46.哀れなキーボード その2
「えっ? あれって、もしかして……」
「そうだ。あの時も使っていたキーボードだよ。最近、弾いてないからな。荷物置き場みたいになってるけど」
「何だって? あれがキーボードなのか? いや違うだろ。ただの荷物置き場……え? ま、まさか。ホントにキーボードじゃねーか! ああ、キーボードよ。おまえはなんてかわいそうな奴なんだ」
広海は荷物のそばに近付き、ほんの少し顔を出しているレザーのカバーを指先で撫でながら、キーボードを哀れむ。
「なつかしいな。あの時のままだな。にしてもこんなところにキーボードが埋まっていたとは。ここ掘れワンワンじゃないんだから、もうちょっとどうにかならないのか?」
「だから、ずっと弾いてなかったから。ついついいろんな物を置いてしまって」
「おいおい。だからって、いくらなんでもあれじゃあ、キーボードも傷んでしまうだろ? それにピアノより鍵盤が少ないから、あれで弾いたら音が足りない。そうだ。今からうちに来ないか?」
「ええ? 今から? もう遅いし」
せっかく広海の暴走を止めたと思ったのに、これじゃあ、その努力も水の泡だ。
何度もキスやそれ以上の関係を迫る男の家に誘われてどうする。またもや凛香はその案を阻止する理由を必死で考え巡らせていた。
「遅いったって、まだ九時過ぎだぜ。俺んちのピアノ部屋は防音してるし、上階も隣も空き部屋だから問題なし。結構遅い時間までのびのび弾けるんだ。さ、行こう」
広海の手が凛香の腕をつかみ、行こうと誘う。
「で、でも……」
「ふふん。おまえ、警戒してるだろ? 心配するな。今夜はおまえの希望通り何もしない。まだまだ先は長いしな。その代わり飲むぞ。俺のオンステージが終わったら夜通し飲むから、おまえも付き合え。だから明日の出勤の準備だけは用意していけよ。それならいいだろ? ほら、早くしろ」
凛香の部屋の勝手知ったる広海は、いそいそと戸締りを始める。
「明日の始業式のスーツはどれだ?」
これまた断りも無く凛香の背後にあるクローゼットを開け、明日着用予定だった麻のパンツスーツを見事に言い当てた広海が、ハンガーごとそれを引っ張り出す。
「シャツはこれか? 着替えの下着は……っと、それはまだ俺の手は出せない領域だな」
「って、あたりまえだろ!」
広海の背中に、手のひらでバシッと一発お見舞いする。
いつの間にか広海の戦略にまんまと嵌められた凛香は、普段画材を入れている大き目のトートバックに着替えと仕事道具を詰め込み、そうそうこれを忘れちゃ仕事にならないと、パソコンの横に置き去りにされていたメモリスティックを慌ててバッグに放り込む。
そしてはたと気付くのだ。私はいったい何やってるんだ、と。
いくら同僚で、学生時代の仲間だからと言って、ホイホイ男性について行くのはいかがなものだろう。
こんな夜遅くに、男の家に丸腰で乗り込むのだ。やばくないか? いや、相当まずいだろう。
けれどその昔、何度もこの部屋に広海が泊まったことがあったのも事実だ。
にもかかわらず危機的状況は全くなかった。周りの人間からは半同棲だと好奇の目で見られたりもしたが、そんなものは事実無根、二人の間には何もなかったと胸を張って言える。
当時の凛香に備わっていたのは、心に秘めたちょっぴりの愛情と、正々堂々とした友情だけだった。
でも今は、少なくともお互いに好意を寄せ合っているのを知っている。何かが弾みになって、この関係を打ち破ってしまう可能性がゼロとは言えない状況なのだ。
だからと言って、せっかく広海のピアノが聴けるチャンスが訪れたというのに、余計な心配をして好機を逃したくないという気持ちが理性を上回る。
彼が自分を求め、凛香もまた彼を欲するのなら。その時は素直に自分の気持ちに従うまでだと気持ちを切り替える。
行くと決めた凛香は、父親からもらっていた冷酒があるのを思い出し、冷蔵庫から取り出して、トートバッグを肩に下げて持ってくれている広海に、はいこれ、と言って手渡した。
「おっ! これ、おまえのおやじさんの好物じゃねーか。久しぶりだな」
笑顔になった広海が、ビンに頬ずりをする。日本酒、ワイン、ウィスキーにビール。焼酎にウオッカ、紹興酒。
何でもござれの広海が初めてこの冷酒を飲んだとき、うまいうまいと連発して涙を流さんばかりに喜んでいたのを思い出す。
クライスレリアーナと、せっかくだからショパンのエチュードあたりを二、三曲聴かせてもらって、ピアノの話を肴に飲み明かすのもいい。
あるいは失恋経験者同士、なぐさめ合うなんてのもありだ。昔の彼女のことを訊いても、きっといいことはひとつもないとわかっている。でも知りたくなってしまう。
過去のどの女性よりも、自分が一番彼に愛されているのだと思いたいのかもしれない。それほどまでに広海に傾倒してしまった自分が恐ろしくもあった。
凛香は夏の間に少しのびた髪を大き目のバレッタでひとつに留め、部屋の電気を消す。
スーツの色に合わせたベージュのパンプスを直接手に持ち、広海と共にマンションを後にした。