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恋する美人社長 ― 結婚相手を探しているのは、おじさん??  作者: マーたん


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届かないメッセージ(大人の恋の始まり)

大人になれば、恋愛も簡単になるのだろうか。

若い頃のように、相手の姿を見ただけで胸が高鳴り、何気ない言葉ひとつで一喜一憂する。そんな気持ちは、年齢を重ねるにつれて落ち着いていくものだと、神崎玲奈は思っていた。

二十五歳。

株式会社アステリアの社長として、会社を背負い、社員たちの生活を守り、誰にも弱音を吐かずに生きてきた玲奈にとって、恋愛はいつも後回しだった。

仕事で失敗すれば、責任を取らなければならない。

決断を誤れば、多くの人に迷惑をかけてしまう。

だからこそ、玲奈は何事にも慎重だった。

人との距離を縮めることにも、誰かを信じることにも、そして自分の気持ちを認めることにも。

そんな玲奈の前に現れたのが、四十五歳の矢澤賢一だった。

最初は、父親から紹介された結婚相手候補というだけの存在だった。

年齢差は二十歳。

仕事も生きてきた時代も違う。

何を話せばいいのかさえ分からず、玲奈は彼を前にして何度も戸惑った。

ところが、車の故障をきっかけに偶然出会い、二人きりで食事をしたことで、玲奈の中にあった賢一への印象は少しずつ変わっていった。

落ち着いた声。

相手を急かさない話し方。

こちらの気持ちを無理に聞き出そうとしない優しさ。

そして何より、彼は玲奈を若い社長としてだけではなく、一人の女性として見てくれた。

「思っていたより、ずっと可愛い人ですね」

その言葉を思い出すたびに、玲奈の胸は落ち着かなくなる。

ただの社交辞令だったのかもしれない。

大人の男性なら、自然に口にできる言葉なのかもしれない。

それでも、玲奈にとっては忘れられない一言だった。

一方の賢一もまた、玲奈のことを簡単には忘れられずにいた。

若くして会社を背負う彼女の強さ。

その強さの奥に隠された、不器用な一面。

そして、別れ際に勇気を振り絞って口にした「また会ってもいいですか?」という言葉。

賢一は、あのときの玲奈の表情を何度も思い返していた。

けれど、二人の間にはまだ、はっきりとした約束はない。

連絡先を交換していても、相手が何を考えているのかは分からない。

もう一度会いたいと思っていても、自分から連絡することが正しいのか迷ってしまう。

大人だからこそ、簡単には踏み出せない一歩がある。

傷つくことを恐れる気持ち。

相手の迷惑になりたくないという遠慮。

年齢差や立場の違いから生まれる、言葉にできない不安。

そして、送信ボタンを押すだけなのに、なかなか押せないメッセージ。

たった一通の連絡が、二人の関係を変えることもある。

届かないのは、メッセージなのか。

それとも、まだ伝えられない二人の本当の気持ちなのか。

第三話「届かないメッセージ(大人の恋の始まり)」。

互いに相手を意識し始めた玲奈と賢一が、ほんの少しだけ勇気を出す物語。

まだ恋だとは認められない二人の心が、ゆっくりと近づいていく。

その始まりを、どうぞお楽しみください。

第三話「届かないメッセージ(大人の恋の始まり)」


第一幕 四十五歳の迷い

賢一は、テーブルの上に置いたスマートフォンを見つめていた。

画面には、今日交換したばかりの連絡先が表示されている。

神崎玲奈。

二十五歳。

株式会社アステリアの社長。

そして、父親から結婚相手の候補として紹介された女性。

「……どうしたものかな」

賢一は小さく息を吐いた。

四十五歳にもなって、女性にメッセージを送るかどうかで悩むとは思わなかった。

これまでの人生で、仕事上の連絡なら何百回、何千回と送ってきた。

取引先への挨拶。

社員への指示。

重要な契約に関する確認。

必要なことを、必要な相手に、簡潔に伝える。

それだけのことなら迷わない。

しかし、今夜は違った。

『今日はありがとうございました。楽しかったです』

そう入力してみる。

賢一は画面を眺めた。

「……いや、これだと普通すぎるか」

文章を消した。

次に、

『今日は楽しい時間をありがとうございました。またお会いできれば嬉しいです』

と入力した。

今度は少し丁寧すぎる気がした。

「仕事のメールじゃないんだから……」

苦笑しながら、また消す。

そもそも、玲奈は自分から「また連絡します」と言っていた。

ならば、こちらから何度も連絡するのは、かえって負担になるのではないか。

二十五歳の女性にとって、四十五歳の男から頻繁に連絡が来るというのは、どうなのだろう。

自分が若い頃なら、そんなことを深く考えなかったかもしれない。

だが、今の賢一には分かっていた。

好意を持つことと、その好意を相手に押しつけることは違う。

玲奈には玲奈の生活がある。

会社があり、社員がいて、責任がある。

そして、結婚相手を選ぶ自由もある。

父親に紹介されたからといって、玲奈が自分との結婚を望んでいるとは限らない。

むしろ、年齢差を考えれば、断られて当然という可能性だってある。

「……焦ることはない」

賢一はスマートフォンを伏せた。

そう言い聞かせたものの、数秒後には再び画面を開いていた。

そして、連絡先の名前を見つめる。

神崎玲奈。

食事中、彼女は仕事の話をする時だけ、少し誇らしそうな顔をした。

社員に認めてもらいたい。

自分についてきてよかったと思ってほしい。

そんな言葉を、玲奈は真剣な表情で語っていた。

賢一は、その姿が印象に残っていた。

若いからといって、軽く考えてはいけない女性だった。

彼女は彼女なりに、重い責任を背負っている。

そして、その責任を誰かのせいにすることなく、自分の力で果たそうとしている。

「……頑張っている人だな」

賢一は、もう一度呟いた。

その声には、尊敬に近い感情が含まれていた。

だが、それだけではなかった。

玲奈が笑った時の顔。

自分の言葉に動揺して、俯いた時の仕草。

別れ際、少し迷いながらも「また会ってもいいですか」と尋ねてきた声。

それらが、何度も思い出される。

賢一は目を閉じた。

そして、ようやく認めた。

自分は、玲奈にもう一度会いたいと思っている。

ただし、それを伝えるには、まだ早いのかもしれない。

「……大人になるっていうのも、面倒なものだな」

四十五歳の男は、誰にも聞かれない独り言を残し、コーヒーを飲み干した。

その夜、賢一は結局、メッセージを送らなかった。

しかし、スマートフォンを寝室に持っていった。

自分から連絡をしないと決めたくせに、玲奈から何か届く可能性を捨てきれなかったのである。

そして、そんな自分に気づき、少しだけ笑った。

第二幕 届かない一通

翌朝。

午前六時四十分。

玲奈は、目覚まし時計が鳴るよりも早く目を覚ました。

いつもなら、起きてすぐに仕事の予定を確認する。

しかし、この朝は違った。

枕元に置いていたスマートフォンを手に取り、画面を開く。

通知はない。

メールもない。

電話の着信もない。

そして、賢一からのメッセージもなかった。

「……でしょうね」

玲奈は自分に言い聞かせた。

別に、連絡が来ると約束したわけではない。

昨日の食事が終わった時、自分から連絡すると言ったのだ。

だから、賢一が待っているかどうかも分からない。

それなのに、どうしてこんなに気になるのだろう。

玲奈はベッドから起き上がった。

カーテンを開けると、朝の光が部屋に差し込んだ。

今日も一日が始まる。

仕事をしなければならない。

社長として、やるべきことがある。

「よし。切り替えよう」

玲奈は洗面所へ向かった。

顔を洗い、髪を整え、仕事用のスーツに着替える。

鏡の前に立つと、そこにはいつもの自分がいた。

神崎玲奈。

株式会社アステリアの社長。

二十五歳という若さで会社を任され、誰よりも努力してきた女性。

昨日の食事で少しばかり動揺したからといって、自分の生活を乱すつもりはない。

「恋愛なんて、まだ先の話よ」

そう言って、玲奈は鞄を手に取った。

玄関を出る直前、もう一度スマートフォンを確認した。

やはり、何も届いていなかった。

玲奈は小さく唇を尖らせた。

「……本当に、何とも思ってないのかしら」

口にしてから、慌てて首を振った。

「違う違う! 何とも思ってなくていいの!」

誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。

ただ、一つだけ確かなことがあった。

昨日までなら、誰から連絡が来ようと、それほど気にしなかった。

今朝は違う。

たった一人の男性からの連絡がないことを、こんなにも気にしている。

その事実が、玲奈を少しずつ落ち着かなくさせていた。

第三幕 社長の異変

午前九時。

株式会社アステリア。

会議室には、役員と各部門の責任者が集まっていた。

玲奈は資料を手に、会議の進行を務めていた。

「では、先月の売上実績から確認します」

いつも通りの声。

いつも通りの表情。

誰が見ても、普段の玲奈だった。

営業部長が説明を始める。

玲奈は資料に目を通し、必要な数字を確認した。

「この部門は前年同期比で八パーセント伸びていますね。ただし、利益率が少し落ちています。原因を分析して、来週までに改善案を出してください」

「承知しました」

「それから、来月の新規案件についてですが――」

玲奈は次々と議題を進めていった。

会議は順調だった。

少なくとも、周囲にはそう見えていた。

しかし、ある瞬間だった。

役員の一人が、机の上に置いたスマートフォンを手に取った。

その画面が一瞬光った。

玲奈の視線が、思わずそちらへ向かった。

「……社長?」

営業部長の声に、玲奈ははっとした。

「はい?」

「こちらの提案について、ご意見をいただけますか?」

「あ、ええ。そうですね」

玲奈は資料に目を落とした。

ほんの一瞬、頭の中が真っ白になっていた。

自分が会議中に話を聞き逃すなど、普段ならあり得ない。

「失礼しました。もう一度、説明していただけますか」

「もちろんです」

説明が再開される。

玲奈は真剣に耳を傾けた。

今度は内容を聞き逃さなかった。

それでも、会議が終わるまで、どこか落ち着かなかった。

午前十一時半。

すべての議題が終わり、役員たちが退室していく。

最後に残ったのは、玲奈の秘書を務める三十代の女性だった。

秘書は書類を整理しながら、玲奈の顔をちらりと見た。

「社長」

「何?」

「今日は、何かございましたか?」

「どうして?」

「少し、いつもと違うように見えましたので」

玲奈はすぐに答えた。

「何もないわよ」

「そうですか」

秘書は、それ以上追及しなかった。

しかし、書類をまとめながら、何かを思い出したように微笑んだ。

「社長にも、そういう日があるんですね」

「……どういう意味?」

「いえ。いつも完璧でいらっしゃるので」

玲奈は眉を寄せた。

「私は別に、完璧じゃないわ」

「存じております」

「だったら、どうしてそんなことを言うのよ」

「今日は、少し人間らしい表情をなさっていたので」

「……あなたね」

玲奈は呆れたように息を吐いた。

秘書は笑顔のまま、一礼した。

「午後の予定は、いつも通りです。お昼休憩をきちんと取ってくださいね」

「分かってるわ」

秘書が退室すると、玲奈は椅子の背もたれに体を預けた。

そして、机の引き出しからスマートフォンを取り出した。

画面を開く。

通知はない。

「……もう!」

玲奈はスマートフォンを机に置いた。

会社では社長として振る舞える。

仕事の判断もできる。

社員への指示も出せる。

なのに、たった一人の男性から連絡が来ないというだけで、気持ちが乱れてしまう。

玲奈は額に手を当てた。

「私、こんなに面倒な人だったかしら……」

答えてくれる人はいなかった。

第四幕 送れない文章

昼休み。

玲奈は社長室で、一人、昼食を取っていた。

食事をしながら、何気なくスマートフォンを手に取る。

連絡先の一覧を開く。

その中に、矢澤賢一の名前があった。

玲奈はしばらく、その名前を見つめた。

「……私から送ればいいだけじゃない」

そう。

別に難しいことではない。

昨日、自分から連絡すると言ったのだから、こちらから連絡するのが自然だ。

そう考えれば、何も問題はない。

玲奈はメッセージ画面を開いた。

そして、文字を入力する。

『矢澤さん、昨日はありがとうございました』

そこまで書いて、指が止まった。

「……これでいいの?」

仕事の連絡なら、これで十分だ。

しかし、今回は仕事ではない。

玲奈は少し考えて、続きを入力した。

『昨日はありがとうございました。お話しできて楽しかったです』

読み返す。

悪くない。

失礼でもないし、馴れ馴れしすぎるわけでもない。

玲奈は送信ボタンを見つめた。

押せばいい。

それだけだ。

ところが、指が動かない。

「……何でよ」

玲奈は小さく呟いた。

たった一通のメッセージである。

会社の重要な契約書に署名するわけでもない。

大勢の前で発表するわけでもない。

ただ、昨日食事をした男性に、お礼を伝えるだけだ。

それなのに、心臓が妙に速く動いていた。

「変に思われたらどうしよう……」

その考えが浮かび、玲奈は固まった。

変に思われる。

何を?

昨日、自分からまた会いたいと言った。

賢一も、もちろんだと答えた。

それなら、お礼の連絡を送ることに何の問題があるのだろう。

しかし、玲奈には一つだけ、どうしても気になることがあった。

もし、賢一が自分を恋愛対象として見ていなかったら。

もし、ただ父親に頼まれたから食事をしてくれただけだったら。

もし、自分が一人で浮かれているだけだったら。

送信ボタンを押した瞬間、そんな現実を知ってしまうかもしれない。

「……嫌だな」

玲奈はスマートフォンを伏せた。

今まで、結果が分からないことを恐れた経験は何度もある。

会社を引き継いだばかりの頃。

大きな契約を結ぶ直前。

経営判断を迫られた時。

それでも、玲奈は決断してきた。

失敗を恐れて何もしなければ、何も変わらないと知っていたからだ。

それなのに、今回は違った。

たった一人の男性の気持ちが分からない。

それだけのことが、ひどく怖かった。

玲奈はもう一度、スマートフォンを手に取った。

そして、深呼吸をした。

「……よし」

送信ボタンを押す。

画面に、小さな吹き出しが表示された。

『矢澤さん、昨日はありがとうございました。お話しできて楽しかったです』

送信完了。

「……送っちゃった」

玲奈は目を丸くした。

たったそれだけのことなのに、全身から力が抜けた。

そして、数秒後。

画面を見つめる。

既読にはならない。

当然、返信もない。

「……忙しいのよね」

玲奈はスマートフォンを置いた。

しかし、三十秒後には再び手に取っていた。

まだ返信はない。

一分後。

やはり、ない。

五分後。

何も変わらない。

「……もう、仕事!」

玲奈はスマートフォンを引き出しにしまった。

午後の仕事に集中する。

そう決めた。

けれど、心のどこかでは、ずっと待っていた。

画面が光る瞬間を。

矢澤賢一からの、たった一通のメッセージを。

第五幕 届かなかった理由

午後一時二十分。

矢澤賢一は、取引先の事務所で打ち合わせをしていた。

目の前には、契約書と見積書が並んでいる。

「この部分についてですが、納期を二週間ほど延ばしていただくことは可能でしょうか」

取引先の担当者が尋ねる。

賢一は資料を確認した。

「理由を詳しく教えていただけますか」

「実は、部品の調達に遅れが出ておりまして……」

「なるほど」

賢一は相手の説明を聞き、必要な条件を整理していった。

こうした交渉は、彼にとって日常だった。

感情だけで判断せず、相手の事情を理解したうえで、現実的な解決策を探す。

それが、賢一の仕事のやり方だった。

打ち合わせは予定より長引いた。

ようやく話がまとまり、賢一が事務所を出たのは午後二時を過ぎた頃だった。

車に戻り、運転席に座る。

そして、スマートフォンを取り出した。

通知が一件。

画面には、神崎玲奈の名前が表示されていた。

賢一は一瞬、動きを止めた。

「……玲奈さん?」

メッセージを開く。

『矢澤さん、昨日はありがとうございました。お話しできて楽しかったです』

短い文章だった。

しかし、賢一は何度も読み返した。

昨日の食事。

別れ際の玲奈の表情。

そして、このメッセージ。

賢一の口元に、自然と笑みが浮かんだ。

「……よかった」

何がよかったのか、自分でもうまく説明できなかった。

玲奈が自分との食事を楽しんでくれたこと。

もう一度話す機会があるかもしれないこと。

あるいは、自分だけが昨日の時間を特別に感じていたわけではなかったこと。

そのすべてが、嬉しかった。

賢一はすぐに返信しようとした。

『こちらこそ、ありがとうございました。僕も楽しかったです』

入力して、読み返す。

少し考えてから、続きを加えた。

『お仕事もお忙しいと思いますが、無理をなさらないでくださいね』

送信しようとして、指が止まった。

「……いや、余計なお世話かな」

玲奈は社長だ。

仕事が忙しいことは分かっている。

しかし、本人が好きで取り組んでいる仕事に対して、無理をするなと言うのは、少し違うかもしれない。

賢一は文章を直した。

『こちらこそ、ありがとうございました。僕も楽しかったです。また機会があれば、ぜひ食事に行きましょう』

今度は自然だった。

送信ボタンを押そうとした、その時。

電話が鳴った。

会社の従業員からだった。

「はい、矢澤です」

『社長、申し訳ありません。急ぎで確認していただきたいことがありまして』

賢一はスマートフォンの画面を見た。

玲奈への返信は、まだ送信されていない。

「分かりました。今から戻ります」

電話を切り、賢一はエンジンをかけた。

玲奈への返信を送るつもりだった。

本当に、すぐに送るつもりだったのだ。

しかし、会社に戻ると、急な対応に追われた。

取引先への連絡。

書類の修正。

従業員との打ち合わせ。

気がつけば、時計は午後五時を回っていた。

賢一はようやく仕事の区切りをつけ、椅子に座った。

そして、机の上のスマートフォンを見た。

「……あ」

玲奈への返信。

送っていなかった。

賢一は慌てて画面を開いた。

文章は残っていた。

しかし、時間が経ちすぎている。

今さら送るのも、妙に遅い気がした。

「いや、遅くても送ればいいだろう」

自分に言い聞かせ、送信ボタンを押した。

メッセージが送信された。

賢一は、ほっと息を吐いた。

ところが、その時にはもう、玲奈は別のことを考え始めていた。

第六幕 返信がない午後

午後三時。

玲奈は会議室で、資料の説明を受けていた。

スマートフォンは社長室の引き出しにしまったままだった。

仕事に集中すると決めたからだ。

しかし、説明を聞きながらも、心のどこかで気になっていた。

返信は来ただろうか。

まだだろうか。

忙しいのだろうか。

それとも――。

「社長、ご確認をお願いします」

「はい」

玲奈は資料を受け取り、内容に目を通した。

「こちらの数字ですが、先月の報告書と一致していませんね」

「申し訳ありません。確認いたします」

「数字の違いは小さくても、原因を明確にしてください。今後の判断に関わりますから」

「承知しました」

玲奈は冷静だった。

仕事の判断に迷いはない。

それでも、会議が終わるたびに、スマートフォンを確認したくなる。

午後四時。

社長室に戻った玲奈は、引き出しを開けた。

画面を確認する。

通知はない。

「……そう」

玲奈はスマートフォンを置いた。

午後四時半。

再び確認する。

やはり、ない。

午後五時。

また確認する。

何もない。

「……忙しいんでしょうね」

玲奈はそう呟きながら、椅子に座り直した。

自分から送ったのだから、返信を催促することなどできない。

そもそも、相手には返信する義務などない。

昨日の食事が楽しかったからといって、同じ気持ちを返してもらえるとは限らない。

玲奈は、そのことを理解していた。

理解しているつもりだった。

それなのに、胸の奥が少しずつ重くなっていく。

「……やっぱり、送らなければよかったかな」

呟いた声は、自分でも驚くほど小さかった。

その時、秘書がノックをした。

「失礼します。社長、こちらの書類にご署名をお願いします」

「分かったわ」

玲奈はすぐに表情を整えた。

書類を確認し、署名する。

秘書が退室すると、玲奈は深く息を吐いた。

「……何やってるんだろう、私」

自分でも分からなかった。

たった一通の返信を待っている。

それだけのことなのに、こんなにも気持ちが揺れる。

今までの人生で、誰かの返事を待つことが、これほど長く感じられたことはなかった。

玲奈は窓の外を見た。

夕方の街には、仕事を終えた人々が行き交っている。

それぞれに生活があり、それぞれに帰る場所がある。

自分も、いつも通り仕事を終えて帰ればいい。

それだけのことだ。

「……帰ろう」

玲奈は鞄を手に取った。

スマートフォンを確認することなく、社長室を出た。

その時、画面には、賢一からの返信が届いていた。

玲奈はまだ、それを知らなかった。

第七幕 たった一通の返信

午後六時十五分。

玲奈は自宅に戻っていた。

着替えを済ませ、リビングのソファに座る。

仕事は終わった。

夕食も、簡単なもので済ませるつもりだった。

いつもと同じ夜。

そう思おうとした。

けれど、どうしても気になる。

玲奈はスマートフォンを手に取った。

そして、画面を開いた。

新着メッセージ。

送り主は、矢澤賢一。

玲奈は目を見開いた。

「……えっ?」

心臓が跳ねた。

すぐにメッセージを開く。

『こちらこそ、ありがとうございました。僕も楽しかったです。また機会があれば、ぜひ食事に行きましょう』

短い文章だった。

たった二行。

それなのに、玲奈は何度も読み返した。

「……また、食事に」

声に出してみる。

もう一度、読む。

『僕も楽しかったです』

そこまで読んだところで、玲奈はスマートフォンを胸元に抱えた。

「……よかった」

自然と、そんな言葉がこぼれた。

返事が来ただけで、こんなにも安心する。

自分から送ったメッセージを、迷惑だと思われていなかった。

少なくとも、賢一は昨日の食事を楽しかったと言ってくれた。

そして、また食事に行こうと書いてくれた。

玲奈は、ようやく笑顔になった。

しかし、すぐに別の問題が浮かんだ。

「……何て返せばいいの?」

返事をもらえたことは嬉しい。

だが、そこで会話が終わってしまうのは寂しかった。

もう少し話したい。

もう少し、賢一のことを知りたい。

そう思っている自分がいた。

玲奈は文章を入力した。

『ありがとうございます。またぜひお願いします』

読み返す。

丁寧だ。

しかし、これでは少し他人行儀すぎる気もした。

消して、もう一度入力する。

『私も楽しかったです。またお食事に行きましょう』

「……これでいいかな」

送信しようとして、また指が止まった。

積極的すぎないだろうか。

二十五歳の女性から、四十五歳の男性に、こんなに前向きな返事を送っていいのだろうか。

玲奈は自分の考えに呆れた。

「もう、何なのよ……!」

思い切って送信ボタンを押した。

『私も楽しかったです。またお食事に行きましょう』

送信完了。

玲奈はスマートフォンを置き、ソファの背もたれに体を預けた。

「……送れた」

今度は、送信したことを後悔しなかった。

少しだけ勇気を出せた自分を、褒めてやりたい気分だった。

そして、しばらくして。

スマートフォンが震えた。

賢一からだった。

『ありがとうございます。では、次は僕にお店を選ばせてください』

玲奈は思わず笑った。

「……何それ」

口元が緩む。

『楽しみにしています』

そう返信すると、今度はすぐに返事が届いた。

『期待に応えられるよう、探しておきます』

玲奈は声を出して笑った。

たった数通のやり取り。

それだけなのに、今日は一日中、胸の奥にあった不安が消えていくようだった。

そして、気づいた。

自分は、賢一ともう一度会いたいのだ。

誰かに言われたからではない。

父親に勧められたからでもない。

自分自身が、そう思っている。

それが分かっただけで、玲奈の心は少し軽くなった。

第八幕 父親の電話

午後七時。

玲奈が夕食の準備を始めようとした時、スマートフォンに別の着信が入った。

画面には、父親の名前が表示されていた。

「……お父さん?」

玲奈は電話に出た。

「もしもし?」

『玲奈、今、大丈夫か?』

「ええ。どうしたの?」

『昨日の食事のことだが』

玲奈の手が止まった。

「……その話?」

『ああ。賢一さんとは、どうだった?』

玲奈は一瞬、返事に迷った。

父親に正直に話してもいい。

けれど、先ほどまで賢一とメッセージをやり取りしていたことは、まだ知られたくなかった。

何となく、恥ずかしかったのだ。

「普通だったわよ」

『普通?』

「ええ。食事をして、いろいろ話しただけ」

『そうか』

父親は少し間を置いた。

『嫌な思いはしなかったか?』

その声は、いつもより穏やかだった。

玲奈は思わず表情を緩めた。

「……うん。大丈夫だった」

『そうか。それならよかった』

父親は安堵したように息を吐いた。

『ただな、玲奈』

「何?」

『結婚のことは、お前自身が決めることだ。私が紹介したからといって、無理に進める必要はない』

玲奈は黙った。

その言葉は、少し意外だった。

父親は、もっと結婚を急がせるものだと思っていた。

「……お父さん、賢一さんのこと、どう思ってるの?」

『仕事に対して真面目な人だと思っている。人柄も悪くない』

「それだけ?」

『それ以上は、お前が自分で確かめなさい』

玲奈は小さく笑った。

「……分かった」

電話の向こうで、父親も少し笑ったようだった。

『それと、玲奈』

「何?」

『お前は昔から、何でも一人で決めようとするところがある』

玲奈は眉を寄せた。

「……悪い?」

『悪いとは言っていない。ただ、仕事でも人生でも、一人ですべてを背負う必要はないということだ』

玲奈は、すぐには答えられなかった。

会社を継いでから、ずっとそうしてきた。

周囲に弱みを見せない。

判断を間違えない。

誰よりも努力する。

その姿勢が、今の会社を築いた一因でもある。

しかし、父親の言葉には、別の意味があるように感じられた。

「……ありがとう」

玲奈は静かに答えた。

『無理をするなよ』

「分かってるわ」

電話を切る。

玲奈はしばらく、その場に立っていた。

そして、スマートフォンを見つめた。

賢一から届いたメッセージ。

父親からの言葉。

今日一日で、自分の気持ちは思っていた以上に動いていた。

恋愛をするつもりなどなかった。

少なくとも、今すぐ誰かを好きになるとは思っていなかった。

それなのに。

「……もう一度、会いたいな」

今度は、はっきりと口にできた。

第九幕 賢一の過去

同じ頃。

賢一は、自宅の書斎で仕事の整理をしていた。

机の上には、明日の予定表と書類が並んでいる。

その隅には、古い写真立てが置かれていた。

賢一は、ふと手を止めた。

写真立てには、若い頃の賢一が写っていた。

今よりも髪が多く、表情も少し違う。

その隣には、一人の女性がいた。

穏やかな笑顔を浮かべた、落ち着いた雰囲気の女性だった。

賢一は写真を手に取った。

「……久しぶりだな」

誰に向けた言葉なのか。

自分でも分からなかった。

写真の女性は、賢一の過去に深く関わる人物だった。

今の玲奈は、まだ知らない。

賢一が四十五歳になるまで、どんな人生を歩んできたのか。

何を失い、何を諦め、何を胸にしまって生きてきたのか。

彼が独立した理由も、ただ会社のやり方が気に入らなかったからというだけではない。

その頃、賢一には守りたいものがあった。

しかし、守りきれなかったものもあった。

そして、その経験が、彼を慎重な人間に変えていた。

誰かを好きになること。

誰かと人生を共にすること。

それらは、簡単に決めていいことではない。

賢一は写真を元の場所に戻した。

その時、スマートフォンが震えた。

玲奈からの返信だった。

『楽しみにしています』

賢一は画面を見つめた。

先ほどまで胸にあった過去の重さが、少しだけ和らいだ気がした。

「……ありがとう、玲奈さん」

小さく呟く。

彼女はまだ、自分の過去を知らない。

それでも、今はそれでいいと思った。

過去を隠したまま、相手を自分の人生に引き込むつもりはない。

いずれ話さなければならない時が来る。

その時、玲奈がどう受け止めるかは分からない。

それでも、彼女と向き合うのなら、自分もまた誠実でありたい。

賢一はスマートフォンを置いた。

そして、久しぶりに、誰かと過ごす未来を考えた。

二十歳も年下の女性。

若く、強く、仕事に情熱を持つ女性。

自分とは違う世界を生きている女性。

彼女と一緒にいたら、どんな会話をするのだろう。

どんな場所へ行くのだろう。

そんなことを考える自分に、賢一は少し驚いていた。

四十五歳になっても、人の心は変わる。

過去を抱えたままでも、新しい一歩を踏み出せるのかもしれない。

しかし、賢一はまだ知らなかった。

玲奈との出会いが、自分の人生を大きく変えていくことを。

そして、かつて胸にしまった過去と、もう一度向き合う日が近づいていることを。

第十幕 二度目の約束

三日後。

玲奈は、会社の会議を終えた後、窓の外を眺めていた。

午後五時。

仕事はまだ残っている。

しかし、今日はどうしても早めに帰りたかった。

理由は一つ。

翌日の夜、賢一と二度目の食事をする約束をしていたからだ。

約束を決めたのは、前日の夜だった。

賢一から、

『もしご都合がよければ、明日の夜はいかがでしょうか』

とメッセージが届いた。

玲奈は、すぐに返信した。

『大丈夫です。ぜひお願いします』

送信してから、少しだけ後悔した。

もっと落ち着いた文章にすればよかった。

しかし、賢一から、

『ありがとうございます。お店を予約しておきますね』

と返事が届いた時には、嬉しさの方が勝っていた。

そして、今日。

玲奈は朝から、何となく落ち着かなかった。

仕事の合間に、明日の予定を確認する。

着ていく服を考える。

髪型をどうするか悩む。

そんな自分が、信じられなかった。

「……私、何歳だと思ってるのよ」

玲奈は社長室で一人、呟いた。

二十五歳。

もう子供ではない。

会社を経営し、多くの社員の生活を背負っている。

それなのに、二度目の食事を前にして、まるで初めてのデートを待つ少女のようだった。

その時、秘書が入室した。

「社長、こちらの書類ですが」

「ありがとう。そこに置いておいて」

玲奈は書類を受け取り、目を通した。

秘書は一度退室しかけたが、ふと振り返った。

「社長」

「何?」

「明日は、何かご予定がおありですか?」

玲奈は顔を上げた。

「……どうして?」

「明日の午後、いつもより早く予定を整理されているので」

「別に。たまたまよ」

「そうですか」

秘書は微笑んだ。

「それなら、よろしいのですが」

「……何か言いたいことがあるなら、はっきり言って」

「いえ。社長が楽しそうで、何よりだと思っただけです」

「楽しそう?」

「はい」

玲奈は言葉に詰まった。

秘書は軽く頭を下げた。

「では、失礼します」

扉が閉まる。

玲奈はしばらく動かなかった。

そして、ゆっくりと頬に手を当てた。

「……そんなに顔に出てる?」

自分では、いつも通りのつもりだった。

しかし、周囲から見れば、何かが変わっているのかもしれない。

玲奈は小さく笑った。

明日、賢一に会う。

そう考えるだけで、心が少し弾む。

まだ、恋人ではない。

結婚するかどうかも分からない。

年齢差だって、簡単に消えるものではない。

それでも、もう一度会いたいと思う。

その気持ちだけは、間違いなかった。

第十一幕 夜のメッセージ

その日の午後九時。

玲奈は入浴を終え、部屋着に着替えていた。

髪を乾かし、ベッドに腰掛ける。

スマートフォンを手に取ると、賢一からメッセージが届いていた。

『明日は午後七時に、駅前でお待ちしています。お仕事が長引くようでしたら、遠慮なく連絡してください』

玲奈は微笑んだ。

相変わらず、丁寧な文章だった。

しかし、その丁寧さが、今は心地よかった。

『ありがとうございます。楽しみにしています』

送信する。

少し考えてから、もう一通、文章を入力した。

『矢澤さんは、明日のお仕事は大丈夫ですか?』

送信ボタンを押す。

すぐに返事が来た。

『はい。明日は夕方までに仕事を終える予定です』

玲奈は、さらに返信した。

『よかったです』

そこで、会話が途切れた。

玲奈は画面を見つめた。

何か、もう少し話したい。

しかし、話題が思いつかない。

仕事の話をするのも違う気がする。

明日の食事のことを聞くのも、少し楽しみにしていることが伝わりすぎる気がした。

玲奈は悩んだ末、思い切って入力した。

『矢澤さんって、普段はどんな休日を過ごしているんですか?』

送信。

今度は、少し時間がかかった。

一分。

二分。

玲奈は画面を見つめていた。

やがて、返信が届いた。

『特別なことはしていませんよ。家の掃除をしたり、料理をしたり、散歩をしたり。あとは本を読むこともあります』

玲奈は興味深そうに読んだ。

『料理、得意なんですよね?』

『得意というほどではありません。食べられるものを作っているだけです』

玲奈は笑った。

『それでも、私よりは得意だと思います』

『神崎さんは、料理をされないんですか?』

玲奈は少し考えた。

『ほとんどしません。仕事が忙しくて』

『そうでしたね。社長業は大変でしょう』

『でも、最近は少しぐらい自分の時間を作ってもいいのかなと思っています』

送信してから、玲奈は画面を見つめた。

今の言葉は、ただの世間話だったのだろうか。

それとも、賢一と話しているうちに、自分の考えが少し変わったということなのだろうか。

自分でも、はっきりとは分からなかった。

賢一から返信が届いた。

『そう思えるようになったのなら、よかったです。仕事も大切ですが、神崎さん自身の時間も大切にしてくださいね』

玲奈は、その文章をゆっくりと読み返した。

自分自身の時間。

これまで、そんなことを真剣に考えたことはなかった。

仕事が終われば、翌日の準備をする。

休日も、会社のことが気になれば出社する。

何か問題が起きれば、すぐに対応する。

それが当然だと思っていた。

しかし、賢一は違う。

仕事を大切にしながらも、自分の人生を生きている。

自分で選び、自分で決める。

その姿勢が、玲奈には少し眩しく感じられた。

『ありがとうございます』

玲奈は返信した。

そして、しばらく迷った後、もう一言付け加えた。

『矢澤さんと話していると、いろいろ考えさせられます』

送信した瞬間、玲奈は目を見開いた。

「……何送ってるの、私!」

思わずスマートフォンを伏せる。

しかし、すぐに気になって、また画面を開いた。

既読がついている。

返信を待つ。

やがて、メッセージが届いた。

『それは光栄です。でも、僕も神崎さんと話していると、刺激を受けますよ』

玲奈は微笑んだ。

『私がですか?』

『はい。自分の仕事に真剣に向き合っている姿勢は、見習わなければいけないと思いました』

玲奈は少し照れくさくなった。

『そんな、大したことではありません』

『大したことですよ』

その一言に、玲奈は黙った。

賢一は、いつもそうだった。

大げさな言葉を使うわけではない。

無理に褒めようとするわけでもない。

ただ、思ったことを自然に伝えてくれる。

だからこそ、言葉が心に残る。

玲奈は、ゆっくりと返信した。

『……ありがとうございます。嬉しいです』

今度は、すぐには返事が来なかった。

玲奈はスマートフォンを見つめながら、少しだけ笑った。

明日は、二度目の食事。

昨日よりも、少しだけ近い距離で話せるだろうか。

賢一のことを、もっと知ることができるだろうか。

そして、自分の気持ちも、少しずつ分かってくるのだろうか。

玲奈はスマートフォンを枕元に置いた。

今夜は、昨日よりも穏やかな気持ちで眠れそうだった。

第十二幕 二十歳の差

一方、賢一は自宅のリビングで、玲奈とのやり取りを思い返していた。

会話は短い。

特別なことを話したわけでもない。

それでも、心地よい時間だった。

「……不思議な人だな」

賢一は呟いた。

玲奈は若い。

自分とは、二十歳も年が離れている。

育ってきた時代も違う。

見てきたものも、経験してきたことも違う。

玲奈が二十五歳だった頃、自分は四十五歳だった。

いや、正確には、今の自分が四十五歳なのだから、玲奈が生まれた頃、自分は二十歳だったことになる。

そう考えると、年齢差の大きさを改めて感じた。

二十歳。

賢一にとっては、人生の方向を模索していた時期だった。

仕事に就き、社会の厳しさを知り、理想と現実の違いに戸惑っていた。

一方、玲奈は二十五歳で会社を背負っている。

その責任の重さは、賢一にも想像できた。

だからこそ、軽い気持ちで近づくことはできない。

玲奈が自分をどう思っているのか。

年齢差をどう受け止めているのか。

結婚について、どんな考えを持っているのか。

それらを知らないまま、勝手に期待するわけにはいかなかった。

賢一は、スマートフォンを机に置いた。

「……ゆっくりでいい」

自分に言い聞かせる。

玲奈と知り合ったばかりなのだ。

まずは、互いを知ること。

それから、少しずつ考えればいい。

焦る必要はない。

そう考えた時、賢一の頭に、昔の記憶が浮かんだ。

誰かと近づくことが、必ずしも幸せにつながるとは限らない。

大切に思うからこそ、相手を傷つけてしまうこともある。

そして、一度失ったものは、簡単には取り戻せない。

賢一は静かに目を閉じた。

自分の過去を、玲奈に話す日は来るだろう。

その時、彼女がどんな表情をするのか。

何を思うのか。

今は、まだ分からない。

ただ一つだけ、決めていることがあった。

もし、玲奈と本気で向き合うのなら、年齢差を理由に逃げることも、年齢差を忘れて無責任に振る舞うこともしない。

彼女を一人の大人として尊重する。

彼女の人生を、自分の都合で決めない。

そして、自分の気持ちにも嘘をつかない。

賢一は、もう一度スマートフォンを手に取った。

画面には、玲奈とのメッセージが残っている。

最後の一言。

『……ありがとうございます。嬉しいです』

その文章を見て、賢一は静かに微笑んだ。

「……明日が楽しみだな」

その言葉を口にした時、彼は自分の心が確かに動き始めていることを認めた。

第十三幕 まだ恋とは呼べない

翌朝。

玲奈は、いつもより少し早く目を覚ました。

窓の外は晴れていた。

部屋に差し込む光を見ながら、玲奈はゆっくりと体を起こした。

今日は賢一と二度目の食事をする日だ。

そう思うと、自然に頬が緩んだ。

「……おはよう、私」

誰に聞かせるわけでもなく、玲奈は呟いた。

洗面所へ向かい、顔を洗う。

鏡を見る。

いつもの自分。

それなのに、何かが少し違って見えた。

昨日までは、ただ仕事をこなすことが生活の中心だった。

もちろん、今も仕事は大切だ。

社長としての責任は変わらない。

けれど、それ以外にも、楽しみにしていいことがあるのかもしれない。

そう思えるようになっていた。

玲奈は、クローゼットを開けた。

仕事用の服とは別に、私服が並んでいる。

昨日も食事のために服を選んだが、今日はどうしようか。

「……別に、気合いを入れる必要はないわよね」

そう言いながら、玲奈は何着も取り出していた。

落ち着いた色のワンピース。

少し華やかなブラウス。

以前、友人に勧められて買った服。

どれも悪くない。

しかし、どれを着ても、どこかしっくりこない。

「……何でこんなに悩むのよ」

玲奈はため息をついた。

その時、ふと気づいた。

自分は、賢一にどう見られたいのだろう。

社長として、しっかりした女性だと思われたいのか。

それとも、一人の女性として、少しでも魅力的だと思われたいのか。

考えた瞬間、玲奈の顔が熱くなった。

「……もう、やめ!」

結局、玲奈は自分が気に入っている服を選んだ。

誰かに気に入られるためではない。

自分が着たいと思ったから。

そう考えることにした。

支度を終え、鞄を持つ。

玄関で靴を履きながら、玲奈はスマートフォンを確認した。

賢一からの新しいメッセージはない。

けれど、もう不安にはならなかった。

昨日、何度もやり取りをした。

明日の約束も決まっている。

それだけで十分だった。

玲奈は玄関の扉を開けた。

「……よし、今日も頑張ろう」

会社へ向かう足取りは、いつもより少し軽かった。

そして、心の中で、そっと呟いた。

――早く、夜にならないかな。

その気持ちが何なのか、玲奈はまだ言葉にできなかった。

ただ、賢一に会いたかった。

それだけは、もう否定できなかった。

第十四幕 小さな始まり

夜。

仕事を終えた玲奈は、約束の場所へ向かっていた。

車の窓から、街の明かりが流れていく。

交差点の信号が赤に変わり、玲奈は車を止めた。

ふと、最初に賢一と出会った日のことを思い出した。

あの日も、こんなふうに車を運転していた。

突然の故障。

困り果てた自分。

そこへ現れた、一人の男性。

もし、あの日、車が故障していなかったら。

もし、賢一が通りかからなかったら。

もし、父親からの紹介がなかったら。

二人は、出会うことさえなかったかもしれない。

「……不思議ね」

玲奈は小さく呟いた。

人生は、思いがけない出来事で変わる。

それは、仕事でも同じだった。

ほんの小さな判断が、大きな結果につながることがある。

けれど、恋愛については、まだ何も分からない。

ただ一つ分かっているのは、今日という日を楽しみにしている自分がいるということだった。

やがて、待ち合わせ場所が見えてきた。

玲奈は車を停め、エンジンを切った。

そして、スマートフォンを手に取る。

賢一からメッセージが届いていた。

『到着しました。入口の近くでお待ちしています』

玲奈は思わず笑った。

『私も、もうすぐ着きます』

送信して、車を降りる。

夜風が頬を撫でた。

店の入口に、一人の男性が立っていた。

矢澤賢一。

玲奈に気づくと、彼は穏やかに微笑んだ。

「神崎さん」

「矢澤さん。お待たせしました」

「いえ、僕も今来たところです」

その言葉を聞いて、玲奈は少し笑った。

前にも聞いた言葉だ。

けれど、今日は少しだけ違って聞こえた。

「今日は、どんなお店なんですか?」

「入ってからのお楽しみです」

「……何ですか、それ」

「期待に応えられるか、少し心配ですが」

「大丈夫ですよ」

玲奈は、自然にそう答えていた。

賢一が少し驚いた顔をする。

「そう言っていただけると、安心します」

二人は顔を見合わせ、笑った。

そして、一緒に店の中へ入っていった。

まだ、恋人ではない。

結婚の約束もしていない。

二十歳という年齢差も、互いの過去も、これから少しずつ知っていかなければならない。

それでも、二人はもう、最初に出会った時とは違っていた。

相手のことを知りたい。

相手の話を聞きたい。

もう一度、会いたい。

その気持ちを、少しずつ確かめ始めていた。

恋は、いつ始まるのだろう。

玲奈はまだ、その答えを知らない。

賢一も、まだ答えを出していない。

けれど、二人が交わしたメッセージは、確かに互いの心へ届いていた。

たとえ返信が遅れても。

たとえ言葉に迷っても。

たとえ、まだ自分の気持ちを認められなくても。

一歩ずつ、距離は近づいていく。

そして、この二度目の食事が終わる頃には、二人の関係に、また新しい変化が生まれることになる。

それは、まだ誰にも分からない。

ただ一つだけ確かなのは――

この夜、二人は初めて、誰かに決められた出会いではなく、自分たちの意志で同じ時間を過ごそうとしていた。

第三話を読んでいただき、ありがとうございます。

今回は、神崎玲奈と矢澤賢一が、二人きりの食事を終えたあと、それぞれの日常に戻りながらも、相手のことを忘れられなくなっていく様子を描くお話です。

二人の関係は、まだ恋人ではありません。

結婚を前提として紹介された二人ですが、だからといって、すぐに恋愛感情が生まれるわけではありません。

相手のことをもっと知りたい。

もう一度会いたい。

できれば、自分のことも知ってほしい。

そんな気持ちが芽生えていても、それを素直に言葉にするのは難しいものです。

特に玲奈は、仕事では自分の判断に責任を持ち、迷いを表に出さずに生きてきた女性です。

会社のことなら、必要だと思えばすぐに決断できる。

困難な問題が起きても、解決するために動き出せる。

けれど、恋愛となると話は別です。

相手が自分をどう思っているのか分からない。

自分から連絡して、迷惑だと思われたらどうしよう。

返事が遅いだけなのに、何か悪いことを言ってしまったのではないかと考えてしまう。

普段の玲奈からは想像できないような小さなことで、心が揺れてしまいます。

それは、彼女が弱いからではありません。

誰かを大切に思い始めたからこそ、相手の反応が気になってしまうのです。

そして、賢一もまた、玲奈に対して慎重になっています。

四十五歳という年齢。

二十五歳の玲奈との二十歳の年齢差。

会社を背負う彼女の立場。

賢一には、彼女の気持ちを急かしたくないという思いがあります。

自分が少し積極的になりすぎれば、玲奈を困らせてしまうかもしれない。

反対に、遠慮しすぎれば、彼女に自分の気持ちが伝わらないかもしれない。

大人になれば、恋愛の経験も増えるでしょう。

けれど、経験を積んだからといって、誰かを好きになることが簡単になるわけではありません。

むしろ、これまでの人生で経験したことがあるからこそ、慎重になってしまうこともあります。

失敗したくない。

傷つけたくない。

相手の人生を変えてしまうようなことなら、なおさら軽い気持ちでは踏み出せない。

賢一の中にも、そうした思いがあるのかもしれません。

そして、今回のタイトルである「届かないメッセージ」。

スマートフォンを手に取り、文章を考え、何度も読み返す。

たった一言の「今日はありがとうございました」という言葉でさえ、送る前にはいろいろなことを考えてしまいます。

送信すれば、相手に自分の気持ちを少し知られてしまう。

送らなければ、何も変わらないまま時間が過ぎていく。

恋愛の始まりは、案外そんな小さな迷いの積み重ねなのかもしれません。

大切なのは、相手の気持ちを勝手に決めつけないこと。

そして、自分の気持ちからも目をそらさないこと。

玲奈と賢一が、これからどのように距離を縮めていくのか。

二人の関係は、まだ始まったばかりです。

これから先、楽しい時間だけでなく、年齢差や立場の違い、そして賢一がまだ玲奈に話していない過去が、二人の関係に影響を与えることになるでしょう。

それでも、誰かと出会ったことで、今まで当たり前だと思っていた日常が少し違って見える。

そんな変化を大切にしながら、二人の恋をゆっくり描いていきたいと思います。

次回も、玲奈と賢一の物語をどうぞよろしくお願いいたします。

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