35話 赤月の花畑 (二章一話)
二章からは、基本的に菜垂姫の視点で物語が進行します。
ただし、場面によって視点が変わることもありますので、ご了承ください。
何を――間違えたのだろう。
私は、血に濡れた玖音を抱いたまま、
深く沈んでいった。
冷たい。
もう、
何も聞こえない。
玖音の身体から、
熱が消えていく。
抱き締めても、
血だけが指の隙間から溢れていく。
守ると誓ったのに。
結局、
私は足手まといでしかなかった。
やがて。
沈み続けていた感覚が、
ふっと消えた。
「……え……」
身体が軽い。
落ちていない。
浮いている。
私はゆっくりと目を開けた。
そこは、
空だった。
漆黒の闇と、
無数の星々だけが広がっている。
息はできない。
なのに、
苦しくない。
腕の中の玖音も、
動かない。
呼吸も感じない。
血だけが、
ゆっくり宙へ散っていく。
私たちは、
死んだのだと思った。
闇が崩れ、
視界が白く染まった。
◇
花の香りがした。
目を開ける。
青紫の花々が、
どこまでも大地を埋め尽くしていた。
風が吹くたび、
花の波が揺れる。
私は身体を起こした。
腕の中を見る。
玖音がいる。
けれど、
動かない。
町も。
鬼も。
炎も。
何もない。
静かだった。
あぁ――そうか。
ここが、
死者の辿り着く場所なのだと。
全部、
終わったのだと。
そう思った瞬間。
腕の中の玖音が、
微かに咳き込んだ。
「――っ」
温かい血が、
指を濡らす。
終わってなど、
いなかった。
「玖音……!」
血も。
温もりも。
消えていない。
けれど。
空がおかしい。
赤く染まった巨大な月が、
空を圧し潰すように浮かんでいる。
知らない世界だった。
「……ごほっ」
玖音が咳き込む。
唇から血が溢れる。
呼吸が浅い。
胸の傷も、
塞がっていない。
頭が真っ白になる。
どうすればいい。
分からない。
私は、
誰かを救ったことなんてない。
祈ることしか、
教わらなかった。
「どうしたらいいの……!」
その時だった。
――ちりん。
鈴の音。
風が止まる。
花々の揺れだけが、
ぴたりと静止した。
ぞわり、と。
本能が粟立つ。
私は振り返った。
そこに、“いた”。
紫紺の衣。
長い袖。
白い垂布に覆われた顔。
だが奇妙だった。
風が吹いているのに、
その白布だけが揺れていない。
まるで、
世界から切り離されているみたいに。
「……誰……」
喉が震える。
白い布の奥から、
低い声が落ちた。
『久しいな』
知らない。
会ったことなどない。
けれど、
なぜか相手は私を知っていた。
視線が落ちる。
胸元。
そこに刻まれた、
竜を象る紋。
それを持つ者は一人しか、いない。
「……セイメイ……?」
死者を蘇らせる術を知る者。
人ならざる異端。
城にいる者なら、
その名を誰でも知っている。
噂でしか知らないはずなのに、
目の前に立たれた瞬間、
本能が拒絶していた。
けれど今は、
そんなことどうでもよかった。
私は玖音を抱え直し、
必死に頭を下げた。
「お助けください……!」
沈黙。
やがて。
口を開いた。
『……貴様は、菜垂の姫君か』
「……?」
そうか。
私はまだ、従者の黒衣を纏ったままだった。
だが、今は己の姿など、どうでもよかった。
「あなたは、治らぬ傷を癒やし、
病に伏した者を救ったと聞き及んでおります」
私は、血の気を失った玖音を抱きしめる。
「どうか、その御力で、この者を……お助けください」
言葉を尽くす余裕などなかった。
ただ、膝をつき、頭を垂れる。
「この身を、供物として捧げます」
命でも、名でも、姫としての身分でもよかった。
差し出せるものがあるなら、すべて差し出す。
「神の御前に捧げよと仰せなら、従います」
私は額を地に押しつけた。
「ですから、どうか……この者の命だけは」
『誰に祈る』
刃のような声だった。
「……あなた様に……」
『俺は何もしない』
「このまま……
玖音を見殺しにしろと……?」
『殺すのは――
お前だ。菜垂姫』
空気が凍る。
理解できなかった。
何を間違えた。
私は、
守りたかっただけなのに。
あの場に私がいなければ、
玖音は刃を受けることなんて無かったかもしれない。
けれど。
セイメイの気配は、
一切揺らがない。
私は何度も頭を下げた。
額が土に擦れる。
「お願いします……!
全てを差し出します……!」
沈黙。
『それで、
救われると思っているのか』
私は息を呑む。
「……玖音を……」
『違う』
白い垂布が、
静かにこちらを向く。
『縋るだけで、
己では何も掴もうとしないではないか』
低い声が、
胸の奥へ突き刺さる。
『祈るだけなら、
死人でもできる』
息が止まる。
『己の身一つ守れない者が――
誰かを救う?』
低い声が落ちる。
『笑わせるな』
「違……っ」
否定したかった。
けれど、このままでは私の弱さ故に
玖音を死に追いやってしまう。
『ならば証明してみせろ』
一歩。
セイメイが近づく。
『俺の力は、血肉に宿っているのではない。音に宿る』
自らの喉元を指で叩いた。
『祝詞も、呪も、すべては声より出る。
ゆえに術者の喉は、術の門だ』
「喉……」
『俺の息を止めろ。声を奪え。
その瞬間、俺の内にある竜門の力は、行き場を失う』
セイメイは静かに笑った。
『それを、貴様が奪え』
セイメイは、
胸の竜門を曝け出した。
あの印さえあれば助けられるかもしれない。
「……」
首まで手を伸ばし、
躊躇してしまう。
何も考えられない。
白い垂布の奥から、
低い声が落ちる。
『その程度か』
言葉一つが胸を刺す。
玖音の腹から、
また血が滲んでいた。
焦り、苛立ち、
全ての感情が私を駆け巡る。
――ぶつん。
頭の中で、
何かが切れた。
気づけば私は、
セイメイへ掴みかかっていた。
喉元を、
両手で掴む。
『……ほう』
私は力を込めた。
「玖音を……
助けたい……!」
指が震える。
涙が零れる。
それでも、
締め続ける。
『……まだ、だ。
それでは奪えぬ』
怖かった。
人を傷つけることが。
けれど。
やるしかなかった。
玖音を救うために。
私は――。
「どうか、……どうか」
歯を食いしばる。
全身に力を込める。
――ぼき。
嫌な音が響いた。
世界から、
音が消える。
折れていた。
セイメイの頭が。
あり得ない方向へ、
力なく傾き――
音を立てて、地に落ちた。
セイメイは抵抗しなかった。
それどころか、自ら首を差し出すように、わずかに顎を上げた。
私の力ではない。
彼自身が、折れることを許したのだ。
「わ、たし……
人を……」
私は震える手で、
竜門へ手を伸ばす。
――が。
セイメイの手が、
私の手首を掴んだ。
手形が残るほど、
焼けるように熱い。
「ひっ――!?」
次の瞬間。
セイメイは自らの首を掴み、
ごきり、と骨を鳴らした。
折れた首が、
元の角度へ戻っていく。
苦痛も。
怒りも。
生への執着すらも。
そこには何もなかった。
『躊躇うな』
低い声。
『中途半端が、
一番醜い』
私は息を呑む。
セイメイは何事もなかったように、
玖音の傍へ膝をついた。
『……祈りでは、足りぬと知ったか』
ぽつりと、
独り言のように落ちる。
やがて。
静かに経を唱え始めた。
『かしこみ、かしこみ。
竜門よ――かの者の傷を留めよ』
空気が震えた。
玖音の胸の傷が、
淡く光る。
傷跡はあるが、血が止まった。
玖音の喉が震える。
止まりかけていた呼吸が、
かろうじて続いていく。
「玖音……!」
私は崩れるように、
玖音を抱き寄せた。
冷え切っていた身体に、
僅かな熱が戻っている。
生きている。
「……よかった……」
涙が落ちる。
『……まだ早いか』
僅かに。
惜しむような声だった。
問い返そうとした時。
『それより』
セイメイが振り返る。
白い袖の先。
その向こうを見た瞬間、
私は息を失った。
丘の下。
花畑の向こう。
無数の影が、
こちらへ向かっていた。
月明かりの下、
死人たちがゆらゆらと揺れている。
『亡者の群れだ。
鬼と呼んで差し支えない』
数など分からない。
大地そのものが、
蠢いているようだった。
その光景に、
滅びた里の民の姿が重なる。
気づけば私は、
両手を組んでいた。
それをセイメイの手で払われた。
掌が重なり合う音が響く。
『神に祈る暇があるなら』
低い声が響く。
『死を冒涜する悪鬼を駆逐しろ』
白い垂布の奥。
見えない瞳が、
真っ直ぐ私を見ていた。
『その両手は――』
セイメイが、
静かに言い放つ。
『殺すための道具だ』
改稿に時間がかかってしまい、本当に申し訳ありません。
二章分を書き終えましたので、掲載を開始します。
できればこのまま、完結まで一気に進めるつもりです。
また、本作品ではAIを間接的に使用しています。
物語構成・展開・登場人物・セリフの意図は作者自身によるものですが、
描写や言い回しに迷う部分ではAIを参考にした箇所があります。
最終的な本文は、作者自身が確認し、修正・監修したものです。
どうかご理解いただけますと幸いです。




