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「セレン……こっちの仕事は落ち着いた所だ……」
酒場のカウンター裏にある調理場でセレンが皿を洗い終えると丁度、宿の主人が覗いて声を掛ける。
「またすぐ忙しくなるだろうが、今なら大丈夫だ」
表では常連達が酒と食事を楽しみながら騒いでいて、賑やかだ。
一通り通された注文は滞り無く全て提供し終わった。
「行くか……セレン?」
セレンは無言でその言葉に頷き、徐ろにエプロンを外しそれで手を拭いたが、その手は少し震えて見える。
「旦那の事だ、大丈夫さ」
主人がセレンの肩を軽く叩き先にカウンターを出て、セレンは落ち着かない様子で後ろを付いて行く。
「おっ!? セレン! 親父! 上がるのか? 何だよセレン!? そんなしけた顔してんじゃねぇ! 飯が不味くなる! 笑え! ホラ!」
セレンはもうここでは素顔を晒して生活している。だが、黒猫人である事を知っても、誰もセレンを避けたり攻撃したりはしてこなかった。
「ガウェインの旦那が目を覚ましたってな! 良かったじゃねぇか! ハッハッハッハッ!」
スーの言った通り、この店に集まっている裏町の連中は皆それぞれワケありで、東の大陸中から集まった、いわばガウェインの同業者達だ。スーはセレンの味方になり、主人やヤブ爺、皆との仲を取り持ってくれ意外な程すんなりと受け入れられた。
「お前ら、悪いが俺達は少し外すぞ! 何かあったら上へ声を掛けてくれ!」
主人は酒場を営みつつ、表裏、関係なく、様々な仕事の情報屋兼仲介屋もやっていて、店に集まる若い連中のまとめ役であり、父親の様な存在でもある。
「おーう! 了解だー親父ー! ガウェインの旦那によろしく言ってくれ! 早く戻って来いよ!? 俺達はまだまだ飲めるぜ! ハッハッハッ!」
耳に特徴的な傷のある狼人の青年が笑ってそう言うと、主人は背中越しに手を挙げて返事し、セレンと一緒に宿の隅にある階段へと消えた。
「良かった……目が覚めて……」
二十段ある階段をまっすぐ登り右に曲ると、左右に客室がある二階中央の通路に出て、その突き当たりにある宿で一番大きな部屋のドアを主人が開けた時、セレンの目に、隻眼の真剣な眼差しでスーの話を聞く目覚めたガウェインの姿が写り、セレンの震える口から咄嗟に心からの声が溢れた。
「セレンはヤブ爺におじさんの治療費を払う為に下の酒場で働いてるのよ!」
スーは嬉しそうに笑いながらセレンの話をしている。
「お前さん達のお陰で儂も金に困っとらん! 今は毎日、酒も飲み放題よ! ヒッヒッヒッヒ!」
別の意味で嬉しそうなヤブ爺も診察しながら話に混ざり笑っていた。
「旦那! 目が覚めて良かった! まだ今月の宿代を頂いていませんぜ!」
そう冗談を言いながら、三人の話に割って入った主人は笑顔でガウェインと拳をぶつけ合い挨拶する。
「そうか……スー、ウル爺、マレック、ありがとよ……」
セレンはその様子を見て扉の前でバツが悪そうに立ち尽くす。
「セレン! お前もな! その……助けられたな……本当にありがとう……」
ガウェインは目覚めてから初めてセレンと目を合わせると、少し照れ臭そうにそう言った。
「セレンの料理はすっごい美味しくて、もうみんなの人気者なのよ!」
スーはそう言って笑いながらガウェインの脚を叩く。
セレンの作る料理は働き出したその日の内に評判を呼び、酒場は連日、裏町の住人で溢れている。
「お陰で酒場はずっと大繁盛ですよ! 本当に忙しいですぜ! まっ! 俺も儲かって有り難いんだけどな! ヘッヘッヘ!」
マレックは嬉しそうに笑いながらセレンの背中を繰り返し叩く。
「今はまだ動く事は出来んだろうが……何とか山場は越えたじゃろう……」
隅々まで容態を観察し、ウル爺は少し安心した表情でそう言った後、小さく息を吐いて自分の腰を叩く。
「おーい! 親父ー! 酒だー、早く次の酒を持って来ーい! ガウェインの旦那が起きたってよー! ヨシお前ら! これから旦那の復帰祝だ! お前ら! もう一度、乾杯するぞ!」
痺れを切らした酒場の連中が階段の下に集まり、酒をよこせと叫びながら一斉に壁や床、机を叩く。
「もう朝から何回もしてるけどねー、乾杯……」
スーはガウェインのベットの上に頬杖ついて、呆れた表情で手で追い払う仕草をする。
「ハァー、うるせーなーアイツら……休む暇もないですぜ……。今すぐ行くから待ってろー! セレン、お前も後で降りて来てくれよ……では旦那、ゆっくり休んでください……」
マレックはガウェインに深く頭を下げ挨拶し、酒場へと戻って行く。
「おう、仕事の邪魔してすまなかったなマレック……」
「何いつまでも暗い顔してる……? 元は俺から売った喧嘩だ……」
セレンは未だドアの近くに立ち尽くし、何も話し掛けられないでいた。
「セレン、これは俺がお前にした事の結果だ……。俺はお前の大切な者を自分の都合で奪い、そして今度は自分の為にお前を傷つけた……」
マレックが去り、スーやウル爺も話が尽き、部屋が静まり返った頃合いを見て、見兼ねていたガウェインが話し掛ける。
「別に殺されたって文句は無かったんだ……」
アクロの件以前に、ガウェインは何の罪もない者を攫うといった汚い仕事はして来なかった。
どちらかと言えば、悪党相手の案件や、善人を相手するにしても金持ちを相手に少し脅して金をくすめる程度の仕事しかして来なかった。
「あのまま放っておかれても良かった……」
そもそも、昔から長い付き合いがあり、ずっと仕事や生活で世話になっているマレックも同様に、汚い、酷い案件の仕事は嫌悪して受ける事はない。
「アクロを助けに行くんだろ!」
ここは周りに差別されたり、傷付けられたりして心に傷を抱えた者、様々な事情で行き場をなくし流れついて来た者達が集まって出来た場所。皆、心根は良い者達で、困っている者の為に力を振るう事をこそ信条としている。
「本当に甘い……お前は……」
だがあの日……たまたまこの宿を訪れ居合わせた奴隷商人が持ち掛けた仕事の報酬は、長年ガウェインが抱えていた、時間的にも猶予の無かった家庭問題を瞬時に解決できるものだった。
「ウル爺、俺はどれ位で動けるようになる……?」
それに実際にアクロに出会うまでのガウェインはクロノヒトの少女が一人で東の大陸を彷徨うよりは貴族の元で過ごす方が良いに決まっていると本気で思っていたのだ。
「そうだな……お前さんの事だ……もう後ひと月もあれば動ける様にはなるだろう……」
それがセレン達と関わった故に揺らぎ、アクロの事に関しては消化しきれない気持ちが胸に残っており、今もずっと気になっている。
「そうか……分かった。ウル爺……残りの治療費は全て俺が自分で払う。金の事は心配せずもう俺にまかせろ……」
そしてそれとは別に、セレンのお陰で過去の自分と決別する事も出来た。
「そういう事でセレン……お前は今日でクビだ……。それでだ、アクロの件、急ぐ気持ちは分かるが少し俺にお前の時間をくれないか?」
そしてガウェインはまた思いついた事をすぐに口にしてしまっている。
「セレン……お前にひとつ提案がある……」
──つくづく……自分は身勝手な男だな──とガウェインはそう思う。
「──俺がお前を鍛えてやる!」
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