48.そして、ついに恋の矢は放たれた その2
店員さんのマニュアルどおりのいらっしゃいませの言葉が、しんとした店内に虚しく響く。
さすがに明日は始業式。いつも雑誌コーナーにあふれている青少年がやけに少なく感じるのは見間違いだろうか。
問題集の解答丸写し作業も佳境に入っていることだろう。
広海は片手にカゴを持ち、500mlの缶ビールを六本と、スルメ、サラミ、パッケージに入った焼きそばを素早く入れる。
一人暮らしのプロが選ぶ品は、無駄がなく、的確だ。
だがやっぱり値段は高めだ。凛香は発泡酒や次世代ビールでも気にならないのだが、この男は迷うことなくロングセラーのビール缶を選ぶのだ。
まったくこういうところが、何年たっても広海らしい。
「おい、凛香。明日の朝のおにぎりも買っとくか? それともパンの方がいい?」
そうだった。今夜は広海の部屋で夜を明かすわけだから、必然的に朝ごはんも一緒に食べることになる。
学生時代は菓子パン一個で済ませていた朝食も、最近はもっぱら和食中心のメニューだ。
いくら料理の腕前に自信のない凛香であっても、ご飯くらいは炊ける、というか炊飯器がおいしく炊いてくれる。
ならば……。
「え? おにぎりはいらないし。ご飯くらい炊けばいいんじゃないか。あとインスタント味噌汁でもあれば充分だけど。そうだ、目玉焼きとサラダくらいなら作れるぞ。それくらいなら私にも出来る」
私にまかせておけとでも言うように、凛香は胸を張る。
アルコールが入る前に炊飯器に米をセットしておけばいい。卵くらいなら広海のすっきりした冷蔵庫にもあるだろう。
とたんに広海が形相を崩す。彼女に手料理を期待しないとか言っておきながら、舌の根も乾かぬうちにこれだ。だから男と言うものは、信用ならない。
「おおっ、それいいね。凛香の手作り料理なんて、何年ぶりかな? じゃあ夜明けのコーヒーは俺にまかせておけ! 俺の腕の中で目覚めた姫には、とびきりのコーヒーが待っているよ」
よ、夜明けのコーヒーだって? それに俺の腕の中でって、いったい何を言い出すのか。
凛香は咄嗟に辺りを見回して人の気配を窺った。こんなきわどい会話を誰かに聞かれてみろ。激しく誤解されるではないか。
「ったく、その声、少しは慎めよ。それよりピスタチオ。これがないと飲んだ気がしない。広海も一緒にさがしてくれよ」
これ以上朝食の話はご法度だ。凛香はこの緑がかったひとりっ子のかわいいナッツの話題を持ち出し、ほっと一息つく。
だいたいどの店でも、ピーナッツの横にぶらさがっているはずだが。……ない。品切れだろうか?
店員にピスタチオのありかを訊ねようと、レジに向かってつかつかと歩き出したその時だった。
「せ、先生……」
どこかで見たことがある制服を身につけた女子高生らしき人物が、隣の陳列棚からぬっと現れて、凛香の前で驚いたように口をパクパクさせて突っ立っている。
「ん……? えっ? も、森口?」
凛香は目の前の生徒が東高美術部の生徒であることに気付き、非常に上ずった声で答える。
なんでこんな時間のコンビニにうちの生徒がいるんだと半ばパニック状態になり、心臓がありえないほどの音でドキドキと拍動を響かせる。
「おい、凛香。どうしたんだ?」
広海、来るな! ここから逃げろ! と心の中で叫ぶも、夜明けのコーヒーと腕枕に浮かれている男にそんな声が届くはずもなく。
背後ににじり寄るお気楽音楽教師の陽気な気配に、凛香の心臓は再び凍りついた。
「あっ……」
「うっ……」
凛香の前に立ちすくむ制服姿の女子生徒が見えたのだろう。広海は押し殺したような驚きの声を響かせ、女子生徒の森口は微動だにせず小さく呻いた。
「おーーい、森口。どうした? 何があったんだ?」
すると今度は、制服姿の男子が森口の真後ろにやって来て、彼女に訊ねる。
凛香の後にはビールやつまみ類が入ったかごを下げた広海が。そして森口の後ろには、やはり東高の男子生徒の姿が……。
四人とも、これでもかというくらい大きく目を見開き、お互いの視線を交差させた。
「つ、鶴本先生! あの、その、こんばんは!」
先に沈黙を破ったのは、ひょろりと背の高い男子生徒だ。森口の後ろで姿勢を正し、ぴょこっと頭を下げた。
「すながわ……。あ、ああ。こんばんは」
今にも消え入りそうな声で広海が生徒の名を呼ぶ。
砂川? 凛香はどこかで聞いたような名まえだなと首を傾げ、記憶を思い起こしながら、急に仕事顔になった広海の横に並ぶようにゆっくりと後ずさる。
「おまえたち、なんでこんな時間にここにいるんだ? 明日は始業式だぞ」
精一杯威厳を保ちながら、広海が生徒に対峙する。ただし、皺の寄ったTシャツとハーフパンツが、見事にそれを半減させているのが残念なのだが。