お嬢様と呼ばないで その1
凛香視点の番外編になります。
「ひろみ……」
恋人に抱きしめられた凛香はうっとりとした目で彼の名を呼んだ。
「なんだい?」
凛香の髪を撫でながら恋人が問う。
「ずっとこうして、あなたに包まれていたい」
「俺だってずっとこうしていたい」
「もう、あなたから離れられない」
凛香の正直な気持ちだった。
「そうか、離れられない……か」
「うん。離したくない」
「俺だって同じだ。おまえとはもう、離れられない」
「ほんとに?」
「ああ、本当だよ。離れられるわけがない。ずっと一緒だ」
恋人と同じ気持ちでよかった。凛香の心がほっこりと幸せな気分に包まれる。
「こうやってあなたと一緒にいられるなんて、夢みたいだ」
「夢みたいだな」
「でも。これって夢じゃないよね」
あまりにも幸せすぎて、ほんの少し不安になる。これが夢なら切なすぎる。
「多分、夢なんかじゃない……。誰が何と言おうと、おまえを離さないよ」
なんという幸福感。思わず、ぎゅっと恋人にしがみつく。そして、凛香がしているとは思えないほどの上目遣いで、甘えるように彼に訊ねる。
「ひろみ……。広海はいったい、私にどんな魔法を使ったの?」 と。
「それは秘密だ」
どこか得意げに彼が言った。
「ケチ。教えてよ」
不満げに口をとがらせてみる。
「だめだ。愛の魔法は解けるのも一瞬だから、簡単には言えない」
「広海のイジワル……」
日に日に恋人が愛しくなっていく。凛香の頑なな心を溶かしてくれた恋人の魔法は、いまだ解き明かされないままだ。
何を言われても、何をされても。もう彼の虜になってしまったのだから、魔法が解かれると生きてはいけない。これ以上、恋人を問いただすのは辞めた方がよさそうだ。
「おまえが愛しいよ」
「私だって……。そして前よりも、もっともっとあなたが好きになっていく」
「俺だって同じだ。凛香、おまえのことが好きで好きでたまらない」
ああ、広海。そんなに好き好きと連呼されたら、どうにかなってしまいそうだ。凛香はこれが世に言うところのキュンキュンする気持ちなのだと今さらながら気付く。
「んもう、広海ったら」
「この顔も、首も、柔らかな肌も、そして、おまえの全てが」
「好き?」
「ああ、好きだ。おまえを愛さずにはいられない」
「ああ、広海。愛している。だから、お願い、ずっとそばにいて」
「わかってる。どこにもいかないよ」
広海がそばにいてくれるだけで、他に何もいらない。今までに、こんなにも満たされた気持ちになったことがあっただろうか。凛香は広海の胸に顔を埋め、魅惑のテナーヴォイスを身体中で受け止める。
「広海、ずっと一緒にいてくれるんだね。ありがとう、広海。広海、ひろみ……。むにゃ、むにゃ……」
「……おい! おい、凛香? 凛香、大丈夫か?」
凛香が目を開けると、そこには髪の毛がぐしゃぐしゃっと逆立ったままの広海が上半身を起して覗き込んでいた。
そして彼の背後に見える天井のしみは間違いなく官舎のもので、今いるところは、寝室のベッドの上なのだと徐々に意識がはっきりとしていく。
「え? なに?」
「なにって、おまえ。俺のことを何度も呼んだじゃないか。目が覚めてしまったよ」
「え……。そ、そうか。あれは夢だったんだ。なーーんだ、夢か」
あんなにリアルに赤面物の愛を語り合っていたのに、夢だっただなんて。それよりも、こんなにもロマンチックな意識が自分の中に潜んでいたことの方が驚きだ。
まるで映画のワンシーンのような、恋人たちの甘い夢の時間が終わってしまったことに落胆した凛香は、いかにも残念そうに口元を歪め、寝転んだまま、くるりと広海とは反対の方を向いた。
「おい凛香。何が、なーーんだ夢か、だよ。どんな夢をみていたんだ? 寂しかったのか? それとも、もっとこうやって欲しかった?」
凛香の背中側から広海が抱きしめてくる。そして、彼の手が凛香の肌を彷徨い始めると、彼女の口から甘い吐息がもれた。ところが。
「はぁぅ…………って、広海! 今、何時?」
突然広海の手を払いのけ、ベッドの上にがばっと飛び起きた凛香が、これまた広海に負けないくらいもつれてしまった髪を振り乱し、慌てて目覚まし時計を探す。
「ったく、何だよ。めくるめくような夕べの宴が、今まさに再演されようとしているところだったのにな」
愛の交歓が達成できなかったことがそんなに辛かったのだろうか。広海がすねたような声でぶつぶつと文句を言う。
「そんな再演は、今はいらないから。それより大変だ。早くしないと、うちの両親がまた函館に戻ってしまう」
「おっと、そうだったな。でも、もうちょっとだけなら、いいだろ? まだ九時だし」
あきらめが悪い広海は、まだ凛香にまとわりついてくるのを辞めなかった。
「九時だって?」
凛香はくるっと身体を回転させ、広海の抱擁から逃れる。
「大変だ。早く出かける準備をしなければ。車で高速をとばしても、実家まで一時間以上はかかる。とにかく忙しい親だから、このチャンスを逃したら、今度はいつ会えるか」
「そうか、そうだよな。凛香のご両親への結婚報告が遅れると、その後の予定も大幅に変わってしまうからな。わかった。残念だけど、朝の戯れはあきらめるよ。その代わり……」
広海がそう言いかけた時、凛香は素早く彼の首に腕をからめ、やや強引に口づけた。
「り、凛香……」
「広海、ごめん。今はこれで許して」
休日の朝を広海と共に迎えた凛香は、本日一番の濃厚なキスと笑顔を、愛するフィアンセに贈った。




