番外編2 クマ執事と魔法の使えない少女
ガイダン侯爵家に、一夜にして大木が出現したという話はあっという間に広まった。
その木に咲いた淡いピンクの花は、風が吹く度に舞い上がり、空へと飛んでいく。空からひらひらと落ちてくる花びらはとても幻想的で、美しかった。
初めはその侯爵家に仕える先祖返りの亜人の仕業ではないかと思われていた。数少ない先祖返りならばそれくらい出来るだろうと囁かれた。
誰一人として、侯爵家の魔法の使えない少女の事を思い返すことはなかった。彼女に出来るはずがないと思われていたのだ。
* * * * * * * * * *
それから2ヶ月が経って。
日が延び始めた放課後に、学園の大きな鐘の音が響いた。
それは授業終了を告げる五回の鐘ではなく、帰宅を促す三回の鐘の音であった。
「……遅い」
緑色の魔法車の中で、眉間に皺が寄るのを感じながら、ダイアンは小さく呟いた。
あとはただ家へ帰るだけだというのに、年の離れた弟がまだ戻って来ないのだ。
何をしているのだろうか。弟は最近ある事情でやけにそわそわと浮き足立っていると思ったが、もしや、あの馬鹿弟。
彼が車の扉を開けて、外に出ると運転手が話しかけてきた。
「ダイアン様。ケビン様はお友達とお話しでもなさっているのでしょうかねぇ」
「友達かどうかは分からないが、道草をしているようだ。首根っこを掴んで連れてくる」
おそらく誰かと話しているのは間違いないだろう。だがその誰かは友達ではなく、きっと。
王都に近いこの学園は大きく、8歳から18歳までの数多くの生徒が通っている。3学年ごとに校舎は異なり、第一校舎から第四校舎まである。ダイアンが通っているのは第一校舎、ケビンは第四校舎だ。
すでに人がまばらな第四校舎で、弟の教室を覗くがそこにはいなかった。ため息を一つついて、別の教室に向かう。
三つ教室を挟んで、主に土系統の生徒が集まる教室へと向かった。最近魔法が使えるようになり、入学許可がおりたと嬉しそうに話していた従妹。彼女は主に土の魔法を使うとダイアンに言っていた。だから、きっと。
扉を開く前に、中から弟の声が聞こえてきた。ダイアンは硝子のはめられた扉の前で中を覗き込んだ。
「土系統なんて、シエーナに似合いの泥臭さだよな」
……予想通りに従妹のシエーナの教室には、彼女にちょっかいをかけるケビンがいた。しかもまた嫌味である。弟の学習能力のなさに頭痛を感じながらも、扉をあけようとすると中からさらに従妹の声がした。
「ねぇケビン。暇なの? わざわざ私の教室まで来るくらいすごく暇なの?」
声と同じくらい呆れた顔のシエーナは、手にしていた教科書をロッカーにしまいながら答える。
「別に暇じゃねぇし! 従姉妹が俺に迷惑をかけないか心配して来てやったんだよ!」
そう言い張るケビンであったが、普通に暇なのではなかろうかと思う。従妹もそう思ったのか、ロッカーの鍵を閉めて立ち上がると、ケビンを見て小首を傾げた。
「迷惑をかけるつもりはないけど、わざわざそれを言いにきたの? ダイアン従兄様とか叔父様から私に近寄らないようにって言われたんじゃなかった?」
「と、父さん達に言われたのはシエーナの家に行くなってことだけだし!」
弟は憤然と自分の言い分を主張した。皆まで言わなくてもシエーナに近寄るなという意味が含まれていたのは分かるだろうに、いや分かっているからこそ、こそこそと放課後に彼女の所に向かったのだろう。
呆れ顔のシエーナは、腰に手を当てて言った。
「あのねぇ、ケビン。ケビンの水系統なんてありきたりで凡人ばっかりごろごろいるわね、って言われたら、どう思う?」
彼女の言葉にケビンは血を頭に昇らせた。
「はぁ!? 水系統は多様性があって一番日常に密接に関わるんだぞ! 水不足のときに多少でも水を生み出せるんだからな! お前にそれが出来るのかよ!」
「そうよね、土系統だってそうよ。不作の土地を富ませることができるのよ? ケビンに出来るの?」
「……」
ケビンは口を尖らせるようにして黙り込んだ。真っ直ぐに反論されて何も言えなくなったのだろう。少し背の小さいシエーナは、ケビンを見上げるようにして言う。
「人の系統の悪口を言うのは、失礼なの。そういう事を言うから、私はケビンのこと嫌いなのよ」
「……なんだよ、そんなん分かってるよ……」
語尾が小さくなりつつも、ケビンはシエーナを力なく睨んだ。まっすぐな瞳でシエーナは彼を見返した。
「でも、ちょっとは私も悪かったわ。初めからケビンと仲良くする気がなかったから。だからケビンが私のことを嫌いで悪口を言うのも、仕方ないと思う」
ぱっとケビンは顔を上げると、口を開いてはためらって閉じた。シエーナは続けて言った。
「私は誰とも仲良くする気がなかったし、しちゃいけないと思っていたから。そうじゃないんだって最近気付いたの。アルに、教えてもらったのよ」
彼女の新しい執事の名前をシエーナは大事な言葉を呟くように口にした。その笑みは優しく柔らかく、そして幸せそうであった。
以前と、彼女の雰囲気が変わっていることにダイアンは気付いた。
細く長い金の髪、可愛らしい顔立ちの従妹。魔法が使えないという負い目があったせいか、それとも他の理由でか、以前の彼女はどこか不安定な雰囲気があった。いつか、消えてしまいそうな。
しかし魔法が使えるようになったことを、はにかみながら伝えてくれた従妹の笑顔にもう影はなかった。彼女の周りを流れる魔力は安定していたし、穏やかな雰囲気に包まれていた。
その理由の多分を占めるのは、黒く大きな体を持った彼だろうことは想像に難くなかった。
本当は、自分がそうなりたかったのかも知れない。ケビンは彼の名前を聞いて盛大に顔をしかめた。
「ふん、あんなクマに絆されて、ばっかじゃねぇの」
「うっさい水差しぶつけるわよ」
「……」
ケビンは一瞬で萎れた葉のように小さくなった。彼の心のダメージは大きかったようである。
くっくと笑うと、ダイアンは隣に声をかけた。自分と同じように、帰りの遅い彼女を心配したのだろう。いつの間にか、彼が隣にいた。教室の扉前で、一緒に中を覗いていたのだ。
「心配するほどではなかったな」
「そうですね、ダイアン様」
「シエーナは、いい表情をするようになったな。前よりずっと、幸せそうだ」
その表情の変化の理由を、使えなかった魔法が使えるようになったから、と解釈するものもいるだろう。だけど、本当はそうではないことを知っているのは、彼女の執事達だけであった。
黒い巨体の彼は自分が褒められたかのように嬉しそうに笑った。
「お嬢様は、世界一優しく可愛らしく、素敵なお嬢様ですから」
アルクトスが言った『世界』という言葉に含まれた言外の意味はダイアンには分からなかったが、そうだな、と彼は頷いた。掌中の珠のように彼女を可愛がる執事に、からかうように視線を向けた。
「愚弟はそんな世界一素敵なお嬢様が好きなようだが、将来嫁にくれるか?」
「ははは、ダイアン様、ご冗談を」
執事の姿をしたクマは微笑んだ。目が笑っていなかった。
「お嬢様はまだまだ幼いですからね。100年早いです」
それは長すぎやしないかと思わなくもなかったが、ダイアンはこみ上げる笑いを耐えるように肩を震わせた。本当にこの執事は。執事達は。
「バトラも中々な可愛がりようだったが、アルクトス殿はそれを越えそうだな」
「祖父ほどではないと思いますが……そう、ですね」
大きな黒い腕を組んで少し考えてから、彼は言った。
「世界が美しいことも、美しいだけじゃないことも、お嬢様に知って欲しいと思っています。そうして成長していくお嬢様を、見守りたいと」
舞い上がる桜の花びらの中で、大木の前で佇んでいた彼女に。
「綺麗」と嬉しそうに微笑んでいた彼女に。
『この世界』で生きて行くと決めた彼女には、きっと沢山の楽しいことと、沢山の辛いことがあるだろう。誰かの言葉に傷つくこともあるだろうし、仲違いすることだってあるだろう。それでも。
――どんなときでも、ずっと傍にいようとあの木に誓った。
100年後も一緒に見ようと、はにかんだように笑うシエーナの後ろに立つ大木に。
小さな目を細めるアルクトスに、ダイアンは笑った。
「……そうか。シエーナのことを、これからも頼んだよ」
「もちろんです。ダイアン様」
「さて、いい加減止めてくる」
「お手伝いしましょう」
そうして2人は教室に入ると、「うるせぇブースブース!」と真っ赤な顔で怒るケビンと、「なによ馬鹿じゃないの!」と口をへの字にして怒るシエーナを引き離した。子供の喧嘩か、と突っ込もうとしたが実際子供の喧嘩だった。
ケビンの首根っこを掴んでダイアンはアルクトスに会釈すると、待たせている車の方へ向かった。ずるずると引きずられるケビンは、ふてくされた表情のままだ。
「……ケビン」
「……」
「お前も少しは素直になれ。従妹が心配なら、そう言えばいいだろう」
「……っあいつは」
不満げに弟は唇を噛んだ。
「俺の言葉なんか聞きやしない。クマの言葉は聞くくせに、俺が言ったって、なんも」
それはお前の過去の、いや今だに続く言動のせいではなかろうか、と思いながらダイアンが聞いていると、引きずられたままケビンは下を向いた。つま先の向こう側、廊下の奥に手を繋いで笑顔で歩く二人が見える。ケビンの顔が歪んだ。
「シエーナは、向き合おうとしてるだろう。前よりずっと」
「……」
「情けない顔をするな。もっと強く、大きな男になれ。アルクトス殿よりもずっと。そうすれば」
そうすれば? と小さく呟く弟に、兄は笑った。
「100年後くらいには、仲良くなれるかも知れないな」
遠すぎる! と盛大なブーイングが弟からきたのはその直後であった。
* * * * * * * * * *
「もう、女の子にブスって失礼よね!」
頬を膨らませるシエーナに、アルクトスは笑う。
「お嬢様は世界一可愛らしいですよ」
「アルの世界一は、絶対狭い世界だわ」
きっぱりと言い切るシエーナだが、それでも少しだけ嬉しそうに頬を緩めた。
手を差し出すと、いつものように黒い大きな手がそれを包んだ。シエーナは放課後の廊下を、二人並んで歩いていった。斜めに差し込む夕方の光は、大きな影と小さな影を作る。
小さな歩幅にあわせるように、ゆっくりとアルクトスは歩いた。
「今日は、どんな勉強をなさったのですか?」
「えっとね、魔法学は種を成長させる魔法とか、土の中を柔らかくする魔法とか」
彼女の系統は土に限らず、おそらく水でも火でも光でも風でも、使うことは出来るだろうとアルクトスは知っていた。魔法を拒否し続けた8年分の力が溢れていたからだ。
けれど、それは一時のことかも知れない。変に注目されても困るので、一番可能性の高い土系統に絞ることにして、シエーナは学園へと通い出した。友達も出来たらしい。
生き生きとして学園に通うシエーナを見ると、嬉しいと同時に少しだけ寂しい。祖父と同じくらいに執事馬鹿になってしまったのではと思わなくもない。うちのお嬢様は世界一可愛い。
そして、彼女の「世界」と自分の「世界」が重なっていることが、何よりも嬉しいのだ。
「で、国語の授業は先生の話がほとんどで、あとは作文の課題が出てね」
一生懸命、学園であったことを話していたシエーナは、ふと言葉を止めた。
もぞもぞと照れくさそうに、繋いでいない左手で自分のドレスを握る。どうしたのかと首を傾げて自分を見るアルクトスに、シエーナは言った。
「最近あった良いことを書きなさいってあったから、こう書いたの」
彼を見上げる彼女の笑顔は、満開の桜よりも綺麗だった。
「私には、世界一大好きな執事がいます、って――」
王都の学園、夕暮れの廊下で。
クマの執事と魔法を使えるようになった少女は笑い合いながらゆっくりと歩いていた。
その周囲をきらきらと、夕暮れの光とは違う輝きが包んでいた。
青、赤、白、緑に黒。どこか嬉しそうにも見えるその光は、彼女の周りをくるくると周り。
そうして彼女と一緒に家路へと消えていくのであった。