20.地中海風リゾット その2
その昔……。天にも昇るような幸せな気持で、広海と口づけを交わしたあ直後、この男の本性が分かり、頬に手の型がつくほど平手打ちをしたのを、よもやお忘れですか?
広海との恋が一瞬にして破れたあの日を思い出し、凛香の心が沈んでいく。
でも広海との付き合いもあとわずかだ。補習講座が終われば、また元通り、ただの同僚に戻る。
それまでの我慢だと自分に言い聞かせ、凛香は必死の思いで自分を奮い立たせた。
昔と変らない欧風家庭料理を味わった凛香は、すっかり元気を取り戻していた。
リゾットは、少し塩辛かったが、残りを凛香から奪い取り全部平らげた広海はめちゃくちゃうまいと満足げに唸った。
えびがぷりぷりして甘みがあったという点では、広海と意見が一致し、うかつにもシーフード談義に会話が弾んでしまったことは誤算だった。
食事の相手がどうしようもない広海とはいえ、いろいろと世話になった以上、礼儀を欠くわけにはいかない。
律儀な凛香は伝票をこっそりと手にし、二人分の支払いをしようと立ち上がる。
しかし奥の席にいるため、広海が邪魔で会計台に向かうことが出来ず、足踏み状態になってしまった。このままだと、テーブルの下を潜って脱出ということにもなりかねない。
「おっと、それは俺にくれ。おまえに払わせるわけにはいかんだろ?」
「いや、それはこっちの台詞。あんたのことが嫌いなのと、世話になった礼はまた別の次元の話だから。ここは私が払う。お願い。払わせて」
狭い席で、伝票の取り合いが始まる。他人が同じことをやっているのを見苦しく思っていたのに、それを自分が率先してやっているのだ。
凛香はたちまち、自己嫌悪に陥る。
「いいか、凛香。よーく聞け。このままだとずっと店から出られない。だから、ここは俺が払う。そしておまえは、食後のコーヒーを俺にご馳走する。どうだ。いいアイデアだろ?」
「えっ、コーヒー? でもそれじゃあ、ここの支払いの方が多すぎるし。あんたに損をさせるわけにはいかない。それに見ての通り、私は疲れ果てて弱っているから、そろそろ家に帰ってゆっくりしたいなと思ってる。だからここは私が払う。ね? そうしよう」
はいそうですか、ではコーヒーを……などと言おうものなら、向こうの思う壷だ。ここは、どうしても譲れない。凛香の腕の見せ所だ。
「それは困ったなあ。凛香。おまえは俺とこれ以上一緒にいたくないってわけですね。では言わせていただきますが、あの話、まだ終わってないぞ。来栖さんのこと」
「あっ……」
凛香は一番大事な話をまだ聞いていないことに気付く。
それは是非とも聞いておかなければならない。もし来栖と広海が通じ合っていて、凛香のこともすでに筒抜けであるならば、早く次の手を打たなければならない。
「それと……。仕事のことだが、生徒のことで少し込み入った話もある。もう少しだけ、いいだろ? なんなら凛香の部屋に行ってもいいぞ。今でも大学の時と同じマンションにいるんだろ?」
仕事の話? 凛香は仕事に関連付けて話されると、めっぽう弱い。それも生徒のことだと言われると、放っておけなくなるのだ。
凛香の心の中の天秤は、すでに広海の言い分に傾きかけていた。
学生時代凛香は、あまりにも大学への通学に時間がかかり過ぎるため、大学近くに小さなマンションを借りて一人暮らしを始めた。
勤務先もマンションからそう遠くはなかったので、結局ずっとそのままそこに暮らしている。
築年数二十年オーバーの古アパートでもカプセルホテルでも、マンスリーマンションでも良かったのに、両親がそれを許さなかった。
娘に何かあってからでは手遅れだからと、オートロック完備でセキュリティーもバッチリな贅沢なマンションに、無理やり住まされた経緯がある。
そのマンションならもちろん広海もよく知っている。
学生仲間からは同棲しているのかと間違われるくらい、凛香のマンションに昼夜を問わず入り浸っていたのは、あろうことか、この目の前の男だったのだから。
「ええっ? ほんとに行ってもいいのか? 久しぶりだな。おまえんちに行くの。ちょっとは女の子らしい部屋になったかな? 掃除機はちゃんと買った? そうだ、カーテンはどうした? 布団は干してるのか?」
「うるさい! 誰がうちに来てもいいって言った? 自慢じゃないけど、私の部屋には彼氏にも入ってもらったことがない。今はもう何の関係も無いあんたを入れるわけがないだろ?」
「だから、話をするだけだって言ってるだろ? 昔は入れてくれたじゃないか。あの時だって、俺はずっと紳士だったはずだ。違うか?」
「あたりまえだ。変なことしたら、追い出すに決まってるだろ?」
「おまえはそういうの、すごく嫌がったからな。俺だって、おまえに嫌われたくないし、責任の持てる立場でもなかったし。まあ、あの頃の俺たちは、目標に向かってまっしぐらだったからな。色恋沙汰に振り回されてる暇なんて無かった……。で、おまえ、本当に来栖さんを部屋に入れたこと、ないのか? 信じられないな。そんな風だから、うまくいくはずの恋愛もダメになるんだよ……」
「ほっといてくれ。言っとくけど。私と来栖は、ダメになったわけじゃないから。ただお互い忙しすぎて、疎遠になってるだけだ。ダメだとか、決め付けないでくれ!」
広海の暴言にカッとなる。まだ来栖とは完全に別れたわけじゃない。
「俺は真実を言ったまでだけど。おまえそれ本気で言ってる? 忙しすぎて疎遠になっているだけだと、本当にそう思ってるのか?」
広海の真剣な目が、凛香を食い入るように見つめる。
凛香は唇をかみしめ、広海の視線から逃れるように俯き、再び座席に腰を下ろした。




