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そして、始まる  作者: 大平麻由理
本編
55/91

55.心のままに その1

「入れよ」 


 広海が閉まりかける玄関ドアを背中で押さえて、凛香を先に部屋の中に通す。

 広海の部屋は相変わらず美しく整頓され、モデルルームのようにすっきりと片付いていた。

 どうしたら常にこのような状態が維持できるのか、凛香はいまだ不思議でならない。昔一緒にいた頃も、それはずっと謎だった。

 だからと言って、いつもせかせかと動き回って、雑巾片手に掃除をしている性分というわけでもない。

 凛香の雑然とした室内でも平気で横になるし、それを執拗に咎めることもなかった。

 ただひとつ言えることは、広海の集中力が他に類を見ないほど群を抜いて秀でているということだ。

 普段はズボラに見えるのだが、一旦目標が定まると、短時間で完璧に物事をやり遂げることができる。

 常に完璧な部屋の掃除や整理整頓も、その類稀な能力の賜物なのかもしれない。

 凛香は先日ベッド代わりにして身体を横たえていた白いソファにドサッと腰を沈めた。


「じゃあ、夜が更ける前に、おまえのリクエストどおり、ピアノを弾くとするか!」


 ソファの後に回り込んだ広海が、凛香の肩をポンと叩く。


「うん。まずは聴かせてもらわないとな。何のためにここに来たのか、わからなくなるし」


 凛香は振り返り、広海に答えた。


「おまえがここに泊まっていった晩、ずっと弾いてくれって言ってたからな。俺、おまえに頼まれると、弱いんだ」

「そうか。それはいいことを聞いた。これからもいろいろとよろしくな」


 凛香はにっと笑ってみせる。


「おい、俺の愛情を悪用するなよ」

「もちろん、悪用はしない。どんどん活用させてもらうだけだ」

「こら、凛香。それが悪用って言うんだ」


 凛香の座っている高さに会わせてしゃがみこんだ広海が、人差し指で彼女の額をツンと突いた。


「フン!」


 凛香は額を突かれたことより、あまりにも近くに広海の顔があることにびっくりして、突かれたのをきっかけに、くるりと前に向き直った。

 こんなにドキドキするなんて、もう本当にわけがわからない。


「いつだって、その、広海には感謝してるから。悪用なんてするわけがないし。でも、この前のことはよく覚えていないんだ。そうか、そう言えばあの日もここに泊まったんだよな。迷惑かけたよね、ごめん……」

「迷惑? そんな風に考えたことはないけどな。そもそも、俺がおまえに補習講座を頼んだのが発端だからな。おまえを介抱するのは俺の当然の行為だ」

「広海……」

「でもまあ、あの時期にくらべりゃあ、最近は顔色もよくなったし、病院に行くほどでもなくてよかった。いろいろと無理強いして悪かったな。あの仕事はおまえにしか頼めなくて、というのは建て前で、本音は、おまえと一緒にやりたかったんだ。里見さんがピアノを弾けるのは知っていたが、あの人はそういった器の持ち主じゃないだろ? 凛香なら任せられると思ったから……。おまえの看病くらい、どってことないよ。おかげで、一緒にいる時間も増えたし。さーて、前置きはこれくらいにして。ではお聞かせしましょう。あれから毎日三時間くらい練習してるんだ。こんなに弾き込むのも、学生の時以来だな。多分、技術的にはこれまでで最高の演奏ができると思う。ただ気持の面で、どれだけシューマンに近づけるか……。凛香、おいで」


 広海にソファの背もたれ越しに手を掴まれ、ピアノの部屋に連れ込まれる。


「よーーし。じゃあ弾くとするか。おまえはそのラグの上にでも座ってろ。また前みたいに倒れられたら、たまらんからな」


 広海はそう言って、防音室の戸を閉め切り、エアコンの電源を入れる。そして、例のごとく腕時計を外し、凛香は黙ってそれを受け取った。

 二重壁構造になった狭い密室に、凛香はピアニストもどきの男と二人きりになる。本当に大丈夫なんだろうか。ふと不安になる。

 でも、もうここまで来てしまったのだ。嫌ならば途中で引き返すことも出来たはず。それをしなかった凛香は、広海にすべてを委ねているも同然だとすでに気付いていた。

 お互いに想い合っているいい歳をした男女の行く末など、火を見るより明らかだ。とにかく今は、彼の導き出す音に集中しよう。

 凛香は、壁にもたれるようにしてラグの上に座り、ハーフサイズのデニムを履いた足をピアノの方に投げ出した。


 ラグの上には、ト音記号とヘ音記号の模様が全面に刺繍してある大きなクッションが無造作に置かれている。これはいったい……。

 凛香の胸中に再度もやもやした物がよぎる。以前の彼女にでも作ってもらったのだろうか。いかにも手作りと思われるそのクッションを掴み、無意識のうちにラグに投げつける。

 クソッ! 女々しいのはどっちだ。

 来栖にもらったネックレスをさんざんこき下ろしておいて、自分は昔の女からの戦利品を大事に残してるってわけか? 

 ううう、腹が立つ。仕返しに生地を引き裂いて、中の詰め物を出し、この憎っくきクッションをめちゃくちゃにしてやろうか、などとホラーなシナリオを組み立てる。



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