読切短編 投函済み
田中修一は、余命三ヶ月と告げられた翌朝から、手紙を書き始めた。
妻への手紙には、二十八年間の感謝と、若い頃に嘘をついたことを書いた。娘への手紙には、中学の発表会を仕事で抜けたことを書いた。大学時代の友人・村瀬には、就職の口利きを断った本当の理由を書いた。小学校のクラスメートだった松田には、あの日、松田の筆箱から消しゴムを盗み、知らないふりをしたことを書いた。
毎朝六時に起き、一時間かけて一通だけ書く。宛名を丁寧に書き、切手を貼り、ポストへ歩いて投函する。それが修一の、残り三ヶ月の使い方だった。
面と向かって謝れるほど、修一は立派な人間ではなかった。書いている間だけ、三ヶ月後のことを忘れられた。
三十一通目の朝、電話が鳴った。
娘の声だった。「お父さん、病院から連絡があって」
修一は机の前に座ったまま、万年筆を持っていた。今日は昔の上司・堀田への手紙を書くつもりだった。部下の失敗を自分のせいにして庇ってもらったのに、一度も礼を言わなかった。
「検査結果、取り違えだったって」
修一は万年筆を置いた。
「お父さん? 聞こえてる? どこも悪くなかったんだよ」修一は、喉の奥が急に熱くなるのを感じた。 助かったはずなのに、足元が崩れるようだった。
机の引き出しを開けた。切手が十二枚、残っていた。使うはずだった未来ごと。
三十一通。三十一人に、届いている。
妻は今頃、二十八年前の嘘を知っている。村瀬は、断られた本当の理由を知っている。松田は——もう会うこともないと思っていたから書けた言葉が、松田の手元にある。
「お父さん、よかったじゃない」
娘の声が、遠い。
修一は窓の外のポストを見た。今朝も、六時に歩いて行った。堀田への手紙を書く前に投函しておこうと思ったのだ。——いや、違う。 あれは三十二通目だった。
昨日書いた、娘への二通目。
「生まれてきてくれてありがとう」は、死ぬ人間だけに許される言葉だと思っていた。
「よかったな」と修一は娘に言った。
電話が切れたあともしばらく、修一は机の前から動けなかった。それから、新しい便箋を取り出した。
死ぬつもりなら書けた。宛名を書こうとして、手が止まった。




