第1話:その薔薇は、三日で枯れます
その薔薇には、見覚えがありました。当然でございます。七年かけて接いだ株の、東側の枝。昨日の朝、明日には開くと見当をつけた蕾です。それが今、リリベット・ソラン男爵令嬢の腕の中で、白い花束になっております。園遊会の招待客は、まだ半分も来ていない時刻でした。
「よく似合う」
夫が言いました。わたくしの隣で、わたくしの株から切られた花を抱えた娘に向かって。
「君の趣味の花が、ようやく役に立った」
趣味、と夫は言いました。十五年です。十三でこの家の庭の見習いに入り、十六で伯爵夫人になり、それから一度も鋤を置きませんでした。芝を剥がして砂を混ぜ、堆肥を積み、水の抜け道を作り直しました。この丘の土は、もともと薔薇の育つ土ではないのです。粘りが強く、雨のあと三日は根が息をできません。それを直すのに、七年かかりました。
わたくしは爪の間を見ました。今朝も土が入っております。
「エルシャ」
夫が声を落としました。
「離縁したい。土で爪を汚す妻というのは、体裁が悪いんだ」
招待客の三人ほどが、こちらを見ておりました。わたくしは花束を見ました。
「かしこまりました」
それから、一つだけ申し上げました。
「その薔薇は、三日で枯れます」
リリベット様が眉を上げました。十九とお聞きしております。詩を書かれるそうです。
「まあ。呪いでもかけるおつもり?」
「切り花でございますから」
「切り花は、みな三日で枯れるのでしょう?」
「切り口を焼いておりません。水も換えないでしょう。この品種は水を上げる力が弱いのです。三日目の朝には、首から折れます」
「では、三日ごとに買えばよろしいのよ」
そう仰って、リリベット様は白い花束を抱え直しました。抱え方が、逆さでございました。花を上にして持てば、首の重みで茎が曲がります。わたくしは口を開きかけて、閉じました。教えることではございません。もう、わたくしの花ではないのです。
園遊会は滞りなく終わりました。薔薇はよく咲いておりました。三週間前から水を絞り、十日前に遮光の布を外し、四日前に一度だけ深く灌水しました。花期を今日に合わせるための段取りです。同じ株でも、水と光の順番を変えれば、開く日は十日ずれます。
招待客はみな薔薇を褒め、みな夫を褒めました。「薔薇の伯爵」でございます。十二年前に社交界がそう呼び始めて、以来ずっとそう呼ばれております。夫は薔薇の品種名を一つも言えません。それを責めたことはございません。庭の主が土を知っている家など、王都にいくつもございませんでしょう。主は名を貸し、庭師が育てる。それで庭は回ります。
ただ、今日は少し違いました。東の垣根のところで、ロンバル侯爵様が仰ったのです。
「あの白いのは、なんという名だったかな。去年もあったろう」
夫が答えました。
「ああ、あれは……去年からあったものです」
それは名ではございません。わたくしは黙って茶器を下げました。
厨房へ下がる途中、リリベット様が庭師の一人を呼び止めておられるのが聞こえました。
「この白いの、明日も二十本ばかり切っておいて」
「明日は……蕾がもう残っておりませんで」
「二百株もあるのでしょう?」
二百十四株ございます。そのうち、この時季に切れる花をつけているのは十一株だけです。残りは去年の秋に剪り込んで、来年のために枝を作らせております。庭というのは、そういうものでございます。今年の花は去年の仕事で、来年の花は今年の仕事です。わたくしは厨房の戸を閉めました。
その夜、書斎に呼ばれました。机の上に紙が二枚。離縁の申し状と、財産の目録の写しでございます。夫は前者を指で押しやりました。
「明日、署名してくれ。持参金は返す。母上の遺した宝飾のうち、君が使っていたものは持って行っていい」
「宝飾は使っておりません」
「そうか」
夫は、少し安堵した顔をなさいました。
「では、身の回りのものだけだな。楽だ」
わたくしは目録の写しを取りました。婚姻のときに作られた紙です。十二年、開いたことがございません。開く必要がなかったのです。第四項に、こう書いてございました。
――母より受け継ぎたる薔薇の株、種苗、及び園丁道具一式は、エルシャの持参財とする。
わたくしは指を止めました。
「旦那様」
「なんだ」
「この第四項は、お読みになったことがございますか」
「持参財だろう。返すと言っている」
「返す、ではございません。もともとわたくしのものだと書いてございます」
「同じことだ」
夫は羽ペンを取りました。もうこの話に飽きていらっしゃるのが、肩の線でわかりました。
「持って行けばいい。鉢が二つ三つ増えるくらい、荷馬車に載るだろう」
わたくしは、その紙を二度読みました。薔薇の株。種苗。園丁道具一式。数を書いてございません。
「かしこまりました」
わたくしは目録の写しを畳んで、袖に入れました。
「では、庭ごと出てまいります」
夫が顔を上げました。
「なんと言った」
「明朝から掘り上げをいたします。三日で終わらせます」
「エルシャ。あの庭には二百株ある」
「二百十四株でございます」
夫は笑いました。本当に、おかしそうに笑ったのです。
「持って行ってどうする。君に土地があるのか」
「灰坂に、母の借地が残っております」
「あんな荒れ地に」
「荒れ地でございます」
わたくしは頭を下げました。
「土は運べません。株だけ、いただいてまいります」
「土くらい、買えるだろう」
わたくしは、その言葉を袖の中で二度、繰り返しました。
「はい」
「年に二百リル程度の趣味だろう。金は出す。好きにしなさい」
二百リルでございました。堆肥だけで年に四百かかります。わたくしはそれも申し上げませんでした。
部屋に戻ると、窓の下に人影がありました。使用人頭のマルタでございます。五十八になります。わたくしが十三でこの庭に入った日、桶を渡してくれた人です。
「奥様」
「マルタ」
「今年の献花は、どうなさるんです」
わたくしは、少し黙りました。建国祭の献花でございます。王城の大階段に、白い薔薇を三十鉢。レーンフェルト伯爵家が十九年、納めてまいりました。
建国祭は九月三日です。薔薇の花期は、放っておけば六月に終わります。九月三日に三十鉢を揃えるには、株ごとに水と光の順番を変えて、七月のうちから八十株を仕込まなければなりません。その順番は、わたくしの手帳の中にしかございません。
「旦那様がお決めになることです」
「奥様」
「マルタ、明朝の四時に、鋤を三本お願いできますか」
マルタは、しばらく動きませんでした。窓の外は、もう暗くて、庭のかたちだけが黒く残っておりました。二百十四株。どこに何があるかは、目を閉じても言えます。
それから、マルタはこう仰いました。
「四本、持ってまいります」
【今日の花暦】
切り花の水揚げは、切り口を三十秒だけ湯に浸すと変わります。ただし品種によります。水を上げる力の弱い株は、湯に入れた瞬間に諦めます。
「薔薇の伯爵」という呼び名は、社交界が十二年かけて育てたものです。庭のほうは、別の人間が十五年かけて育てました。どちらが先に枯れるのか、わたしにもまだわかりません。
次回、掘り上げの朝でございます。二百十四株のうち、どれから掘るか。それを決められる人間は、この家に一人しかおりません。
ブックマークと評価は、苗の土代に充てさせていただきます。




