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◇
「ウサギちゃん、デートしようよ」
「へ?」
金曜日の放課後のこと。
トラくんが「溜まり場に寄って一緒にかーえろ」なんて言いながら、あの建物まで私を引っ張ってきたときのこと。
そこにいた紫さんに、私はそんなお誘いをされた。
「この前、言ってたでしょ?」
古びた椅子に座り、くすんだテーブルに頬杖をついて彼女は言う。にっこりと笑う顔が、あまりにも美しく且つ可愛くて、私は「は、はい……」なんて言って気づけば頷いていたのだ。
それから日が落ちて、夜になり。
「で、でで、デートって、一体何をすればいいんだと思う!?」
「は……?」
私は伊吹の部屋に駆け込んだ。
「え、その人女でしょ?」
今し方、シャワーを浴びてきたらしい伊吹は濡れた髪を拭きながらベッドに座った。我が弟ながら、どこか色気のあるその姿は、正直羨ましい。どうやったらそんな風に、大人っぽく振舞えるのだろう。
「そ、そうなんだけど……でも、デートだって!」
手を合わせて嬉々としている私に、伊吹は「ふーん」と呟いた。
「どっちでもいいけど。デートだとしてどこ行くの? 買い物?」
「そう、なのかな? 買い物かな……買い物だったら、久しぶりだな……」
想像して、ちょっと胸が弾んだ。女の子と一緒にお買い物は夢だったから。
「でもその場合、お金は? あるの?」
「…………はっ!」
「父さんは仕送りしてくれるって言ってたけど……確認してる? っていうか、お金の下ろし方わかるの?」
「…………」
暫く固まったあと、「わ、わかんない……」と顔を青くすると、伊吹は『だと思った』というような顔をした。
「今までカードだったしね。というか、買い物とか滅多にしなかったのもあるな」
「どうしよう!?」
「まあ、下ろし方くらい銀行の人が教えてくれそうだけど……そんなことより、遊ぶお金があるのかって話だけど」
「確かに……」
真剣に頷くと、伊吹も眉を顰めて一緒に考え出す。
「ねえ、伊吹。デートって、一回、いくらくらいかかるんだろう?」
私の問いに、伊吹は「さあ」と即答した。
「俺に聞かれても」
「でも伊吹……女の子の友だち、多かったでしょ?」
「別に。多くないけど」
「じゃあ、デートしたことないの?」
首を傾げると、伊吹は目を丸くしたあと少し気まずそうに「あー」と声を零した。
「普通の遊びなら、何度か」
「え!? あるの!?」
「あるのって、そっちが聞いたのに何で驚いてんの」
呆れつつ「行く気はなかったんだけど」と伊吹は答える。
「断れないように仕掛けてくる子が多かったから」
「いいなあ……私も女の子とデートしてみたいなあ……」
夢を見るようにして上を見ながら想像する私に、伊吹は呆れたように立膝に頬杖をついて「デートじゃないってば」と言っていた。
「大体、俺たちには普通の人の遊ぶって感覚がわかんないでしょ」
「一回あたり……いくらくらいの予算なんだろう」
「めちゃくちゃ安く見積もって、50万だとして……」
「普通の人たちが一回のデートにかかる費用は……10万、とか?」
「状況によると思うけど、多分そのくらいじゃない?」
「10万……それで一体何を楽しむのかな……」
「服一着買って終わりそう」
「!? そんな……!」
延々と感覚のずれた話を続けていると、「こんばんはー」と玄関の向こう側から聞き覚えのある声がした。
「あ!」
と、元気に声を上げる私とは裏腹に、伊吹は少々面倒臭そうな顔で「またあの人……」と重い足を上げて玄関に向かった。
「やっほー弟くん。オサゲちゃんいる?」
「は、なんで……」
「だって、お家にいないみたいだったから、ここかなー、って」
「トラくん!」
伊吹の後を追って、玄関に向かうと制服姿のトラくんがいた。
「あれ、制服なんですね……? 今までお出かけだったんですか?」
「うん、ちょっとね。それよりもさ、オサゲちゃんって明日紫ちゃんと出かけるんだって?」
「!! そうなんです!」
「うおっ、何!?」
トラくんの手を取って私は勢いよく頷いた。
「私、女の子とお出かけ初めてなんです! 一体、何をどうすればいいと思いますか!?」
「どうすればいいって、ええ……?」
話が見えないんだけど、と。トラくんが視線を向ける先には伊吹がいたりする。
伊吹は一度息を吐いて、どこか諦めたように「どうぞ」と取り敢えずトラくんを部屋の中に入れた。
「――なるほどねえ、普通の遊び方が知りたいと」
「そうなんです!」
先程までの話の流れをざっくりとトラくんに話すと、彼はこれまでにないくらいにっこりと笑って、私の頭をがしりと掴んだ。
………え、がしり?
「あはは。安く見積もって10万とかー……馬鹿にしてんのかな君たちは? え? その上10万ぽっちで一体何をするのやらとか言っちゃってさーあ?」
「え、トラくん?」
「その金持ちかぶれの頭に庶民の常識を叩き込んでやろっかなー。ん?」
「っ(ひぃいいい!)」
笑顔だけど笑顔じゃない顔がそこにはあった。
と、トラくんが怖い! いつもは人当たりのいいはずのトラくんが……!
「ああ、すみません。しょみ……いや、一般家庭の金銭面の勉強はしてきたつもりだったんですが」
「きみはさらりと人のことバカにしてるよね?」
「なんていうか、思ったよりも庶民……あ、いえ。一般的な庶民の方々の金銭感覚は、どうやら想像とかけ離れていたみたいです。勉強不足でした」
「今、普通に庶民って言ったよね? しかも言い直しても尚、庶民って言ったからねきみ。一般的な庶民の方々ってなんだろうね」
こめかみを押さえて不覚と言わんばかりの伊吹に、トラくんは笑顔の中に怒りマークを一つ。
額の端に貼り付けて、そんなことを言っていた。
「遊びに行くのに、お金だのなんだの特にいらねえよ。要は楽しめればいいんだって」
少々苛立ったように、口悪くそれを言うトラくんは私の頭からようやく手を離してくれる。
「えっ、お金を使わない娯楽がこの世に存在するんですね……。奥が深いな、庶民娯楽」
「ちょっと弟くんは黙ってようか。つか、きみ。そういうキャラじゃないよね? 俺らをバカにしたいだけだよね?」
絶句とばかりの顔をする伊吹に、トラくんは即座に付け足した。
そんな彼に、伊吹は普通の表情になると「冗談ですよ」とドライヤーを手に取った。
「ところで、なんですか」
「ん?」
「何か用があったのでは」
「……ああ! そうそう。オサゲちゃん明日さ、紫ちゃんと遊んだあとに冬馬さん家に来なよ」
伊吹の問いに手を叩くトラくんは、私を見て口を開く。
「冬馬さんのお家……?」
「みんなそこにいるからさー、場所は紫ちゃんが知ってるはずだし」
「みんな?」
「うん。なんか、冬馬さんの部屋に新しいテレビだったかプロジェクターを入れるとかで、それでアニメ映画の鑑賞会するんだってさ」
首を傾げる私に、トラくんはそう言ってポケットに入ったスマホをちらりと見た。
「んで、まあオサゲちゃんさ冬馬さんの家に行ったことないし、誘ってみたんだけど……」
「で、でも……私が行ってもご迷惑にならないでしょうか? それに冬馬さんは……」
思い出すのは、試験最終日。
冬馬さんに散々追いかけられたことを思い出して、身体が震え出す。
「あ、そうそう。冬馬さんの家って、ペットがいっぱいいるんだよ」
「行きます」
「え、早! 即答じゃん。何? オサゲちゃん動物好きなの?」
「大好きです!!」
両手のひらを握りながら、目をきらきらさせる私の頭の中には、ふわふわモコモコの猫や犬、ウサギやひよこが思い浮かんで、信じられないほど気分が上がった。
虫とは大違いのあの姿に手触り、そして愛らしいお声に円らな瞳。
想像するだけで、ああ、なんて可愛いのだろう!!
「弟くんも来る?」
「俺はいいです」
「こっちも即答か……。変なところ似てるね、オサゲちゃんと弟くん」
「気のせいですよ」
会話を続ける二人の近くで、私は猛烈に興奮していた。
久しぶりにあのふわふわの毛が触れると思うと、居てもたってもいられなくなりそうだった。




