56.心のままに その2
凛香の殺気にも似た空気が伝わったのだろうか。ピアノの椅子に腰掛けた広海が突如振り向く。
「おまえ、何やってるんだ?」
「べ、別に」
「そうだ。そのクッション使えよ。それを壁と背中の間に挟んでもたれると楽だぞ」
「ふん、誰が……」
「どうしたんだ、どっか具合でも悪いのか? そのクッション、去年の吹奏楽部の卒業生が、記念に手作りしてプレゼントしてくれたんだ。男子七名込みの二十人の合作だぞ。曲がったステッチも一生懸命さが伝わってきて味があるだろ? 男子の方が裁縫がうまかったって話だ」
「そ、そうなのか?」
「ああ……。で、どうした? 何かあるのか?」
広海が怪訝そうに、斜め上から凛香を伺い見る。
「あっ、いや、何でもない。あっはっはっはっ……! そうか、卒業記念か。じゃあ、このクッション、遠慮なく借りるね。はははは、そうか、そうだったのか……」
凛香はさっきまでつきまとっていた不安要素が一掃されて、気持ちが軽くなる。自然と笑いが込み上げてくるのだ。
「なあ、凛香。おまえ、本当に大丈夫か?」
広海の腕が伸び、凛香の額を押さえる。熱があるとでも思っているのか心配そうに何度も額に手をかざす。
「だから、大丈夫だってば。私のことはいいから、早く弾いてよ」
凛香は慌ててクッションの一つを抱き寄せる。もう一つは広海の言ったとおり背もたれにする。大きさといい弾力性といい、申し分のない形状に一人悦に入る。
けれど、生徒たちが恩師のためにと心をこめて作ったこのクッションを、あろうことか、めちゃくちゃにして引き裂いてやる、などと思ってしまったのだ。
このことは、絶対に広海に知られてはいけない。凛香は広海を少しでも疑った自分が恥ずかしく、クッションに背を預けながら、今度はどうしようもないほど後ろめたい感情に襲われていた。
肩を左右交互に上下した後、首をぐるぐる回す。簡単なストレッチを終えた広海の手が鍵盤の上に静かに据えられる。
いよいよその時がきた。
彼の演奏は昔からダイナミックだった。フォルテはより強く、ピアノはより繊細に。メリハリの効いた彼の演奏が、今また、凛香の目の前で始まろうとしていた。
Tシャツとハーフパンツ姿の、一見どこにでもいそうな大柄な兄ちゃんが、突然真顔でピアノに向う。
クライスレリアーナ第一番、ニ短調アジターティッシモ。
広海の指が鍵盤の上を低音部から高音部に向けて一気に駆け上がる。そして縦横無尽にシューマンの世界を紡ぎ出していくのだ。
広海が奏でるメロディーは、大胆でかつどこか哀しい。終楽章第八番、ト短調ヴィヴァーチェ・エ・スケルツァンドの付点のリズムが、いつまでも余韻を残しながら、全て弾き終わったことを凛香に告げる。
どうしたのだろう。広海の指が空中からそっと膝の上に下ろされ、もうそれ以上の演奏はないというのがわかっているのに、終わってしまうのが悲しくて。涙が次から次へと溢れて止まらないのだ。
頬を伝った涙が、膝の上に抱えたクッションの上に、ポタリ、ポタリと落ちていく。
クライスレリアーナ。この曲って、こんなに悲しい曲だったのだろうか。いや、決してここまで泣くような曲ではなかったはずだ。
CDでお気に入りのピアニストが弾いているのを何度も聴いた。
ところどころでポッと浮かび上がる珠玉のメロディーラインに魅せられることはあっても、涙を流したことなどこれまでに一度もない。
決して認めたくはないが、広海の奏でる音色に、そして彼の表現力の素晴らしさに感動してしまったのだろう。
いつも憎たらしいことばかり言って、横柄で、気に食わない奴だけど。それに、そんな彼の話す言葉に一喜一憂して、心がときめいて、誰よりも気になる人、でもあるけれど。
ピアノを弾いている彼の姿は、切ないほどに崇高で、その音色と相まって、一瞬たりともそこから目を離すことが出来なかった。
泣いてる顔なんか絶対に見られたくない。クッションを抱えてうつむいたまま、ト音記号のステッチ部分を出来るだけ避けるようにして、こっそり涙をぬぐう。
このままだと、涙の後が染みになって残るかもしれない。
許せ、卒業生諸君。凛香はクッションに顔を埋めたまま、二十人の生徒に向けて、密かに詫びの言葉を口にした。
「凛香……。おい、凛香?」
ペダルから右足を離した広海が振り返り、心配そうな声で訊ねる。
「泣いてるのか? なあ、凛香。どうしたんだ? 具合が悪いのか?」
凛香は頭頂部をピアノの前に座る広海に向けたまま、顔をクッションにこすり付けるようにして、首を横に振った。
「おまえ、いったいどうしたんだよ。やっぱり、泣いてるんだろ? 俺のピアノ、そんなによかったのか?」
凛香は一瞬ためらったが、そのままの体勢で、こくこくと頷いた。広海から見れば、頭のてっぺんだけが小さく上下して見えているはずだ。