第二章 コンプレックス(3)
「ジーニー・ルカ、リボンインターフェースの音声を回してくれ」
それでもやっぱり心配で、廊下に出て左に曲がりその突き当たりの小さな待ち合いスペースに陣取ると、僕は、ジーニー・ルカにこう命じていた。三人には、何かあったときに頼む、と、部屋の前で待つように言い伝えて。
ジーニー・ルカのオーダー受領のサインを受け取り、僕は、音声インターフェースに繋いだ無線イヤホンを耳にねじ込む。
部屋の中の小さな雑音だけが聞こえてくる。
聞き始めて一分は、沈黙があった。
『君が、僕とこんな風に話をしたいと言い出すとはね』
やがて、ラウリの言葉が聞こえてきた。
『あなただって、ジュンイチに聞かれたくないことがあるでしょう』
『ふふっ、セレーナさんは鋭いな』
『私たちとのあの暮らしは、どうだった?』
それから、また数瞬の沈黙。
『……正直に言うべきだろうね。僕は、楽しかったよ、あの、学園生活。もう二度と戻れないと分かったときに、そのことに気づいた』
『そんな言葉、ジュンイチに聞かれたら大変ね。また盛大に彼の同情心を引っ掻き回すわよ』
『そうだね。新連合が自由圏を助けようとしているように、彼も哀れな僕を助けようとするだろう。迷惑な話だ』
二人の笑い声が響いてくる。
『僕は自らその幕を引いた。国家の利益と信念に殉じて。だからもう僕に構わないで欲しい、それを伝えておきたかった。……君は?』
『私もそうするでしょう』
……彼女のそんな決意を聞きたくなかった。
でも、僕だって分かっている。
ラウリが去ったように、セレーナが去る日。
それは、彼女がエミリアを変えると決めたときから決まっているはずのことだった。
『あなたはあの時……泣いていたわ。覚えてる?』
『セレーナさんも人が悪い。そんなことを今思い出させるなんて』
『あなたに、本当にあれが達成できたとは思えないわ、ジュンイチが助けに来なかったとしても』
『どうだろうね、僕はそれでも、信念に殉ずると決めていたから』
『ふふっ、無理やりじゃなくて、私を口説いてみればよかったのに』
『最初からあれだけ警戒していた君を?』
『あら、ばれてたの』
『当然さ。僕もそのことは考えた、むしろ、最初はそのつもりで近づいたはずだったんだけどね、君はずいぶんガードが固くて』
『そう思われていたなら心外ね、あなたにはわざと隙を見せていたつもりなのに』
『残念ながら、君みたいな子供が僕の目をごまかすのは十年早いよ』
『失礼な人』
なんだかとても遠い世界の二人の会話。
これを盗み聞いている僕は、一体、彼らの何なんだろう。
『私も……泣いちゃうかもね、そのときが来たら』
セレーナの声は寂しそうに反転する。
『私はね、あの時、もう戻れないと知ったとき、あなたはどうやってそれを乗り越えたのかを知りたかったの』
『そうだね、彼らはとても感じのいい人たちだから。特にジュンイチ君はね。きっと彼は君に――』
『それは言わないで。それを言われると、決意が鈍りそうだから』
『……そうだね。もし僕があの時、君にもう一言でもしゃべらせてしまったら、僕は違う道を選んでいたかもしれない』
『あなたが乗り越えたその方法は、小さな武器の軽いトリガーを引くことだった、そういうわけね』
『恥ずかしながら、その通りだよ。もしあのトリガーに指がかかっていなかったら』
『あなたは、どうしたかしら?』
『僕は君に……いや、よそう』
セレーナの小さな笑い声がリボンインターフェースの貧弱な集音器を通して僕の耳に届いた。
『もし違う立場で出会っていたら、ね』
『それを言わないでくれ。僕の人生の一番の後悔は、きっとそのことになるのだろうなと思ってるんだ』
『さっきのお返しよ』
『……君の騎士となって君を守る彼らがうらやましいよ』
『それでもあなたは信念を曲げるべきではないわ』
『もちろんだとも』
ピー、と、小さな電子音が聞こえる。
『ジュンイチ様、ご報告が』
二人の会話にいたたまれなくなっていた僕には、ジーニー・ルカの呼びかけはちょうどいいタイミングだった。
「ジーニー・ルカ、リボンの音声モニターは切断。何が起こってる? 状況を教えて」
とたんに、二人のいる部屋のしんとした背景雑音が途切れる。
『バルト海の自由圏連盟航空基地から発進した軍用ヘリコプター二機がまっすぐみなさまの方に向かっています。航空路線分析の結果、みなさまのいらっしゃる病院を最終目的地としている可能性が九十パーセントを超えたため、連絡いたしました』
「装備は?」
『兵員輸送用です。火器は少数。しかし、それぞれ三十人の歩兵を輸送できます』
もしここに向かっているのだとしたら。
その目標は、セレーナか、ラウリか。
ジーニー・ルカの情報防御は完璧じゃない。
居たことの痕跡は消せるが、人の目でリアルタイムでモニターしていたら、それをかく乱するのはちょっと難しい。あらかじめモニターされていることを知っていなければならないから。僕はそれを知るようにオーダーをしていなかった。この病院のあの個室がモニターされているかどうか、を。
退役したいちスパイの周辺を、そこまで張っているなんて思わなかったから。
しかし、実際には、どうやら彼はマークされていたらしい。
セレーナが現れたそのタイミングで、この完璧な初動。
僕はそれを警戒すべきだったのだ。
手落ちを悔いる前に、対策を考えなければならない。
「ヘリコプターの操縦システムに侵入できる?」
『リンクが見つかりません。侵入は不可能です』
ネットワークにつながっていない完全マニュアル操縦の軍用ヘリコプター。
ジーニー・ルカの力が及ばないものが、また見つかってしまった。
小さく単純であるほど、ジーニー・ルカの手には負えなくなってしまうのだ。
やはり、いずれは分かりやすく圧倒的な力が必要だ。
核兵器のように。
さて、それでも、まずこの目先の危機をどうしよう。
「到着時刻は」
『十分弱です』
「速いな」
屋上にドルフィン号を降ろして乗り込んで飛び立つ。
ちょっとぎりぎりかもしれない。
僕は走り出し、廊下の三人に危機を告げる。
いざと言うときはすぐに屋上に駆け上がれるように。
その間も、僕は考える。
そして、一つのシンプルなアイデアを思いつく。
「ストックホルムをカバーしているレーダー管制システムに侵入」
『完了しました』
「飛行中の識別機の中から、軍用ヘリコプターを」
『六機、捕捉しました』
できれば問題の二機だけにしておきたかったけれど、面倒だ。
「レコードの強制書き換え。六機を、不明機に」
『……完了しました』
これで、いったんは足止めできるはずだ。
「動きは?」
『六機とも、警戒網からの警告を受けて停止しました』
あとは、セレーナが出てくるのを待つだけだ。
危機を告げて呼び出しても良かった。
けれど、二人の最後の会話を邪魔したくなくて。
邪魔すべきじゃないんだろうな、なんて、ぼんやりと考えて。
それから五分も経たないうちに、戸が開いた。
セレーナが内側にもう一度微笑みかけてから、出てきた。
中に、ラウリの穏やかな笑顔がちらりと見えた。
閉じた灰色の引き戸が、彼と僕らの間を永遠に別った。
「待たせたわね、行きましょう」
「そのことだけど、少し問題が」
「自由圏の軍用ヘリがこっちに向かってるらしいです」
僕とマービンが口々に言うと、とたんにセレーナの顔がこわばる。
「どうしてすぐに呼ばなかったの!」
「その……話の邪魔をしたくなくて」
「馬鹿! それで?」
「防空システムを狂わせて足止めしてる」
「じゃそっちは続けて。この部屋が監視されていたのね? ラウリを守れる?」
「考えてみる」
「命令よ。彼を守りなさい」
僕は無言でうなずいた。
すぐに、ドルフィン号を屋上に呼び、屋上のセキュリティを解除した。
僕ら五人はすぐにドルフィン号へ。
その間も、僕はラウリを守る方法を考える。
「彼らの狙いは、ラウリさんでしょうか、セレーナさんでしょうか?」
考える僕に、話しかけてきたのはマービンだ。
「セレーナがあそこに現れたとたんだから、きっとセレーナだ」
彼に続いてドルフィン号のタラップを駆け上がりながら答える。
「だったら、セレーナさんを他の場所に移しましょう」
僕は、その言葉に首をかしげた。
もうこの通り、セレーナは、ドルフィン号の上だ。
「病院と通りの監視カメラの記録を少し加工してですね、セレーナさんは堂々とエントランスを出て、郊外の公園に向かった、とするんです」
「映像記録を? 難しいんじゃないかな。ジーニー・ルカ、できるかい?」
「北米のビデオスタジオに良いシステムがあります。拝借しましょう」
「いいぞ、この悪党め」
「お褒めにあずかり光栄です」
「ついでに、僕らとラウリの会話記録を削除――」
「それはいけません」
オーダーを出そうとする僕を、再びマービンが遮った。
「会話記録が残っていないと、彼に無用な疑いがかかります。彼を守るのでしょう? だったら、もっと無害な会話に差し替えましょう。ジーニー・ルカ、できますか?」
「可能です。ただし、リアルタイムで見ていた人の記憶までは改ざんできませんが」
「構わない。頼む。あと、ジーニー・ルカ、念のため、しばらく、ラウリの部屋をモニターしてくれないか。おかしなことが起これば報告してくれ」
僕は最後にこうオーダーし、セレーナの反応を確かめた。
彼女は、上出来、とでも言うように、うなずいた。




