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夫が浮気しましたので、庭ごと出てまいります  作者: 桜井花恋


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25/25

第25話:霜の朝に、咲きました

 十二月七日の朝、霜が降りました。この年の、北の初霜でございます。九月末に降ると伺っておりましたので、二か月遅うございました。暖かい年だったのだそうです。わたくしは日の出前に囲いへ上がりました。石の囲いの中は外より白うございませんでした。風が切れておりますので、霜が薄く乗るのです。


 塚の上に、落ち葉が五寸。その上に、枝が三本出ております。蕾が三つ。いちばん大きいものが開いておりました。一輪でございます。白で、縁に薄紅が入っております。外側の弁が、まだ内へ巻いております。開いて数時間でございましょう。夜のうちに割れたのだと思います。


 わたくしはしゃがんで、下から見ました。萼が五枚とも下へ反っております。正しく開いております。霜は花には乗っておりませんでした。葉に、少し。アシュフォード様は六時過ぎに上がってこられました。外套の襟に霜がついておりました。歩いてこられたのだと思います。囲いの入口で、止まられました。


 それから、中へ入られました。塚の前に、立たれました。しばらく、何も仰いませんでした。わたくしは、囲いの石に腰を掛けておりました。花の正面を空けるためでございます。


「エルシャ殿」


「はい」


「これは、何日保ちますか」


「寒うございますので、十日ほど」


「十日」


「王都でしたら、四日でございます。寒いほうが、長く保ちます」


 アシュフォード様は、うなずかれました。


「残りの二つは」


「三日おきに開きます。今日から、六日のあいだに」


「では、十六日ほど」


「そうなります」


 アシュフォード様は、そこで初めて、しゃがまれました。わたくしと同じ高さから、下から見上げる形で。


「下から見るのですね」


「萼を見ます。五枚とも下へ反っていれば、正しく開いております」


「反っています」


「はい」


「エルシャ殿」


「はい」


「北へ、来てほしい」


 わたくしは、手を膝に置きました。


「五年の仕事は、年に二度で足ります」


「そうではありません」


「はい」


「北に、住んでほしい」


 わたくしは、囲いの外の斜面を見ました。塚が六つ。北側に石が積んであります。来年の雪解けに堆肥を入れて、三年目に植え付けをいたします。その先に、村がございます。屋根が十二ほど。冬の煙が、まっすぐ上がっております。


「アシュフォード様」


「はい」


「灰坂に、鉢が五十九ございます」


「はい」


「王城の階段を、三年お預かりしております。年に三度でございます」


「はい」


「ベルタ様の株が、来年の春に芽を出します。八十三でいらっしゃいます」


「はい」


「弟子が一人、おります」


 アシュフォード様は、うなずかれました。


「では、五年後にもう一度、伺います」


 わたくしは、少し顔を上げました。


「五年後でございますか」


「下の十二株が咲く年です」


 アシュフォード様は、立たれました。


「そのときには、灰坂の鉢は誰かが引き継いでいるかもしれない。王城の三年も終わっている。ベルタ殿の株は花をつけている。弟子は二十一になっている」


「はい」


「そのときに、もう一度伺います」


 わたくしは、頭を下げました。


「お待ちいただけますか」


「待ちます」


 王都へは、十二月十日の乗合で戻りました。灰坂に着いたのは十三日でございます。鉢は五十九ございました。一鉢も枯れておりませんでした。


「ノラ」


「はい」


「五十九でございます」


「五十九です」


 ノラは、鋤の柄に顎を乗せておられました。


「奥様」


「はい」


「――で、それ、咲きましたか」


「咲きました」


「何輪ですか」


「一輪でございます。あと二つは、三日おきに」


 ノラは、しばらく黙っておられました。


「五年後じゃなかったんですね」


「下の十二株は、五年後でございます」


「上の一株は」


「今年でございました」


 ノラは、鋤を置かれました。


「奥様」


「はい」


「あたし、数を覚えてます」


「はい」


「五年後の六月です。あたしが二十一で、奥様が三十三です」


「そうです」


「覚えてますから」


 その夜、花暦を二冊に写す仕事を始めました。八十六枚ございます。綴じ糸を三度替えました。ノラが数を読み上げて、わたくしが書きます。一枚目からでございました。十五年前の頁です。わたくしが十四のときに、義母様に言われて書き始めた頁でございます。


 ――書いておきなさい。あなたの頭は、あなたが死ぬときに一緒に死ぬから。


 その一枚目の、いちばん上でございました。


「奥様」


「はい」


「これ、なんて書いてあるんですか」


 ノラが、頁の隅を指されました。わたくしは、そこを見ました。二行ございました。わたくしの字ではございません。義母様の字でもございません。


 ――土は、貸すものです。

 ――返すときに、良くしておきなさい。


 字が、細うございました。右へ少し流れます。羽ペンの角度が、この国のものではございません。わたくしは、その二行を長く見ておりました。十五年、この頁を開いております。一枚目でございますから、何百回も開いております。


「奥様」


「はい」


「知らない字ですか」


「知らない字でございます」


 わたくしは、頁を光にかざしました。紙は、わたくしが十四のときに義母様からいただいたものでございます。綴じる前の、一枚きりの紙でございました。その紙に、先に何か書いてあったのです。わたくしは、二行の下に、自分の字で花の記録を書きました。十五年、書き足してまいりました。


 上の二行を、一度も読まなかったのは、読まなくても書けたからでございます。わたくしは、写しの手を止めました。義母様は、二十四年前に王城花壇から三株を下賜されております。名目は、奉納の返礼でございました。


 その年、義母様は伯爵夫人ではございませんでした。薬師の娘でいらしたと、王妃殿下が仰いました。


「ノラ」


「はい」


「明日、王城花壇へ参ります」


「入札ですか」


「系統帳を、拝見してまいります」


「見せてもらえるんですか」


 わたくしは、花暦の一枚目を閉じました。


「三年、お預かりしております」

【今日の花暦】


霜は、囲いの中には薄く乗ります。風が切れているためです。花に霜が乗らなければ、開いた蕾はそのまま保ちます。寒いほうが花は長く保ちますので、北の一輪は十日、王都の一輪は四日でございます。


 ここまでお読みくださって、ありがとうございました。第1部はここで一区切りでございます。


 七月に、白い花束が愛人の腕にありました。奥様はそれを見て、三日で枯れると言いました。それから五か月です。丘の庭は馬場になり、灰坂に五十九鉢が残り、王城の階段に三十鉢が並び、北の霜の丘に一輪が咲きました。


 奥様は、一度も怒鳴りませんでした。訴えもしませんでした。持って出ただけです。持って出たものが、勝手に咲きました。


 ただ、花暦の一枚目に、書いた覚えのない二行がございます。細くて、右へ流れる字です。この国の羽ペンの持ち方ではございません。


 ――土は、貸すものです。返すときに、良くしておきなさい。


 この二行を書いた方が誰なのかは、まだわかっておりません。


 【今日の花暦】と一緒に、またお目にかかれますよう。


 ブックマークと評価は、苗の土代に充てさせていただきます。五年後の六月に、下の十二株が咲きます。

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