第16話 焦り
ルルーシャが自身の背に密着し、そっと腕を回して抱き締めてきた瞬間、フィオグラウスは歓喜に打ち震えていた。
「──っ」
息を呑み、固く瞼を閉じて唇を噛み締め、半獣化しそうな衝動を必死で抑え込む。
背中いっぱいに彼女の体温を感じ、フィオグラウスの脳内には、幼い頃のルルーシャの声が響いた。
──フィオ。
蘇る記憶に、思わずじわと涙が滲む。
──フィオ。大丈夫だよ。怖くないよ。
背に感じる熱のせいで、頭を、耳を、背や尻尾を優しく撫でた彼女の温もりを思い出し、心が乱れてしまう。
(なでてほしい。彼女に……ルルーシャに、また私をなでてほしい)
戸惑いで逃げようとする手を引き留め、溢れそうになる想いを抑えられず、その小さな手をとり頬を寄せた。
──大好きだよ、フィオ。ずっと一緒にいるよ。私が守ってあげるからね。
彼女と離れていた十年。
その間ずっと焦がれていた温もりに抱き締められ、フィオグラウスは限界だった。
(顔が見えない体勢で本当によかった。今彼女の顔を見たら……絶対に泣いてしまう)
婚約者になり、共に暮らし、温もりを感じ、手の届く場所で彼女が笑っている。
これ以上の幸せがあるだろうか。
そんな事を思っていると、ルルーシャが言った。
「でも……あの、どうしてか、こうしていると凄く懐かしいような……不思議な気持ちもするんです。おかしいと思われるかもしれないんですけど……前にも、こうしたことがあるような気がして」
その瞬間、フィオグラウスはどっと大きく心臓が鳴り、鼓動が速くなった。
そして、欲が出た。
(私を思い出してほしい。ルルーシャに……私を)
焦る気持ちを落ち着かせるように一つ息を吸い、できるだけ平静を装って言った。
「ルルーシャ。緊張をほぐすために、お互いに好きなものを教えあいませんか?」
「好きなもの?」
「はい。食べ物でも場所でも、何でもいいです。交互に……できるだけたくさん。ルルーシャからどうぞ」
緊張しながら提案すれば、背から少し楽しげなルルーシャの返事が返ってきた。
「わかりました。私が好きなのは……チョコレートです。その中でも……特にクロエが作るホットチョコレートは本当に最高で、想像するだけで笑顔になっちゃいます」
その言葉に、フィオグラウスの心は震えた。
(同じだ。あの時と──全く同じ)
──フィオ。怖くなくなるように、好きなものの話をしましょう。私はね、チョコレートよ。クロエが作るホットチョコレートは、思い出すと笑顔になっちゃうの。
明るくそう言って、震えながらもにっこりと笑ってくれた彼女の顔が頭によぎり、フィオグラウスの中の焦燥が膨れ上がった。
(私を思い出して)
祈りながら、自身も言葉を返す。
昔に交わしたのと、そっくり同じ言葉を。
「私は──海が好きです。打ち寄せる波を見ていると、わくわくして飛び込みたくなります」
「ふふふ。それは私もわかります。次は……そうですね、林檎が好きです。そのままも好きですし、アップルパイにして食べるのも大好きなんです」
──私は林檎が好き。アップルパイだともっと大好き。あ、でもさっきから──。
「食べ物のことばかりね」
記憶と重なって背からルルーシャの小さな笑い声がし、フィオグラウスはたまらなくなった。
(思い出して。また私をなでて。ルルーシャ、お願いだから──)
微かな光を手繰り寄せるように、記憶の中の会話をなぞる。
星空。
焼きたてのパン。
走ること。
花柄のドレス。
雪遊び。
春の風の匂い。
互いに好きなものを言い合い続け、ルルーシャの番になった。
「私は、エドガーお兄様も大好きです。いつも困った時に助けに来てくれて──」
そこで彼女の言葉が途切れ、フィオグラウスはハッとした。
包み込んでいたルルーシャの手が、冷たくなり震えている。
「ルルーシャ……!」
焦りを滲ませ振り返ると、ルルーシャは座って呆然としたまま──泣いていた。
思わずフィオグラウスはそのまま彼女を引き寄せ、抱き締めた。
「ごめん、ルルーシャ。本当にごめん」
口調を整える余裕すらなく、ギュッと彼女を閉じ込め謝罪する。
ルルーシャはそれを振り払うこともなく、ただただ戸惑っていた。
「あ、あの……ごめんなさい。何故か急に涙が出てしまって……どうしてなのかもわからなくて……。驚かせてしまってごめんなさい。何でもないんです。どうか、あの……謝らないで下さい。フィオグラウス様のせいではありません」
「違うんだ……私が焦りすぎたから……本当にごめん。君を泣かせるつもりなんてなかったのに」
思い出して貰えるかもしれないという欲に目が眩み、フィオグラウスは焦ってしまったのだ。
ルルーシャに急激に負担をかけた事を後悔し、心が千切れそうに痛い。
「ごめん、すぐにクロエを呼ぶから──」
「待って!」
離れようとしたフィオグラウスを、ルルーシャが引き留めた。
「……待って下さい。あ、あの……できれば、このままでいて頂けませんか? なんだか……離れるのが、不安で……」
ギュッと縋るように、彼女の小さな手が背に回される。
フィオグラウスはグシャリと顔を歪め、ルルーシャの髪に鼻を埋めた。
「君が望むなら、いつまででも」
チョコレート色の髪がふわりと頬に触れ、堪えきれなかった涙が一筋だけ、彼の頬を伝って落ちた。




