21.カリスマ主夫広海 その1
「なあ、広海」
凛香が力なく俯き、疲れ切ったような声で訊ねる。
「私と来栖のこと、どこまで知ってるんだ。あんたと来栖が元同僚で、結構一緒につるんでいたってのは、来栖に聞いていた。じゃあ、何か? 来栖も、私と広海が知り合いだと気付いていたのか?」
「いや、気付いてないな。来栖さんの彼女がおまえだとわかった時、思わず俺も知ってるよと言ってしまいそうになったが、よそ様の彼女にずかずかと立ち入るほど、俺も無神経じゃないんで。聞き役に徹していたってわけさ」
凛香は広海の話しを聞き、幾分気持が軽くなった。来栖にはまだ、あの思い出したくもない過去の汚点は知られていないということになる。
ところがこの男。来栖のことで、凛香も知らない何かを掴んでいるのは確かだ。今ここで聞きだすことが出来るのだろうか。
「広海。あんた、何か知ってるんだろ? 来栖のこと……」
凛香はそれを知りたいような知りたくないような、複雑な心境だった。最近の来栖の様子からすれば、それとなく相手の考えていることくらいわかる。
あえてそのことを知りたくなくて、来栖を避けていたというのもある。聞かないほうが身のためだというのは、男女間にはよくあることだ。
「凛香。見てみろ……。客がいっぱいになってきた。外まで並んでるぞ。ここで話せることと、話せないことがある。場所を変えよう」
「どこに? 私の家はダメだからな」
「あははは。あれは冗談に決まってるだろ? 人妻ならぬ、人彼女の部屋に乗り込んでどうするんだよ。俺はこれでも義理堅いタイプだからな。来栖さんのことは尊敬してるし、その人を裏切るようなことは出来ない。なら……。俺んちはどうだ。グレードアップした俺の官舎暮らしを見たいとは思わないか?」
「グレードアップ?」
いつの部屋と比べてそんなことを言うのだろう。まさか学生時代のグランドピアノで占められていたあのワンルームと比べろと?
ピアノが置ける学生マンションということで、広海の住んでいた当時の住処は、大学からはかなり遠かったはずだ。
大学近くの防音完備のマンションは賃料が高すぎて借りれなかったとぼやいていたのを思い出す。
あまりにも不便なところにある広海の部屋には、数回しか行ったことがない。男の一人暮らしのくせに、掃除も行き届き、狭いながらも快適な部屋だったというのは、悔しいが、今でも鮮明に憶えている。
「そうだ。前の官舎より、ずっといい具合に家具もレイアウトしてる。床もピカピカだぞ。つい先日、真夜中に突然思い立って、ワックスがけをしたところだ。カーテンも新調した。これがまたいい生地でね。部屋の格調が上がる上がる」
「あんたんちのカーテンの話はどうでもいいけど。広海がきれい好きなのは知ってるけど、前の官舎だって? 私は昔の学生マンションにしか行ったことないけど。昔のあんたの彼女と勘違いしてるんじゃないか? どうせそうやって、前の官舎に女を連れ込んでばかりいたんだろ?」
映画と食事の話は気をつけろと昔から言うじゃないか。どの彼女と出かけたのか、そのうちごちゃごちゃになってわからなくなるというあれだ。
行ったこともないところに一緒に行っただろと感慨深く話されても、返事のしようがない。
それが原因でもめているカップルの数は、いったい日本中にどれほどいるのやら。
などと考えを巡らせるが、はたと気付く。この男とはカップルでも何でもないんだと。ああ、なんてメンドクサイ相手なんだろう。
「えっ? そうか? あー。そうだよな。おまえは前の官舎は知らないんだ。けど、これだけは言わせてくれ。俺は女を家に連れ込んだりはしない。官舎だぞ? 知り合いも多く住んでる。変な噂が立ったら困るだろうが。そういうのは外で済ます。それが大人の男のやり方だ」
「何を偉そうに。その官舎とやらに、今から私を連れ込むんだろ? 変な噂が立つぞ。いいのか?」
「ああ、大丈夫。おまえとなら噂が立っても本望だ……と言いたいところだが。今住んでる東地区の官舎は老朽化が進んでて、一昨年から新たな入居者を受け入れていないんだ。おかげで、俺の隣も上階も、誰もいないよ。全体でも、三分の一くらいしか入居してないんじゃないか? それに東高の職員は俺しかいないから、噂の立ちようがない。みんな、リッチだよな。若いのにオートロックの賃貸に住んでやがる。俺だって、そのうち……」
「わかった。わかった。わかった。じゃあ、あんたの家に行く。その代わり、話が終わったらすぐに帰るから」
広海の話は長い。黙って聞いていたら、どこまでも話続けるのが常だ。学生の頃は、いつだってそうだった。すでに寝ている凛香にも話し続けるほどのしつこさだ。
にもかかわらず職場では寡黙な二枚目で通っているので、人間として少しは成長したと思っていたのだが……。やはりそれも間違いだったと気付く。
本当にこんな男の家に、のこのこついて行って大丈夫なのだろうかと不安になるが、凛香はそんなリスクを負ってでも、徐々に行きたい気持ちが高まっていた。