!」


 鋭い菖蒲の声で、薄が素早くナイフを回収する。


「あっぶねぇなあ……お前の嫁、いつもこんなことしてるのか!?」

「いつもは普通だよ。最近は首を括る話もしなくなっていたのだけれど」

「……さっきの会話を聞かれていたのか」


 薄と会話をしている間も、菖蒲の手は私を押さえつけたままだ。

 どうしよう、嫌だ。菖蒲に今の自分の顔を見せたくない。

 あんな話を聞かれた後では、彼に合わせる顔がなかった。

 菖蒲をどかそうにも、成人男性並みの腕力を有する天狐に、ただの女子高生が敵うはずもないのだが。


「菖蒲、離して!」

「もう刃物は置いておけないねえ。薊、部屋に戻ろうか」

「嫌、嫌だぁ!」

「落ち着いて、薊。大丈夫だから」


 ぶんぶんと首を横に振る私を抱き起こした菖蒲は、なんとそのまま薄の目の前で私に口づけてきた。


「……!」


 驚いて声も出ない状態の私を抱きかかえ、菖蒲は私を部屋へと連れて行く。


「大丈夫だよ。薊が心配することなんて、なんにもない」

「菖蒲は見たのでしょう? 私のことが書かれているサイトを」

「私は見ていないよ。薄は見たらしいけれど……でも、そんな話は最初から信じていない。私の真実は、目の前にいる薊だけだから」

「嘘! あんな情報を見たら、私のこと軽蔑するはずです! 服を脱いで他人に迫るようなおかしな人間って言われているんですよ、私は!」


 菖蒲があの噂を信じないと言ってくれて嬉しいはずなのに、頭のどこかに彼の気持ちを疑う自分がいる。

 私は、他人を信じることが怖くて仕方がないのだ。


「どうしてそうなるの? 私は知っているだけだよ、薊にそんな真似はできないと。口付けされただけで言葉を失う子が、他人の前で着物を脱いだりなどできるものか。本当は違うよね、人間の世界での噂は全て偽りだ」

「……っ、菖蒲。私、私は」


 何か話さなくてはと思うのに、言葉が出て来ない。

 本当のことを伝えようと口を開きかける度に躊躇してしまう。

 嬉しいはずの予想外の菖蒲の反応に、私の頭がついて行かない。


「無理しなくても大丈夫。私は薊を信じているから」


 混乱して何もできない私に、菖蒲がそんな優しい言葉ばかりをかけてくるから……私は彼の腕の中で再び泣いた。

 辛い目に遭ったあの日、私は家族の前で泣けなかった。

 元々、他人の前で涙を見せられない性格なのだ。

 でも、菖蒲の前だと次々にボロが出てしまう。彼には嫌われたくないのに。


「泣いてもいいよ。薊に我慢させるのは、私としても辛いから。でも……できれば、もっと私のことを信用して欲しいね」


 その言葉に、私は更に泣いた。

 今日は、一生分の涙を流した気がする。

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