第二話 陽がふたりを分かつまで
それから数日後、昼の施療室で一人の患者が暴れだした。
古い兵だった。
左脚の傷は塞がり、熱も下がり、食事も取れるようになっていた。
だから、退院の話が出た。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、男の顔つきが変わった。
「外に出すな」
彼は低く言った。
救護係が、穏やかに説明しようとした。
「退院といっても、すぐに故郷へ戻るわけではありません。まずは中庭で――」
「外に出すな!」
声が施療室に響いた。
何人かの患者が身をすくめ、包帯を替えていた者の手が止まる。
その時セフィアは、ちょうど水差しを持ってそばにいた。
男の目が、彼女を捉える。
いや、捉えたように見えただけだった。
彼はセフィアを見ていない。
別の誰かを見ていた。
「お前が開けたんだろう」
セフィアは息を止めた。
「お前が、扉を開けた」
違う。
そう言えばよかった。
けれど声が出ない。
「火が入ってきた。煙が入ってきた。お前が、お前が――」
水差しが、セフィアの手の中で震える。
その声を、彼女は知っていた。
動くな。声を出すな。来るな。
父の声ではない。
目の前の男の声だ。
分かっている。
ここは家ではない。
机の下でもない。
自分は子どもではない。
救護係だ。
それでも身体は動かなかった。
男が一歩近づく。
「なぜ閉めなかった」
セフィアは後ろへ下がれなかった。
背中のすぐ後ろには、薬棚。
逃げ道がない。
男の手が上がる。
その瞬間、横から影が入った。
「その子じゃない」
低い声だった。
奥の寝台にいた、あの若い男だ。
まだ肩に包帯を巻いたままだった。
立っているだけで息が乱れている。
顔色も悪い。
それでも彼は、セフィアの前に立った。
「お前が怒っている相手は、その子じゃない」
古い兵の目が揺れる。
「どけ」
「どかない」
「お前も開けたのか」
「いいや」
若い男は、少しだけ息を吐く。
「俺も、閉められなかった側だ」
その言葉に、施療室が静まった。
古い兵は、男を見た。
今度は、少しだけ見ているように見えた。
「閉めればよかった」
「そうだな」
「閉めれば、入ってこなかった」
「そうだな」
「なのに、誰も閉めなかった」
「そうだな」
若い男は、否定しなかった。
ただ、古い兵の前に立っていた。
「でも、その子はそこにいなかった」
古い兵の手が、少し下がった。
「扉を開けたのは、その子じゃない」
長い沈黙があった。
やがて、別の救護係がそっと近づき、古い兵の腕を支えた。
男は抵抗しなかった。
「水を」
誰かが言った時、セフィアはまだ動けなかった。
水差しを持つ手が震えている。
若い男が振り返った。
「怪我は」
セフィアは首を横に振ろうとしたが、できなかった。
男は、彼女の持つ水差しの底を下から支える。
落とさないように。
けれど、奪わないように。
「ゆっくり息をしろ」
セフィアは、そこで初めて自分が息を止めていたことに気づいた。
息を吸う。
喉が痛い。
もう一度吸う。
胸の奥が震える。
男は言った。
「戻ってこい」
その言葉は、父の声ではなかった。
命令でもなく、叱責でもなく、急かす声でもない。
ただ、どこかへ行ってしまいそうな者を呼び戻す声だった。
セフィアは、ようやく男を見た。
額には脂汗。
立っているのが限界なのは明らかだった。
それでも彼は、彼女の前に立っていた。
傷ついた人。
戻れないと言った人。
眠ったら戻れなくなると言った人。
父と同じように、戦場から帰ってこられなかった人。
けれど、彼はセフィアを傷つけなかった。
怒りの向きを、間違えなかった。
そのことが、セフィアの胸の奥に、静かに落ちた。
熱のように。灯のように。
あるいは、名前をまだ持たない何かのように。
その夜、男は高熱を出した。
無理に立ったせいだと、年長の救護係は眉をひそめた。
「馬鹿なことを」
男は寝台の上で目を閉じたまま、かすかに笑う。
「知ってる」
セフィアが水を替え、布を絞り、額に置くと、男は目を開けた。
「まだいたのか」
「仕事です」
「ずっとここにいるのは職務放棄じゃないのか」
「職務放棄も職務のうちです」
男は少しだけ笑った。
その笑い方は、やはり疲れている。
けれど、昼間のように遠くを見てはいなかった。
セフィアは、布を替えながら言った。
「どうして、立ったんですか」
「立てたから」
「とても立てるような状態ではありませんでした」
「だろうな」
「では、なぜ」
男は黙り、少しして、こう言った。
「君が、いなくなりそうだった」
セフィアの手が止まった。
「私はここにいました」
「体はな」
男は目を閉じた。
「目が、どこかへ行っていた」
セフィアは何も言えなかった。
男は続けた。
「俺も、よく行くんだ」
火。煙。戻れないところ。
セフィアはそれを思った。
「あなたは、戻ってこられますか」
男は答えなかった。
答えられないのだと思った。
セフィアは、椅子を少し近づけた。
けれど、寝台の出口は塞がない。
「では、戻れるまで起きていましょう」
男は薄く目を開けた。
「またか」
「はい」
「いつまで」
セフィアは答えた。
「ここにいるあいだは」
男は、今度は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、毛布を握る手の力を抜いた。
その日から、セフィアは男の寝台へ行くことが増えた。
水を替える。包帯を替える。熱を測る。
食事を半分残せば、次は少し量を減らす。
眠れない夜には、椅子を持っていく。
仕事だった。
そう言えば、誰にも咎められなかったし、自分にも、そう言えた。
男は名を名乗らなかった。
最初に聞いた時、置いてきたと言った。
次に聞いた時は、少し考えてからこう言った。
「取り戻したら、言う」
「どこで取り戻すんですか」
「外で」
「施療院ではなく?」
「ここでは、誰もが俺を患者として扱う」
男は天井を見た。
「患者としての名は、寝台の札に書いてある。だが俺の名は、たぶんそこにはない」
セフィアは寝台の札を見た。
番号。傷の位置。投薬。食事。熱。夜間の発作。
そこには、彼が何を失ったのかは書かれていなかった。
彼がどこへ帰りたいのかも、何を怖がっているのかも、誰の声で眠れるのかも書かれていなかった。
「では、取り戻したら教えてください」
セフィアが言うと、男は目だけで笑った。
「覚えていたらな」
「覚えていてください」
「命令か」
「お願いです」
「なら、困る」
「どうして」
「叶えたくなるから」
男はそう言って、目を閉じた。
セフィアは、その意味を考えた。
お願いは、命令よりもずっと深いところへ入ることがある。
そのことを、彼は知っているようだった。
春が近づくにつれ、施療院の中庭に陽が差す時間が長くなった。
最初に男を外へ出した日、彼は中庭の石段で膝を折った。
足の痛みではない。肩の傷でもない。陽の光によって。
長く寝台にいた者は、陽に当たるだけで疲れる。
年長の救護係はそう言った。
けれど、セフィアにはそれだけには見えなかった。
男は、眩しそうに目を細めていた。
嬉しそうではなかった。
怖がっているようにも見えた。
ただ、確かめている。
自分が、まだ陽の下に立てるのかを。
セフィアは水を持ってそばに立った。
「座りますか」
「いや、このままでいい」
「顔色が悪いです」
「知ってる」
「無理をすると、また熱が出ます」
「それも知ってる」
「では」
「もう少しだけ」
男は低く言った。
「もう少しだけ、立たせてくれ」
セフィアは肩を支えようとして、手を止める。
男はそれに気づいた。
「支えないのか」
「支えた方がいいですか」
「支えられたら、楽だろうな」
「では」
「でも、今は立ちたい」
男はゆっくり息をした。
陽が、彼の包帯の白を照らしている。
眩しさの中で、その白は少しだけ痛々しかった。
けれど、彼は立っていた。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
同時に、胸の奥が微かに痛んだ。
彼が立てるようになること。
それは、彼が自分を必要としなくなることでもあったから。
そんな風に思った自分を、セフィアは恥じた。
けれど、その痛みは紛れもなく本物だった。
男は少しずつ回復していく。
食事を残さなくなった。
夜に起きる回数が減った。
水を自分で取るようになった。
肩の包帯が細くなった。
歩く距離が伸びた。
中庭の石段から、井戸のそばまで行けるようになった。
年長の救護係は、帳面に淡々と記した。
熱、安定。
食事、全量。
歩行、中庭まで可。
夜間発作、一度。
セフィアは、その文字を見ていた。
良い記録だった。
良いはずだった。
男は、陽の下でも長く座れるようになっていた。
最初は眩しそうにしていた顔も、少しずつ外の光に慣れていった。
ある日、彼は中庭でセフィアを見上げ、こう言った。
「髪を下ろしている方がいい」
セフィアは水差しを持ったまま止まった。
「何の話ですか」
「髪だ」
「救護中は結ぶ決まりです」
「決まりの話はしていない」
「では何の話ですか」
男は少し黙って、それから目を逸らした。
「ずっと見ていた」
セフィアは、自分の髪に触れた。
その日は、結び方が緩んでいて、耳の横に少しだけ髪が落ちていた。
「乱れていましたか」
「きれいだと思った」
セフィアは返事をしなかった。
救護係として褒められたのではない。
手際でも、声でも、薬包の数え方でもない。
彼は、セフィアを見ていた。
救護係ではなく、女として。
そのことに気づいた瞬間、セフィアは怖くなった。
怖くなったのに、同じくらい、胸の奥が満たされていた。
「そういうことは、言わない方がいいです」
「そうだな」
男はすぐに言った。
「すまない」
その謝り方が、またセフィアを揺らす。
軽く流さない。
冗談にしない。
彼は、自分の言葉が何をしたのかを知っている。
「不快にさせたかったわけじゃない」
「はい」
「でも、きれいな気持ちだけで言ったわけでもない」
セフィアは息を止めた。
男は彼女を見なかった。
「君に救われたかった。君を救いたかった。君に触れたいと思った」
セフィアは手の中の水差しを見た。
水面が揺れている。
「全部、本当だ」
男は言った。
「だから、どれか一つだけをきれいな顔にして差し出すのは、違うと思った」
セフィアは、その言葉を怖いとは思わなかった。
汚いとも思わなかった。
むしろ、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。
彼は自分を必要としている。
それだけではない。
彼は、自分を欲しがっている。
そのことが、セフィアをひどく安心させた。
看護係だからではない。
水を持ってくるからではない。
夜、側に椅子を置くからではない。
自分という女が、彼の目の中にいる。
そのことを、セフィアはうまく受け止められなかった。
だが、うまく受け止められないまま、手放すこともできなかった。
その夜、セフィアは男の寝台の側に長くいた。
施療院の灯は、夜半を過ぎると少し落とされる。
廊下を歩く救護係の足音も減る。
誰かの咳と、遠くの湯釜の音だけが残る。
男は眠らなかった。
セフィアも眠らなかった。
「帰った方がいい」
男が言った。
「どこへ」
「救護係の部屋へ」
「眠れません」
「俺もだ」
「では、ここにいます」
「それは危ない」
セフィアは彼を見た。
「何がですか」
「俺は、決して善い人間じゃない」
「知っています」
男が目を開けた。
セフィアは言い直した。
「誰も、ただ善いだけではないと思います」
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
セフィアは、静かに言った。
「分かっていて、ここにいます」
男は何かを言おうとした。
けれど、言わなかった。
その夜のことを、セフィアは後に何度も思い出す。
灯の位置。薄い毛布の皺。男の手の熱。
自分の前掛けの紐が、いつの間にかほどけていたこと。
窓の外で、夜明け前の鳥が一度だけ鳴いたこと。
詳しいことを思い出そうとすると、いつも途中で霧がかかった。
ただ、一つだけは覚えていた。
彼は急がなかった。
奪わなかった。
命じなかった。
言い訳もしなかった。
肌に触れる前に、何度も止まった。
そしてセフィアは、そのたびに自分で近づいた。
それが救いだったのか。
恋だったのか。
依存だったのか。
欲望だったのか。
それとも、愛だったのか。
その時のセフィアには分けられなかった。
分ける必要も、まだ感じていなかった。
夜明け前、セフィアは目を覚ました。
窓の外は薄い青。
施療院の廊下では、誰かが湯を沸かしている音がした。
男は眠っていた。
昨夜まで強く握られていた毛布は、寝台の端に落ちていた。
セフィアはそれを拾い、彼の肩へ掛け直した。
自分の前掛けの紐が、少し曲がっていることに気づいた。
結び直そうとして、指が止まる。
男が目を開けた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「……後悔しているか」
男が言った。
セフィアは首を横に振った。
「あなたは」
男は答えるまでに、少し時間をかけた。
「していない」
「なら、どうしてそんな顔をするんですか」
「大事にしたかったものを、汚してしまったから」
セフィアは、その言葉の意味をすぐには受け取れなかった。
男は目を逸らした。
「君が思っているほど、きれいな気持ちだけで君を見ていたわけじゃない」
「それは、昨日聞きました」
「聞いても、まだここにいる」
「はい」
「それが怖い」
セフィアは、男の手を見た。
大きな手だった。
傷があり、硬く、ところどころ包帯のあとが残っている。
昨日、その手は彼女を傷つけなかった。
「私は、怖くありません」
男は小さく笑った。
「それも怖い」
「どうして」
「俺が恐れているものすら、君は信じようとするから」
セフィアは黙った。
「俺は、君に救われたかった」
男は言った。
「君を救いたかった。君に触れたかった。」
「そして今は、ここに残りたい。外へ出たくないと思ってしまっている」
一つずつ置くような声だった。
「全部、本当だ」
セフィアは、胸の奥が苦しくなった。
「なら、残ればいいです」
男は首を横に振った。
「それを、君に言わせるのが一番まずい」
「私は、自分の意思で言っています」
「そうだな」
男は目を閉じた。
「だから余計にまずいんだ」
セフィアは理解できなかった。
理解したくなかった。
「このままここにいれば、俺は君を理由にする」
男は言った。
「外へ出るのが怖いから、君がいる場所に残る。君を愛しているからではなく、君に隠れるために残る。そうなったら、俺は君を駄目にするだろう」
「私は、それでも構いません」
その言葉は、考えるより先に出ていた。
男は、深く息を吐いた。
「俺が構うんだ」
セフィアは顔を上げた。
男の表情は、相変わらずひどく疲れていたが、遠くを見てはいなかった。
今、彼はここにいた。
セフィアを見ていた。
「君のいる場所は暖かい」
男は言った。
「でも、俺はそこにずっと留まることはできない」
セフィアは何も言えなかった。
陽が差し始めていた。
窓の端が、白くなっていく。
その光が、男の顔に少しずつ届いていた。
セフィアはその光を、きれいだと思うと同時に心底、憎いと思った。
それから、男はさらに回復していった。
歩く距離が伸びた。
肩の包帯が外れた。
食事を取り、夜に眠れる時間も増えた。
帳面には、良い兆候を示す文字が並んでいた。
熱、安定。
歩行、門前まで可。
夜間発作、なし。
年長の救護係が、退院後の話を始めた。
すぐに故郷へ戻るわけではない。
まずは王都外れの宿所に移る。
日中は軽い仕事を試す。
身体が戻れば、本人の希望を聞く。
本人の希望。
その言葉を聞いた時、セフィアは指先の熱が失われていくのを感じた。
男はうなずいた。
穏やかに。
怖がりながら。
それでも、自分でうなずいた。
セフィアは、その横顔を見ていた。
祝福しなければならない。
彼は戻ろうとしている。
寝台ではなく、施療院でもなく、セフィアの椅子の横でもなく、自分の足で立つ場所へ。
それは良いことだった。
良いことのはずだった。
「名前を」
セフィアは、夜の中庭で聞いた。
男は隣に座っていた。
石段にはまだ昼間の温みが少し残っている。
「取り戻したら教えると言いました」
「そうだったな」
「まだですか」
男は空を見た。
「まだだ」
「いつですか」
「たぶん、外で、一日を越せたら」
「一日?」
「ああ」
男は少し笑った。
「朝起きて、昼に自分で飯を食って、夕方に自分の足で帰る場所を決める。
それができたら、たぶん少しだけ戻る」
セフィアは、胸の前で手を握った。
「戻ったら、教えてくれますか」
「ああ、最初に、君に言う」
その言葉は、約束だった。
短くて、頼りなくて、けれど夜を越えるには十分な言葉。
セフィアはうなずいた。
「待っています」
男は彼女を見た。
「待つな、と言ったら?」
「聞きません」
「だろうな」
男は少し笑った。
その笑い方が、セフィアは好きだった。
疲れていて、諦めていて、それでもどこかで生きようとしている笑い方。
セフィアは、その笑いを失いたくなかった。
そして、退院の日。
その日は朝からよく晴れていた。
男の荷物は少ない。
替えの衣。古い靴。施療院から渡された薬包。
それから、セフィアが畳んだ白い布。
「持っていくんですか」
セフィアが聞くと、男は少し困った顔をした。
「返した方がいいか」
「いいえ」
「なら、持っていく」
「汚れたら洗ってください」
「なくしたら?」
セフィアは、かつて自分が聞いた言葉を思い出した。
なくしたら。
見つからなかったら。
彼女は答えようとして、喉が詰まった。
その時、あの女なら何と言っただろう。
また探せばいい。
見つからなければ、別の布を使えばいい。
そう言えなかった。
この布でなければ嫌だった。
この手でなければ嫌だった。
この人が持っていくなら、戻ってきてほしかった。
「なくさないでください」
セフィアは言った。
男は黙った。
それから、白い布を荷物の奥へしまった。
「分かった」
しばらく歩いたあと、男は一度だけ振り返った。
「セフィア」
初めて、彼は彼女の名をそう呼んだ。
救護係でも、君でもなく。
セフィア、と。
「はい」
「ここは、暖かかった」
彼は言った。
「本当に」
セフィアはうなずいた。
「なら、また」
戻ってきてください。
そう言いそうになった。
けれど、男は先に言った。
「だから、出ていける」
セフィアは息を止めた。
男は、少しだけ目を伏せた。
「ありがとう」
それは、別れの言葉だった。
少なくともセフィアには、そう聞こえた。
男は歩いて門を出た。
そして、陽の中へ。
その背中は、まだ少し傾いていた。
足取りも危うかった。
けれど、彼は自分の足で歩いていた。
セフィアは門の内側に立っていた。
そこには影があった。
男の背中は、陽に照らされていた。
陽は、最初にセフィアを救ったものだった。
寒い場所から出してくれたものだった。
手の甲を温め、自分の手が自分のものだと思わせてくれたものだった。
けれど、その日から、陽は別のものになった。
外へ連れていくもの。
奪うもの。
手の届かない場所へ人を返すもの。
男は振り返らなかった。
セフィアは、呼ばなかった。
呼べば、彼は止まったかもしれない。
止まらなかったかもしれない。
どちらでも、怖かった。
やがて、荷馬車は道の向こうへ消えた。
白い布も。彼の名前も。約束も。
すべて陽の中へ、持っていかれてしまった。
セフィアは、門の影に立ったまま、長く動かなかった。
年長の救護係が、そっと近づいた。
「良い退院だった」
そう言った。
セフィアはうなずいた。
良い退院だった。
熱は下がった。
傷は塞がった。
歩けるようになった。
宿所も決まった。
薬も渡した。
帳面に書けば、すべて良い記録になる。
けれど、セフィアの胸の中には、どの欄にも書けないものが残っていた。
救った人が、出ていく痛み。
必要とされた手が、ほどかれる痛み。
暖かい場所から、誰かが陽の下へ帰ってしまう痛み。
その痛みに、まだ名前はなかった。
だからセフィアは、ただ思った。
もう少しだけ、ここにいればよかったのに。
もう少しだけ、眠っていればよかったのに。
もう少しだけ、戻れないままでいてくれたなら。
その思いが、もう救いの形はしていないことを、彼女はまだ知らない。
知らないまま、ただ茫然と、門の外を眺めていた。
お読みいただきありがとうございます。
誰かを支えることと、その人の居場所になること。
二人は同じ景色を見ながら、少しずつ違う答えへ向かっていきます。
次回、セフィアは人生で最も大きな喪失と向き合うことになります。




