47.そして、ついに恋の矢は放たれた その1
凛香は広海と並んで、マンション裏手の有料駐車場に向かった。凛香の住むマンションは単身者専用で1LDKが基本の居住構造になっている。
そして、ファミリーマンションのように各部屋ごとに割り振られた駐車場はなく、希望者のみ抽選で使用区分が決められてるというシステムだ。
車を持たない凛香には、当然、専用の駐車場はない。おまけに数台分設けられている来客用駐車エリアも、常に誰かが使用中ときている。
学生時代、廃車寸前の中古車を乗り回していた広海は、当時からマンション裏手のこの有料駐車場を利用していた。
でも今はおんぼろセダンではなく、東高に転勤してきた時にはすでにこのジープ型の四駆に変わっていた。
見かけだけはカッコいいある意味鉄の塊のようなこの車は、実はこの上なく乗りにくい代物だったりする。
背のある凛香であっても、よじ登るようにしてシートに座る。通勤ごときに、どうしてこんな大袈裟な四駆を使う必要があるのか全く持って理解不能であるが、これが男のロマンだと言われれば、何も言い返せない。
凛香の父親も弟も同じことを言って、始終車を愛でているのだから、広海だけが特別変人なわけではないようだ。
今夜は室内着にスニーカーだからいいようなものの、スーツを着てパンプスなんぞを履いている日には必ず靴を落としそうになる。乗り込む時には細心の注意が必要だ。
後部座席のドアを開けた広海が、シートにトートバッグを投げるように置いた。そしてその粗雑な扱いとは正反対に、まるで生まれたての赤ん坊をあやすがごとく、さっき凛香が渡した冷酒のビンをそーっとバッグとシートの背もたれの間に忍び込ませた。
「よし。これで準備は完了だ。さーて、我が家に向かうとするか」
満足げに運転席に座った広海がエンジンをかけると同時にオーディオが鳴り出す。スピーカーにもこだわっているのか、やたら音がいい。
もちろんBGMはクラシックで、モーツアルトのシンフォニーが軽快なリズムを刻み始める。
これほどこの車に似合わない選曲があるのかと思うくらい、奇妙な取り合わせだ。
信号を二つ過ぎると、隣町に入る。エアコンが効いてきた頃、7の数字が輝くコンビニが姿を現わした。トラックも停められるように広めにとってある駐車場のど真ん中で、広海が車を停車させる。
ここで降りるのだろうか。そんなことは聞いていない。
凛香はいぶかしげに広海の顔を見た。
「つまみとビールを買うぞ」
そう言って、にっと白い歯を見せた広海がシートベルトをはずし、おまえも降りろと目配せをする。
そりゃあ、凛香が広海に渡した冷酒だけでは足りないのはわかる。でも家にビールの数本くらいはあるだろうに、それでもまだ足りないと言うのだろうか。
そう言えば……。見かけによらず、物事を理路整然と考えるタイプの広海は、部屋のインテリアだけでなく、冷蔵庫内もすっきりとさせていたのを思い出す。
余計なものは一切溜め込まない主義なのだ。必要な時に必要な分だけ買い、物がなくなってから補充する。
部屋に物があふれないためにはいい方法かもしれないが、もしもの時を想定して安心を得ることを選択している凛香は、食材のストックは欠かせない派だ。なのでビールは必ず常備してある。
それに、コンビニで単発買いする酒類やつまみは意外に値が張る。
今夜は多分広海の支払いになるだろうから大目にみるとしても、徐々に教育していかなければならないなと、いつしか今後の策を練っていた。
が……。
でもどうして? なんで広海の懐具合にまで首を突っ込まなければいけないのだろう。
ここのところどうも調子がおかしい。世の中の事象を、すべて広海フィルターを通して見ているような気がするのだ。
凛香はこの夏休みに急激に彼女のテリトリーを侵し始めたこの男の顔をまじまじと見つめてしまった。
「凛香。どうした? 行かないのか?」
「あ、いや」
反対に彼に覗き込まれた凛香は目のやり場に困り、視線をそらせた。
「おっ。もしかして、俺に見惚れていたか? そうか、そうか。うちに帰ってからゆっくり見せてやるから。どう? 俺ってわりといい男じゃない? さあさあ、お店に行くとしますか」
ドアを半分開けた状態で、広海が茶化すようにして言う。
あの頃より少し肉付きが薄くなった頬に、くっきりとしたラインの二重まぶたの目は昔のままだ。
ともすれば冷ややかな人物だと思われがちだったグレーがかったブラウンの瞳は、今や慈しむような柔らかい眼差しに変貌しつつある。今度この目に見つめられたら、もう逃げられないと思った。
「ほら、早くしろ」
助手席側にやって来た広海がドアを開け、凛香の手を取った。するとどうだろう。やっぱりどきどきして、息をするのも苦しくなる。
どうやら天使の放った恋の矢は、再び凛香の心臓にピタッと命中したようだった。




