第五章 その壁の、内へ(1)
■第五章 その壁の、内へ
ベルナデッダと飛び立った夜。
しんと静まり返り、時折、何かの計器が小さな電子音を発するだけの操縦キャビン。
いつものように、マービンは、夜更かしをして、本を読んでいた。
昼間、活発な大崎や毛利に引っ張られ活動的な人生を送った後、夜は内省的思索的人生を楽しむ。
それが、彼の人生のパターンだった。
それは別に自分のキャビンでもよかったのだろうが、既に静かに休んでいる友人たちの邪魔になるかもしれない、と、誰もいない操縦キャビンで、マービンのために用意された補助席に行儀よく座り、手元の端末でいつものように文字を楽しんでいる。
実のところ、大崎ほどの才能がないことを自覚しながらも、彼は、ここ最近彼らの人生を騒がせている三つの宇宙時代の技術、マジック、ジーニー、カノンの基礎的な知識を得ようと模索している。
そんなわけで彼が持っているのは、カノンの教本――であればよかったのだが、どちらかというと、彼が持っているのはカノンの技術開発に携わる人の自伝的なものだ。実のところ、その本は、ある技術者がキャリアアップ――ありていに言えば転職に向けて自分を高く売り込むために執筆したもので、その内容は大きく偏っているのだが、マービン自身はそんなことは気にしない。そんな等身大の語りのほうが、理解に近づけるだろう、とさえ思っている。
ふと、自動扉を開け閉めする低いモーターの唸りが聞こえる。
マービンが顔を上げると、入って来たのはキアラだった。
「あっ……マービン様。失礼いたしました。誰もいないかと思っていましたもので」
「いいえ、大丈夫ですよ。ただ、読書をしているだけですので。――あ、本当に気になさらないで。眠れないのですか?」
踵を返そうとするキアラを、マービンは呼び止めて尋ねる。
「ええ、少し星空でも眺めて眠気を待とうかと」
「であれば、本当に私のことは気になさらないで下さい。誰にでも眠れない夜はありますよね」
マービンはそんな風に言い、あえて端末に目を落としてキアラの意識から外れると行動で宣言した。
キアラは、彼女にあてがわれた補助席に座り、そこから見える船窓の向こうの星々をじっと眺める。
再び、小さな電子音が時々静寂にアクセントを加えるだけの時間が流れ始める。
ベルナデッダからオウミに向けての航路のどこかから見える星空には、多分、誰にも名付けられていない星座。
それは、誰にも知られずどこかの平民として静かに光り、静かに消える自分。
――だった。
でも、再び、セレーナ王女に出会えた。
決して交わらないと思っていた、彼女を囲む大人たちが、決して交わらせまいとしてきた、美貌の王女。
何かを取り戻したい、取り戻せると確信した彼女は、全てを投げ捨てた。
そして、全てを手に入れた。
――と思っていたのに。
キアラの心に、小さなトゲが刺さっている。
「マービン様」
ふと、キアラは呼びかける。マービンも、なんだろう、と顔を上げる。
「あなたは、セレーナ様と私のことを残酷とおっしゃいました」
マービンはとっさに、しまった、という顔をしてしまう。あれを聞かれていたなんて。
「どうしてそのようにお思いになったのか、伺っても?」
マービンの心を困惑が満たす。それは、自分の失敗。余りに不用意な発言。大崎に聞かれていたことも失敗だと思っていたのに、まさかキアラに聞かれていたなんて。
「申し訳ありません。あれは失言でした。その、そんな言い方をするつもりは無かったのです」
「言い方……ですか」
マービンはばつが悪そうに目をそらそうとすると、キアラは、じっとマービンの双眸を見つめ、その視線を縛りつける。
彼女の心に刺さった小さなトゲは、さらに深く潜り込み、責め苛む。
「あなたはそうやって、ずっと、言い方をつくろってばかりなのですね」
そのキアラの言葉に、マービンの心の混乱はさらに広がっていく。
キアラに不用意な発言を聞かれていたばかりか、自分の在り方にまで踏み込んで来ようとする彼女に、どう対処していいのか、全く分からない。
「あなたは冷たい人です」
キアラ自身も、ここまで彼を追い詰めようなんて思っていなかった。ただ、自分を苦しめる心のトゲの真意を知りたかっただけなのに。それを丁寧にいなされてしまったことに、いらだちを覚えて、だからこんな言い方になってしまっている。
「誰にでも当たり障りのない、波風を立てない丁寧な口調で接するあなたは、きっと、あなたに誰も触れさせたくないのでしょう。そうではないですか? だから、きっとあなたの体温は、誰もを凍り付かせるほどに、冷たいのです」
ちがう、そんなことを言いたいのじゃない。とキアラは思うが、もう止められなかった。
「だからあなたは、王族でも貴族でもないのに、そんなにさみしそうな目をしているのでです。きっと、あなたの中には、誰にも立ち入らせない孤独の庭園があるのです」
「私は」
マービンは、感情をたかぶらせていた。なのに、出てくる言葉は、平穏で穏当なものになる。
「その通りです。おそらく、キアラさんのおっしゃる通り。きっと孤独の庭園で、一人で過ごすのが好きなのです」
読書端末を伏せ、座席のサイドポケットに丁寧にしまい込む。
「……きっと、セレーナさんも、同じようなものを感じている。孤高の権力者。自らの一挙一動が誰を傷つけるかわからない。余りに強い自分に恐怖し、孤独の庭園を築いています」
「マービン様が、セレーナ様と同じだとは思えません」
「……そうですね。でも、きっとあなたが私を孤独の庭園の住民とおっしゃった理由の一つではあるはずなんです。地球では、一代で成功し、富を築き、名士と呼ばれるまでに成り上がることがあります。私の両親が、そうです。そして、私はその一人息子として、両親を囲む大人たちに、ずっとちやほやされて生きています。両親は、そんな私が両親の地位に見合う人間となるよう腐心しています。私の神聖性を侵そうとするものを徹底的に排除しようとしています。私が強い言葉を吐けば、誰かが傷つく。そんな思いは、きっとセレーナさんも同じなのではないかと思ったのです」
「セレーナ様はそんなに弱いお方ではありません」
その言葉は、マービンを弱い人間だと真正面から糾弾するものだった。
「ええ、その通りです。セレーナさんは、強くなった。ふふ、それは、きっと、大崎君や浦野さん、それから毛利君のおかげです。自らの弱さを怖れず立ち向かうことを教えたのは、あの三人です」
でも、どうだろう、キアラの目に映るセレーナは、六年前、キアラと別れたときのままで。
何が変わったというのだろう。
「ですが、セレーナさんは、あなたに向かい合っているとき、弱くなっています。――申し訳ありません、こんな言い方をすべきじゃない。……いえ、だからこそ言うべきなのでしょうね。あなたと向かい合っているセレーナさんは、きっと、あなたへの負い目から、大崎君に出会う前の弱いセレーナさんに戻っています。今の私と同じように。あなたがセレーナさんを慕えば慕うほど、それがセレーナさんを弱くしてしまう。それを見て私は、残酷だ、と思ったのです。お気に障ったのでしたら申し訳ありません」
「昔の――セレーナ様?」
そう、たった今、自分が思った通りのことを、マービンは言ったのだ。
キアラと接しているセレーナは、六年前のセレーナそのものだ、と。
「……今は、違うのですか?」
「ええ。セレーナさんは、誰かに頼ることを知りました。躊躇せず、自分の弱みを見せられる、強い人になれました。どちらも、私が持ちえないものです」
「セレーナ様の……弱み?」
「人間、誰でも、弱いところがあります。それがない人間なんて、決していません。それを認められること。それを認めて誰かに頼ること。それができる人は、稀有です。……そうですね、私の言葉が、少しでもセレーナさんと深い友情を結ぶ私の友人たちのためになるならと思い、申し上げます。キアラさん、あなたは、セレーナさんにも弱みがあると、認めることが出来ない人です。セレーナさんは完全で完璧で宇宙で最も尊い王女であると、そうお思いです。だからセレーナさんはその仮面をかぶり続けています。あなたの期待するセレーナさんであろうと、きっと私と同じように波風を立てないあいまいな笑顔を浮かべるのです。それは――とても、残酷なことです。セレーナさんが長い旅の末にようやく手に入れたものを、全て否定することです。私の友達の努力と絆を愚弄するものです。私は――あなたを仲間に入れなければよかったと思っています」
「……どうしてそんなことを言うんです。では、私の気持ちは、嘘だというのですか」
見ると、キアラはうつむいて震えている。
「私の居場所はセレーナ様の隣にしかないのです。それだけが私の存在価値です。それを否定するあなたこそ、残酷ではありませんか」
「おっしゃるとおりです。だから、私は、何も言うべきではありませんでした。後悔しています。申し訳ありません」
マービンは優しく微笑んで、深く頭を下げる。
それをふと上目で見て、キアラは何か違和感があることに気づく。
彼女は、彼女の主従を引き裂こうとするマービンに強い敵愾心を持った。
なのに、静かに頭を下げる彼の姿に、どうしても重なって見えてしまうものがある。
それは、彼女の偉大なる主、セレーナ王女。
キアラがどうしてもついていくと主張したとき、最後にセレーナは口を閉じ、優しく微笑んでそれを許した。
不格好な靴の結び目を完璧にし直し、台所に立とうとする等身大の少女を王女の立場に引き戻した時も、セレーナは、優しく微笑んでいた。
何か、言うべきでないことを飲み込むような仕草を見せて。
――セレーナ様は、マービン様と同じだ。
「どうか、この夜のことは忘れていただけませんか。私は、キアラさんとセレーナさんの仲を裂きたいのではないのです」
「……やっぱり、あなたは冷たい人です」
キアラの口を突いて出た言葉。
「どうしてそんな熱い思いを飲み込むのですか。言うべきことは言うべきでしょう」
頭を上げ、マービンは、キアラが言ったことが、まるで逆になっていることに気づく。
「それは……私が弱い人間だからです」
だから彼には違う答えがあった。
ただただ自分を無害な人間に見せたいだけ。
それは、孤独に生きる生き方を課せられたという外的要因からではない。
自分の弱さだ。
マービンは、キアラの言葉に、まだセレーナのようにそれを乗り越えられない自分を意識してしまう。
けれど……だからこそ、マービンは、大崎純一という気持ちのいい友達を守りたかった。
彼が何度も苦しみ絶望の淵をさまよいながらも手に入れた、セレーナさんという希望の光。
それを奪うことが、許せなかった。
「それはあなたにも言えます。なぜあなたは、セレーナさんにただ仕えているのです」
だから、彼は孤独の庭園の錠に手をかける。
「あなたの内なる思いはどこにあるのです。あなたは、セレーナさんに裏切られました。怒ってもいいはずです。嘆いてもいいはずです。声を荒らげて、謝罪を要求すべきです。なぜそうしないのです」
「私はエミリア貴族です。至高の存在たる王女殿下にそのようなことはできません」
「セレーナさんは王女ではありません。いいえ、少なくとも、この船に乗っている間は、違います。ただ対等な、大崎君の友人です」
マービンは、『私の友人』と言い切れない自分に、少し歯がゆさを覚える。
「セレーナさんが、あなたの人生から奪ったものはなんですか。あるでしょう。六年もの間、あなたは仕えるべき主を失った。それはただの主でしたか? そして、あなたの在り方からも何かを奪っていったはずです」
「セレーナ様はそんなこと! ――なさっていません」
「いいえ、セレーナさんはそんなことをしたのです。だから苦しんでいるのです。あなたが理解してあげなくて、誰がするんですか」
「セレーナ様が……苦しんでいる?」
「ええ、そうです。セレーナさんは、あなたを守りたかった、という思いを抱えています。でも、それはきっと倒錯した思いなのだと私は思っています。セレーナさんはきっと、自分を守りたかったのです。でも、至高の王族が自身の身を守りたいなんて、口に出せると思いますか。そんなことを言ったら、周りの大人が何をしてしまうか、容易に想像できてしまうんです。だから、何も口に出せない、弱虫になってしまうんです。……すみません、これは私のことですね。ふふ、あはは、これは私です」
マービンは言いながら、乾いた笑いを漏らした。
それを見つめるキアラの脳裏には、同じように乾いた笑いを漏らすセレーナの姿が幻視される。
キアラがセレーナを至高の存在として崇めれば、それがきっと、セレーナから力を奪っていく。
キアラがただ身をささげるのであれば、キアラを守れなかったセレーナは絶望の淵に沈む。
そしてセレーナは、絶望に沈む自分を助けられない。
誰がこの不幸と戦うというのだろう。
誰にも頼れない王女と、ただ身をささげる侍女。
そこに、戦うものの姿はない。
必要なのは、戦う意思。
そして、キアラは、六年前の決心を、ふと、思い出していた。
「……マービン様」
キアラは、視線を下に向けたまま、語りかける。
「私は、セレーナ様に守ってもらえるような人間ではないと思っていました。今も、そう思っています。一時の気まぐれでも命が助かったのだから、幸運に感謝して生きていこうと。……そうですね、そして、私はセレーナ様を守りたいと思っていました。誰かのために身を削るのが我が定め。……思い知りました。なんという傲慢な考えだろうと。私は、傲慢です。あなたから見れば、それはそれは残酷に見えたことでしょう」
そして彼女は再びマービンの双眸を覗き込む。
「私は、私を守りたかった。私を守るために戦わなければならなかった。あのとき、決意したはずなんです。なのにそれを、セレーナ様に奪われた。セレーナ様は物分かりよく私の退出をお認めになった。私は、セレーナ様のその所業に行き場のない怒りを持っていたはずでした。どうして忘れていたのか……」
キアラは、そっと立ち上がると、ゆっくりとマービンに歩み寄った。
半笑いのマービンは、彼女が近づいてくるのを、茫然と見つめている。
やがて、座るマービンの前に立ったキアラは、マービンを見下ろす形になった。
「マービン様、ありがとうございます」
そうして、膝の上で固く結んだマービンの手を、キアラはそっと取り上げた。
「セレーナ様の孤独の庭園の戸締りをしてしまったのは、私でした。私がバカでした。私は、きっと、セレーナ様の負い目につけこんで、セレーナ様を利用していただけなのです。こんなのは主従ではありません。それに、……ジュンイチ様のように、対等の友人になりたいと、今、心から思えました」
手を引いて、キアラは、マービンを立たせた。
少し背の高いマービンが、キアラを見下ろすような形に変わる。
「マービン様。私は、セレーナ様と戦います。ええ、もう、セレーナ様を庭園に閉じ込めるような残酷なことはしません。そしてマービン様。セレーナ様と同じ苦しみをお持ちのあなたにも、私は何かできませんか。いつか、あなたの庭園に、私も招いてくださいませんか」
マービンは少し困惑の目線で周囲を見回したが、やがて意を決して、彼を見つめる二つの瞳を見据えた。
「ええ、いずれ。私がもっと強くなれたら」
「お待ちしております」
やがてどちらともなくうなずくと、二人は再び、二人による孤独の夜に戻っていった。
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