86話 丘を越えて
しばらくして。
涙は止まった。
手は、握られたままだった。
「……水蓮」
「はい」
「そろそろ、放してあげてください」
「いやです」
即答だった。
私は水蓮の手首を掴んだ。
力を込める。
びくともしない。
もう一度、両手で掴んだ。
やはり、動かない。
「……っ」
私は思わず玖音を見た。
これだけの力で握られている。
それなのに、玖音は平然としていた。
顔色一つ変えない。
「玖音、痛くないのですか」
「問題ありません」
即座に返ってきた。
よく見る。
こめかみに、汗が滲んでいた。
首筋にも。
「……玖音」
「問題ありません」
同じ言葉が返ってきた。
声が、ほんの少しだけ硬い。
「本当に?」
「はい」
玖音は微動だにしない。
ただ、汗だけが増えていく。
私は時弦を見た。
時弦は目を逸らした。
◇
やがて、水蓮の手が、ようやく緩んだ。
玖音は何も言わずに手を引き、袖で汗を拭った。
その所作が、いつもより少しだけ雑だった。
私は、昼間の郡司様の言葉を思い出す。
「水蓮」
「……はい」
「一つ、聞かせてください」
私は自分の手の甲へ目を落としてから、水蓮を見る。
「あなたの宝珠は、どこにありますか」
水蓮は、きょとんとした顔をした。
それから、袖で目元を拭い、ゆっくりと首を横に振る。
「そんなもの、ありませんことよ」
「……ない?」
灯りの炎が、また小さく揺れた。
私は水蓮の顔を見る。
嘘を言っているようには見えない。
「本当に、ないのですか?」
「はい。わたくしのものは、一度も見たことがありませんわ」
水蓮は自分の胸元へ手を押し当てる。
押し当てた手が、深く沈む。
私は、自分の胸元にも手を当てた。
それから、もう一度、水蓮を見る。
……。
比べるべきではなかった。
こちらは丘で、あれは山なのだから。
「わたくしには、そのようなものは……」
「いや。あるよ」
時弦だった。
水蓮が振り返る。
「あるのですか?」
「ある」
「どこに?」
「知らない」
「……は?」
水蓮の眉が寄った。
時弦は気にした様子もなく、囲炉裏の火へ目を落とす。
「まだ出てきてないだけだろうね」
「出てきていない?」
「宝珠っていうのは、鬼になったらすぐに出てくるものじゃない。力を持っていても、自分で気づいていない奴もいる」
私は水蓮を見る。
あの力。
玖音の手を、私が両手を使っても引き離せなかった。
それでも本人は、何もおかしいと思っていないらしい。
「では、水蓮にも宝珠が?」
「たぶんね」
「たぶん、なのですか」
「宝珠が現れるかどうかは、本人次第さ」
そう言って、時弦は欠伸をした。
私はもう一度、水蓮を見る。
水蓮も、自分の両手を見つめていた。
何かを確かめるように、ゆっくりと指を開き、また閉じる。
その顔には、まだ納得できていない色が残っていた。
私も考えようとした。
宝珠。
鬼の力。
水蓮の力。
郡司様が言っていたこと。
それらを頭の中で一つずつ並べて。
並べて……。
「……姫様?」
水蓮の声が聞こえた。
「はい」
返事をしたところで、大きな欠伸が出た。
「……眠いです」
急に、身体が重くなる。
伏見から丘を越えてきた疲れが、今になって一気に押し寄せてきた。
いろいろなことがありすぎた。
考えようとしても、もう頭が働かない。
「……私は……先に寝ますね」
「え?」
そのまま、ごろんと横になる。
畳が頬に触れた。
冷たくて、気持ちがいい。
「姫様、そこで寝るのですか?」
「……少しだけです」
「少しで済む顔ではありませんことよ」
水蓮の声が、少し遠く聞こえる。
目を閉じる。
「おやすみなさい」
「姫様、せめて衣を」
「……」
「姫様?」
返事をしようとした。
けれど、もう声が出なかった。
身体から、すべての力が抜けてしまったようだった。
指一本、動かない。
音が、遠くなっていく。玖音の香りのする衣が、私の上へそっと重ねられる。
……温かい。
最後に聞こえたのは、玖音の困った声と、誰かが小さく笑う声だった。




