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サン外典 陽だまりの檻  作者: Chroe


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第一話 ここにいる間は

『勇者ではなく、測量士』本編に登場する宗教組織「サン」。

本作は、その創設者セフィアが、一人の少女だった頃から始まる前日譚です。


本編未読でも、一つの物語としてお読みいただけますので、お楽しみいただけたら幸いです。


セフィアが最初に覚えたものは、閉まる扉の音だった。


木の軋む音。

掛け金の落ちる音。

その向こうで、誰かが大きな声を出す音。

家の中には、いつも何かが足りなかった。


薪。パン。水。薬。眠れる場所。それから、名前を呼ぶ声。


セフィアは、呼ばれないことに慣れていた。

呼ばれない時は、そこにいないふりをすればいい。

大人たちが怒鳴っている時は、机の下に入る。

皿が割れた時は、破片を踏まないように足を丸める。

誰かが泣いている時は、自分は泣かない。


泣いても、誰も来ない。

それを覚えた子どもは、泣き方を忘れる。

忘れたのだと、セフィアは長い間思っていた。


けれど本当は、ただ泣ける場所を持っていなかっただけだった。


父は、かつて王国軍の兵士で軍隊長を務めていた。

戦の話は一度もしたことがなかったが、時々、戦場へ戻っているような目になる時があった。

その時の父は、家の中を見ていない。

母の顔も、食卓も、濡れた床も、小さなセフィアの手も見ていなかった。


別の場所を見ていた。

火。煙。叫び声。誰かの足音。

開けてはいけない扉。

逃がしてはいけない敵影。

父の目がそこへ戻ると、必ず家の中の誰かが敵になった。


母が敵になる日もあった。

壁が敵になる日もあった。

食器棚が敵になる日もあった。


そして、セフィアが敵になる日もあった。


「動くな」


父はそう言った。

動いていない時にも。


「声を出すな」


声など出していなかった。


「来るな」


近づいてすらいなかった。

誰に向かって怒鳴っているのか、父自身も分かっていないようだった。


母は最初、父を助けようとしていた。

夜中に起きる父の背をさすり、宥めた。

水を渡し、火を消し、窓を閉めた。

父の手から割れた椀を取り上げようともしたが、その手は何度も払われた。

そんなことを繰り返すうちに、やがて母も音を立てなくなった。


家の中で、みんなが少しずつ小さくなっていった。

大きいのは父の声だけだった。


セフィアは、父を憎んでいたのだと思う。

恐れてもいた。けれど、それだけではなかった。


父が叫んでいる時、セフィアは時々思った。

この人は、どこにいるのだろう。

家の中にいるはずなのに、家の中にいない。

目の前にいるはずなのに、手の届かない場所にいる。

父は帰ってきたのに、戻ってきていなかった。

そのことを、幼いセフィアはまだ言葉にできずにいた。


その日は、朝から雨が降っていた。

雨は屋根の穴から細く落ち、桶の中に溜まっていた。

セフィアはそれを飲む。

腹は空いていた。

けれど、空腹はもう怖くなかった。

怖いものは、もっと音が大きいから。


扉の向こうから声がする。


言葉は聞き取れなかったが、怒っていることだけは分かった。

セフィアは膝を抱えた。

机の下にいると、床の冷たさがよく分かる。

足の指がかじかんで、感覚がなくなっていく。

そうすると、ちょっとだけ楽になる。

痛いところが少なくなるからだ。


扉が開き、セフィアは息を止めた。


誰かが入ってきた。

濡れた靴の音。

何かを探すように棚を開け、箱を開ける音が続いた。


セフィアは動かなかった。

見つからなければ、それは、いないのと同じ。

そう思っていたのに、机の布が捲られた。

捲られてしまった。


光が入る。


セフィアは目を閉じた。

叩かれると思い身構えたが、何も来ない。

代わりに、温度のある声がした。


「そこにいたの」


セフィアは答えなかった。


女の声だった。

怒っていない。

急いでもいない。

ただ、そこにいるものを見つけたような声。


「寒いでしょう」


セフィアは、寒いという言葉を久しぶりに聞いた気がした。

女は、セフィアを引きずり出さなかったし、腕も掴まなかった。


ただ、机の布を持ち上げたまま、彼女の横に座る。


「出てこられる?」


セフィアは動かなかった。


「出てこられないなら、それでもいい」


女はそう言って、膝の上に小さな布を置く。

白い布だった。

雨に濡れているのに、なぜかそこだけ少し明るく見えた。


「ここに置いておくね」


女は布を床に置き、その上に、小さなパンを一切れ置いた。


女の手を見る。


指先に、細かい傷があった。

爪の間に薬草の色が残っていた。

働く人の手。

叩く手には見えなかった。


女は、パンを置いたまま立ち上がる。


「扉は開けておくから」


そう言って、本当に扉を開けたまま出ていった。

セフィアは長い間、動かなかった。

雨の音。人の声。誰かの咳。


パンは変わらずそこにあった。

取ったら怒られるかもしれない。

隠したら見つかるかもしれない。

食べてしまえば、なくなる。


セフィアは手を伸ばした。

硬いパン。

それでも、口に入れると、少しだけ甘かった。


女は、夕方にまた来た。

今度は一人ではない。背の高い男も一緒だ。

だが、男は部屋の外で止まり、女だけが中に入った。


「歩ける?」


セフィアは首を横に振った。


歩けないのではない。

歩けば、どこかへ連れていかれると思ったから。

女はうなずいた。


「じゃあ、抱いてもいい?」


セフィアはすぐに答えられなかったが、女は返事を急かさなかった。

ただずっと、黙って待っていた。

急かされないことは、セフィアにとって初めてのことだった。


やがて、セフィアは小さくうなずいた。

女がゆっくり手を伸ばす。

抱き上げる時も、強くはしなかった。


セフィアは女の肩に顔をつけてみた。

薬草の匂い。

水で濡れた布の匂い。


女はセフィアを外へと連れ出した。

家の外は、思っていたより広く、空は灰色だった。


どこへ行くのか、女は説明しなかった。

聞いたのは、たった一言。


「寒いところから出るだけ」


それが何を意味しているのか、セフィアには分からなかった。

連れていかれた場所は、古い施療小屋。

小屋と呼ぶには広く、家と呼ぶには人が多すぎた。


入口には濡れた靴が並ぶ。

奥には寝台が列を成し、布で仕切られていた。

誰かが咳をしている。

誰かが眠っている。

誰かがうなされている。


セフィアは、また肩をこわばらせた。


ここにも、痛い人がいる。

痛い人がいる場所では、大人は怒る。

そう思った。


けれど、そこにいた人々は、大声を出さなかった。


水を運ぶ者。

火を起こす者。

包帯を替える者。

そして泣いている子どもの背をさする者がいた。


女はセフィアを、小さな椅子に座らせた。


「ここにいてね」


セフィアは身を硬くした。


ここにいろ。

動くな。

そういう言葉は、いつも怖かったから。


その様子を見て、女はすぐに言い直した。


「ここにいるあいだは、がんばらなくていい」


セフィアは顔を上げた。


女は桶に入れた湯で布を濡らし、セフィアの手を拭く。


指の間。爪の下。手首。


汚れが布に移る。

セフィアはその様を見ていた。

汚したら叱られると思った。

それがセフィアの知る世界だったから。

けれど、とうとう女は叱らなかった。


「冷たかったね」


ただ、そう言っただけだった。


足が拭かれ、髪も少し拭かれた。

そして頬に触れる時だけ、女の手は更にゆっくりになった。

セフィアは、そこで初めて、自分の頬が痛いことに気づく。


「名前を聞いてもいい?」


女が言った。

セフィアは口を開いたが、声が出ない。

女は待った。

ただ、待った。


「言いたくなければ、今日はいい」


セフィアは、喉の奥にある小さなものを押し出すように、言った。


「……セフィア」


女はうなずいた。


「セフィア」


ただ、名前を呼ばれただけ。

だけどなぜか泣きそうになった。

泣き方は忘れていたはずなのに。


その夜、セフィアには粥が出された。

白い器に入れられた、湯気の立つ粥。

匙も用意されている。


セフィアは、すぐには食べなかった。


食べてもいいものは、たいてい何かの代わりだった。

あとで怒られるか、返せと言われるか、働けと言われる。


「今、食べていいのよ」


セフィアは匙を握った。

粥は熱かった。

舌が少し痛んだ。

それでも、胃の奥に落ちていくと、身体の内側がゆっくりほどけた。


セフィアは半分食べたところで、手を止めた。

残りをあとで食べようとして、器を抱えるように持った。

女の視線。

セフィアは固まった。

叱られる。

けれど、女は言った。


「明日の分は、明日また作るから」


セフィアは意味が分からなかった。


「なくならないの?」

「なくなるよ」


女は少し笑った。


「だから、また作る」


セフィアは器を見た。

なくなったら、また作る。

そんなことが、この世界にあるなんて思わなかった。


食べ終わると、眠くなった。

眠るのは怖い。

眠っている間に、何が起きるか分からないから。

起きた時に、場所が変わっているかもしれない。

誰かが怒っているかもしれない。

扉が閉まっているかもしれない。


女は、セフィアの近くに毛布を置いた。


「お眠り」


首を横に振るセフィアを見て、女はうなずく。


「眠らなくてもいい」


セフィアは、目を見開いた。


「眠れなければ、起きていてもいい」


女は椅子を少し離して置いた。

近すぎず、遠すぎない場所。


「怖くなったら、呼んで」

「……呼んだら、来るの」

「来るよ」

「怒らない?」

「怒らない」


セフィアは毛布の端をぎゅっと握った。


「いつまで?」


女は少し考えて、言った。


「ここにいるあいだは」


それは、約束としては短すぎる言葉。


明日もいるのか。来年もいるのか。ずっとなのか。

何も分からない。


けれど、その夜のセフィアには十分な長さだった。


ここにいるあいだは。


その言葉は、鎖でも、永遠でもない。

ただ、その夜を越えるための小さな屋根だった。


四日目の朝、女はセフィアに聞いた。


「外に出てみる?」


セフィアは首を横に振る。


女はうなずいた。


「じゃあ、今日は窓を開けるだけにしよう」


開け放たれた窓から、冷たい風が吹き込む。

だが、部屋の中には火があった。

セフィアは、もうその風を怖いと思わなかった。


七日目、女は再び聞いた。


「外に出てみる?」


セフィアは、少しだけうなずいた。

女は手を差し出したが、セフィアは自分で立ち上がった。

その様子をただ、じっと見つめる女のまなざし。


外に出ると、陽が差していた。

地面はまだ湿っていたが、壁際だけが暖かい。

女はそこに小さな椅子を置いた。


「ここは、午前中だけ陽が当たるんだ」


座ってみると、陽の光は思っていたより熱くも、痛くもない。

ただ、手の甲を少しずつ温めていた。

その時、セフィアには自分の手が、はじめて自分のもののように思えたのだった。


女は隣に座らず、少し離れたところで、薬草を選り分けている。

セフィアは、その距離が好きだった。

近くにいる。

でも、囲まれてはいない。


その時、セフィアは救いを知った。


救いとは、暖かい場所へ入れてもらうこと。

寒い場所から出してもらうこと。

名前を呼ばれ、手を拭かれ、眠らなくてもいいと言われること。


そして、まだ知らなかった。

暖かい場所にも、出口が必要なのだということを。


それから十数年が経ち、セフィアは施療小屋を離れ、王都外れの施療院で下働きとして働くことになった。


泣かなかった。

泣いてもいいと言われたのに、泣かなかった。


女が、セフィアに白い布を渡す。

あの日、震えていた膝に掛けてくれた白い布。


「退院祝い」


セフィアは布を握った。


「なくしたら?」

「また探せばいい」

「それでも見つからなかったら?」


女は少し困った顔をした。

それから言った。


「その時は、別の布を見つけなさい」


セフィアは、その答えが少し不満だった。


この布でなければいけない。

この手でなければいけない。

この場所でなければいけない。


そう言ってほしかったのかもしれない。

けれど女は、そうは言わなかった。


救いとは、結びつけるものではない。

閉じ込めるものでもない。

通り過ぎても、なくならないようにするものだ。


女はたぶん、それを知っていたのだろう。

セフィアが、ずっと後になってようやく辿り着くことを。


その施設は、最初から施療院として建てられたものではなかった。

はじめは、王国軍の後方倉庫だったという。

戦場から遠く、王都からも近すぎず、荷馬車が入れるだけの広い中庭がある。

矢傷を負った兵を一晩寝かせるには都合がよく、熱を出した者を天幕から移すにも都合がよかった。


戦が長引くにつれ、倉庫には寝台が置かれた。

寝台が増えると、薬棚が作られた。

薬棚ができると、包帯を洗う釜が置かれた。

釜のそばには、湯を運ぶ者が必要になった。


そうして、いつの間にかそこは倉庫ではなくなっていた。

王国は後に、その場所に名を与えた。


戦傷者施療院。


はじめ、その名が指していたのは、王国軍の兵だけだった。

傷ついた兵を収容する場所。

戦える者を戦列へ返し、戦えない者を故郷へ送り出す場所。

王国が、自国の兵に対して負った責任を置くための場所。


だが、奪回戦の後、先王アルベリクの意向によりその扉は少しだけ広げられた。

戦で傷ついたのは、兵だけではない。


焼かれた家から逃げた者。

荷馬車に轢かれた子ども。

薬を得られず熱を出した老人。

兵の通ったあとに仕事を失った者。

帰る村そのものを失った者。

そうした民を外に置いたまま、王国の責任は果たされたとは言えない。

そのように記された王の布告の下、戦傷者施療院は民間の受け入れを始めた。


しかし、受け容れを開始するや、すぐに人手が足りなくなった。

寝台が足りない。薬が足りない。布が足りない。

湯を沸かす手も、夜に起きている目も、帰る先を聞く声も足りない。


そこで、戦傷者施療院は、王都とその周辺の施療院へ救護係の派遣を求めた。

傷を洗える者。

熱を見られる者。

薬草を扱える者。

眠れない患者のそばに座れる者。

身寄りのない者の聞き取りができる者。


その名簿に、セフィアの名があった。

腕が良い、と書かれていた。

落ち着いている、とも書かれていた。

患者を急かさない、とも。


セフィアは、その書付をしばらく見ていた。


戦傷者施療院。


その名を読むと、父の声を思い出す。


動くな。

声を出すな。

来るな。


家の中にいたのに、家の中にいなかった人。

帰ってきたのに、戻ってきていなかった人。


その声を、セフィアは知っていた。

知りすぎていた。


けれど、書付の端には、受け入れ待ちの人数が記されている。


兵。民。子ども。

帰る場所のない者。

家族に知らせを送れない者。


セフィアは、白い布を畳んだ。

施療小屋を出る時に渡された布。


助けたい、と思った。


その思いが、怖さよりも清らかだったわけではない。

父のような声を聞くのは怖かった。

戻ってこられない目を見るのも怖かった。

自分の手が震えるかもしれないことも、分かっていた。


それでも誰かが、そこへ行かなければならなかった。


水を置く手が要る。

布を替える手が要る。

名前を聞けない時に、無理に聞かない者が要る。

眠れない者のそばに、眠れなくてもいいと言える声が要る。


それなら、自分の手も数に入れてほしい。

セフィアは、そう思った。


返書には、短くこう書いた。


参ります。


そうしてセフィアは、その扉の前に立った。


白い前掛けは、新しいものが支給された。

胸元には王国の紋章が縫い付けられている。

彼女はもう、机の下に隠れていた子どもではない。


水を運ぶ側になった。

毛布をかける側になった。

名前を聞く側になった。


それが誇らしかった。

同時に、怖かった。

救う側になるということは、救えない時にそこにいるということだから。


扉が開く。

中から声がした。


「新しい救護係か」

「はい。セフィアです」

「名前はあとでいい。まず水だ。奥の列が足りていない」


セフィアはうなずいた。


水差しを持つ。

桶を替える。

布を絞る。

薬包を数える。

寝台の札を確認する。

誰が熱を出し、誰が眠れず、誰が食事を残したのかを覚える。


そこには、戦場から戻った者たちと、戦に暮らしを裂かれた者たちがいた。


腕のない兵。

足を引きずる若者。

片目を布で覆った男。

声を失った伝令。

治療は終わったのに、帰る家のない者。

家族から迎えが来たのに、帰ろうとしない者。


命は助かった。

けれど、生きる場所が戻っていない。

父と同じだ。


怖くないわけではなかった。

怒鳴り声がすれば、手は止まった。

寝台の上で誰かが叫べば、水差しを持つ指に力が入った。

夜中にうなされる声を聞けば、机の下の暗さを思い出した。


それでも、ここには手順があった。


誰かが叫ぶ。

一人で近づかない。

出口を塞がない。

刃物を遠ざける。

水を置く。

名前を呼ぶ。

戻ってこられなければ、無理に起こさない。

暴れた者を叱るのではなく、まず周りの寝台を離す。


セフィアの家にはなかったもの。

恐怖が、恐怖のまま部屋いっぱいに膨らんでいかない。

誰かが受け持ち、誰かが支え、誰かが記録し、誰かが次の水を持ってくる。


セフィアは、その手順に救われた。

そして、手順の外に残るものを、少しずつ見るようになった。


熱は下がった。

傷は塞がった。

食事は取れるようになった。

夜間発作は減った。

歩行、門前まで可。


帳面にはそう書ける。

それは、たしかに救いだ。

少なくとも、その時のセフィアにはそう見えていた。


三日目の夜、奥の寝台に男が一人、移されてきた。


年は若い。

けれど、顔だけがひどく疲れて見えた。


右肩から胸にかけて包帯が巻かれている。

呼吸は浅い。

熱は下がりきっていない。

それでも、男は眠ろうとしなかった。


何度も目を閉じる。

すぐに開く。

手が毛布の端を掴む。

指が震える。


セフィアは水差しを持って近づいた。


「水を」


男は答えない。


「飲めなくても構いません。口を湿らせるだけでも」


男の目が、ゆっくりと動き、セフィアを見た。

見ているのに、そこにいるものとして見ていないような目だった。

もっと遠い場所を見ている。

火か、煙か、誰かの背中か。


セフィアは寝台の横に水を置いた。


「名前を聞いてもいいですか」


男はかすかに笑った。

いや、笑ったように見えただけかもしれない。


「置いてきた」

「どこに」

「もう戻れないところに」


セフィアは、それ以上聞かなかった。


聞けば答える人もいる。

聞かないことで、ようやく息ができる人もいる。

それは、施療院で最初に覚えたことだった。


セフィアは持ってきた椅子を寝台のそばに置く。

ただし、出口を塞がない位置に。


男が言った。


「見張りか」

「いいえ」

「じゃあ、何だ」


セフィアは少し考えた。


水差しを見る。

毛布を見る。

自分の手を見る。


「ここにいます」


男は目を細めた。


「眠れと言いに来たんじゃないのか」

「眠れないなら、眠らなくても構いません」


男の指が、毛布を強く掴んだ。


「眠ったら、また戻れなくなる」


セフィアは、息を止めた。

その言葉を、彼女は知っている気がした。

眠るのが怖い。

起きた時に場所が変わっているかもしれない。

扉が閉まっているかもしれない。

誰も来ないかもしれない。


子どもの頃の自分が、机の下からこちらを見ている。


セフィアは椅子に座った。


「では、戻れるまで起きていましょう」


男は、初めてセフィアを見た。


「君も?」

「はい」

「いつまで」


セフィアは、かつて自分に与えられた言葉を思い出した。

短くて、頼りなくて、けれど一晩を越えるには十分だった言葉。


「ここにいるあいだは」


男は何も言わなかった。


水差しの水面が、灯りを受けて少し揺れた。

廊下の向こうでは、誰かがうなされている。

夜の施療院は、眠れない者たちの息で満ちていた。

セフィアは、その中で椅子に座り続けた。

自分に差し出された救いを、今度は自分が差し出している。

この時、彼女の救いはまだ、檻の形をしていなかった。





お読みいただきありがとうございます。

セフィアが最初に受け取った救いは、とても小さく、しかし確かなものでした。


次回は戦傷者施療院を舞台に、一人の青年と出会ったセフィアが救う側として歩み始めます。


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