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そして、始まる  作者: 大平麻由理
番外編
88/91

ソナチネの夏 その2

「いや、来るなとは言ってないよ。そういうわけじゃ……」


 褒めても褒めても香山は納得しない。こんなに向上心のある生徒だとは、今まで気付かなかった。いったい彼女は、どのようにしたいのだろう……。

 香山を納得させるにはどうすればいいのか、広海は首を捻るばかりだ。


「じゃあ、明日もお願いします。あたし、先生にいっぱい褒めてもらえるよう、がんばります。大学も受かって見せます。だから、この夏休みの補習講座、最後まで受けさせて下さい」


 香山は一向にひるむ様子を見せない。隣の音楽室で某美術教師が教えている生徒が、すでに一名、脱落したばかりだというのに、この違いは何なのか。

 広海は手を顎の辺りに添え、しばし考え込んだ。生徒の意気込みに応えるしか、選択肢はないのだろうか。


「そうか、がんばるのか……。わかった。香山がそこまで言うのなら、そうしよう」


 普段はおとなしくて控えめな香山にここまで押し切られると思ってもみなかった広海は、仕方なく降参の白旗を揚げた。

 初心者向けの補習にもかかわらず、蓋を開けてみれば、香山のような経験者が何人も混ざっていたという事実に、なすすべもない。

 初めは弾けないフリを装ってはいても、褒めると勢い付いて、ショパンのワルツまで弾き始める生徒がいたのには、さすがに驚きを通り越して憤りを覚えたりもしたのだが。

 熱心に通ってくる生徒を追い返すわけにも行かず、指導の難しさに日々頭を悩ませていた。


(たちばな)も、おまえほどの熱意があればよかったんだが……」


 昨日、突然補習講座を辞めてしまった生徒の顔を思い浮かべていた。

 音楽の成績も決して悪くない生徒だったのだが、隣の某美術教師とひと悶着あった後、怒って帰ってしまったのだ。

 学生時代からの腐れ縁、いや、かつて恋人のような存在でもあったこの美術教師は、妥協、及び協調という言葉を知らない。誰が何と言おうと、わが道を貫く。そしてどの男性教師よりも男らしく勇ましい。

 確かにその姿勢は間違ってはいないし、どこまでも正しいのだが、今時の高校生にその真意を伝えることは難しい。


「先生、あの……。橘さんは、鶴本先生にレッスンしてもらえるのなら、続けるって言ってました」

「はあ?」


 広海は香山の顔をまじまじと見た。


「いったい、どういうことなんだ?」


 ますます理解に苦しむ。じゃあ、何か。隣の某美術教師との相性が悪いだけで、指導者が変わればうまくいくとでも言うのだろうか。ない。それはない。

 と言うのも、橘の指導法に関しては、某美術教師のやり方にケチをつける気は全く無い。もし自分が担当していれば、もっと厳しく対処したかもしれないと思うくらい、橘の態度はひどかった。


「凛香ちゃんがいいって子もいますけど、鶴本先生じゃなきゃダメって子もいるんです。あたしももちろん、橘さんも、その、鶴本先生がいいんです。先生とこうやって二人きりでレッスンしてもらえるなんて、夢みたいで。あの、あたし、先生が……」


 その時だった。コンコンとドアをノックする音が聞こえた。


「ん? ……どうぞ」


 ドアの方を見て、広海が返事をした。すると、そこに現れたのは社会科教諭の里見瑛子だった。


「ああ、里見先生。何か用ですか?」


 広海がそう瑛子に訊ねると同時に、ピアノの椅子に座っていた香山が立ち上がり、楽譜を抱えてぺこっと頭を下げた。その目には涙が浮かんでいるようにも見えた。

 ウーロン茶のペットボトルを持って立っている瑛子と入れ替わるようにして、香山が目にも留まらぬ早業で部屋を出て行く。

 何がなんだかわからないまま、今度はもっとも苦手とするタイプの社会科教諭が広海の前に陣取ったのだ。


「おい、香山! 香山!」


 広海の呼ぶ声も虚しく、香山は戻ってくることはなかった。


「鶴本先生。お疲れ様です。何でしょうね、あの子。あいさつもちゃんとできないのかしら。担任はどなたかしら……。そうそう、ちょうどレッスンが終わったところでよかったです。もしよかったら、一緒に冷たいお茶でも飲みませんか?」


 瑛子があまり好ましくない香水臭を漂わせながら、広海に愛想笑いを振りまく。


「あ……。別に今はそんなに喉は渇いてないので……」

「そんなことおっしゃらずに。えっと、グラスはどこかしら」


 瑛子が広海のそばに一歩近づいた時、今度は隣の音楽室と準備室をつなぐドアがゴンゴンと何やら鈍い音を立てた。そして……。


「広海。コーラ、買って来たぞ。感謝しろよ……えっ? はっ? な、何?」


 なんと! 隣の某美術教師が、つかつかと我が物顔で部屋に入ってくるではないか。仲の良かった過去が再現されたようで、なつかしさが込み上げてくる。が、現実はシビアなのだ。

 瑛子を牽制する上では、ナイスな登場をしてくれたと喜ぶべきなのだが、広海、と馴れ馴れしく呼んだその一言が、この上なくまずい。

 すべてがスローモーションで動いているように見えた。

 広海のこめかみに伝った一筋の汗が、つららになるのではないかと思われるくらい、一瞬にしてその場が凍りついてしまった。






9.過去の小さな出来事 その1に続きます。


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