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そして、始まる  作者: 大平麻由理
本編
45/91

45.哀れなキーボード その1

「おまえなあ。そんなつまらないことで悩むな。俺を誰だと思ってる?」

「広海……だ」

「だろ? なら掃除くらい、いつでも俺がするさ。料理だって心配するな。現におまえ、そんな料理の腕前でもこんなに元気に生きてるじゃないか」

「た、確かに」

「まあ、貧血予防に鳥レバでも食えばなんとかなるさ。料理ができないなら、おたふくで毎晩食えばいいし、俺の実家もそう遠くはないから、メシ食わせてくれって、夜襲をかければいいだろ? お袋も喜ぶだろうし。なんせお袋、おまえのこと気に入ってたしな」


 凛香は広海の胸からダイレクトに響いて来る声に、しばし聞き惚れてしまった。

 真夏だというのに、こんなに密着していても不快じゃない。このまま広海の身体の一部になってしまってもいいと思えるくらい、心地良かった。

 しかし、広海の思いやりは嬉しいが、普通の女性なら当たり前にできることが何一つできないカノジョなど、本当に必要なのだろうか。そのうち持て余して後悔するのではないだろうかと不安になる。

 来栖も口に出してこそ言わなかったが、うまくいかなくなった理由のひとつに、凛香の性格が災いしているだろうことは間違いない。

 相手を不幸にさせるとわかっていながら身をゆだねることなど、凛香には到底出来ることではなかった。


「おたふくに毎日行くなんて不経済だし、栄養面の片寄りも心配だ。だからと言って、広海のお母さんに世話になるってのも、何も出来ない子どもみたいで恥ずかしいだろ? こんな私と一緒にいたら、あんただってそのうちストレスまみれになるって。だから……」


 自分を卑下するつもりなど毛頭ないのだが、真実は歪曲するべきではない。凛香と付き合った結果予想できることは、前もってすべて伝えておくべきだろう。

 あとで後悔しないためにも、今のうちに思いとどまるよう、広海に言い聞かせるのだが。


「いや、今のままの方がストレスまみれだ。おまえにうまい手料理を期待するとか、家事の素晴らしさを見せてもらおうとか。そんなこと思っちゃいないって」

「でも毎日のことだし」

「出来る範囲でいいよ。それよりも、凛香とは仕事のことで一緒に悩んで、音楽や美術の話もして。たまに、こうやってぬくもりを確かめ合って。そうしたいから凛香と付き合いたいって言ってるんだ」


 たまにやることが逆のような気もするが……。

 学生時代、紳士的な振る舞いを貫いた広海の言うことだ。ここはその言葉を信じてあげるべきなのだろうけれど、前の男と別れたばかりの身でありながら、すぐに別の男に乗り換える自分が節操のない人間に思えるのは考えすぎだろうか。


「広海。お願いだから、これからのことをもう少しだけ考えさせて。まさか広海とこんなことになるなんて、ついこの間までは、想像すらしてなかったんだし」

「そうだよな。俺だって同じだ。おまえにあんなにも毛嫌いされているのに、誰がこうなることを予想できる?」

「誰も予想できないだろうな。今でも信じられないよ。でも、広海にこうやって抱きしめられるの、嫌じゃない。今も、ドキドキ……してる」


 凛香は自分の言ったことが無性に恥ずかしくて、広海のTシャツを強く握り締め、顔を隠すように埋めた。


「そ、そうなのか? それって俺にときめいてくれたってこと? じゃあ、もう何も悩むことなんかないじゃないか。では遠慮なくもう一度。今度は逃げるなよ」


 そう言って本当に遠慮なく顔を近づけてくる広海に、凛香は確信する。やっぱりこっちがメインで、たまにするのは仕事や趣味の話なんだろうと……。

 このまま広海の気持を受け入れてしまえば、その後どんな流れになるかは目に見えている。そしてそれを止めるなら今しかないということもわかっていた。

 凛香は目をしっかりと見開いて、ちょっと待ってと広海に合図を送った。

 これは決して拒絶ではない。今はその時ではないという単なる合図だ。また今度と言うニュアンスを込めて、広海の暴走をすんでのところで止める。


「広海、今夜はこれくらいにして……。そうだ! お願いがあるんだけど」

「ええ? 何だよ、いいところだったのに。おまえは俺をいたぶる魔性の女か!」


 いよいよこれからだ、という所で阻止された広海は、今度は何だよと言って凛香の肩に手を載せ、はあ、と落胆にも似たため息をついた。


「今からここでクライスレリアーナを弾いて欲しい」

「はいはい、クライスレリアーナですね、って、おい!」

「いや、本気だから」

「今ここで、俺に弾けと? ちょっと待ってくれよ。そもそもおまえんちにピアノなんてないだろ? どうすればいいんだよ。ボイスパーカッション風にやれとでも?」


 広海がきょろきょろと室内を見渡し、首を傾げる。


「あるじゃないか。あそこに」


 凛香が指差した先には、服やら本やらスーパーの袋やらがうずたかく積み上げられた台のようなものがあった。



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