19.地中海風リゾット その1
「じゃあ、おまえもステーキセットでいいか?」
「ステーキ?」
「そう。だから言ってるだろ? ここのはうまいって。おまえも食ってみろ。元気になるぞ」
「それはさっきも聞いた。でも、よく考えてみろよ。私、これでも一応、身体が弱ってるんですけど。普通そんな半病人にステーキなんか勧めたりするか? ……ったく、何考えているんだか」
いくら空腹が原因で具合が悪くなったとはいえ、急にステーキなんぞが入ってくれば、内臓だってびっくりするに決まっている。
今の凛香には、リゾットとか、シチューとか、がんばってもハンバーグが関の山というところだろう。
本当に広海ときたら、これだから困る。
「半病人? おまえが?」
「そうですけど、何か?」
「大丈夫、大丈夫。顔色も随分良くなったし、食わないと明日に差し支えるぞ。じゃあ、俺はステーキセットにするから、少し分けてやるよ。で、おまえは?」
凛香の眉がピクッと動いた。さっきから、というか、ここ最近広海が馴れ馴れしくおまえおまえと連呼するのがひっかかっているのだ。
いったい何様のつもりなのだろうと。
「私は地中海風リゾットでいい。それと、私のことおまえってあんまり気安く呼ぶな。里見先生に聞かれたら、また何を言われるか……」
「あ……。悪かった。つい昔の感覚でそう言ってしまうんだよな」
凛香は恋人の来栖にすら、おまえ呼ばわりなんぞ一度もされたことがない。
あまり大きな声では言えないが、彼は凛香のことをカリンちゃんなどと、くすぐったい名前で呼ぶ。
ワイハじゃあるまいし、まるで業界用語のように前後を入れ替えて呼ばれることに初めはびっくりしたが、慣れてしまえばそんなものかと気にならなくなった。
「これからは、気をつけるよ。じゃあ、こうやって二人きりの時も、鷺野先生って呼べばいいのか? でもな、それっていくらなんでもかしこまり過ぎだろ? なら言わせてもらうが、おまえだって俺のこと、広海広海ってずっと呼び捨てじゃないか。前の彼女は、広海さん広海さんって、優しくそう呼んでくれたもんだ……」
なつかしそうに過去を振り返り、やや涙目で天井を仰ぐ男が少し不憫になる。が、同情は禁物だ。
「そんなこと、知るか。どうせ、広海さん、なんて呼んでもらって、鼻の下長くしてへらへらしてたんだろう?」
「へらへらはないだろ? でも、でれでれはしてたかもしれないな、いやあ、まいったまいった」
嬉しそうに頭をかく広海が、ますます気の毒になる。そうやって、いつまでも過去を偲んでろと心の中で毒づく。
「私には広海さん、なんて呼ぶの、到底無理だから。早くそうやって呼んでくれるかわいい人を見つければ? 東高の卒業生にも、あんたのファンがいっぱいいるらしいけど。遊びじゃないなら、それもいいんじゃないか? 卒業生と結婚してる先生は結構いるし。どうだ? よりどりみどりだぞ」
「はあ? 卒業生たちが悪いってわけじゃないけど。俺にはそんな趣味は無い。あいつらは俺にとってかわいい教え子なだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。心配してもらわなくても、まっとうな方法でちゃんと相手をみつけるさ。じゃあ、結局のところ、お互い他人行儀な呼び方は無理ってことで。俺、職場では絶対におまえって言わないから。誓うよ、な? 凛香ちゃん」
「き、気持ちわるっ! 凛香ちゃんは辞めてくれ。あああ。もう何でもいいよ。好きに呼んでくれたらいい。凛香ちゃん以外なら何でも。私だって、気をつける。人前では絶対、広海なんて言わないから。特に里見さんの前では、絶対に! そうだ。鶴本センセーって、生徒みたいに黄色い声で呼んでやろうか」
「それもいいけど、出来ることなら、広海さん、あるいはダーリンでよろしく」
「はあ? だからそれは無理だって! ああ、なんてことだろう、補習講座にかかわる前までは、広海と話すことなんてほとんどなかったから、こんなつまらないことで悩む必要もなかった。出来ることなら、一学期に戻りたい」
凛香は腕を組み、心底嫌そうに首を横に振った。
「そうだ。広海、安心しろ。里見先生にはっきりと言っておいたから。私たちは別に何でもないって」
凛香は突如思いだしたかのようにパンと手を打ち、瑛子の誤解を解いたことを知らせた。
「それはそれは、助かりました。でも、俺は。悪いけど、里見さんのことはなんとも思ってない。誤解されたままの方が良かった。なあ、凛香? おまえもそう思わないか?」
「いい加減に……。しーろーっ!」
どさくさに紛れて肩を抱いてきた広海の手をおもいっきりひっぱたき、フンと顔を叛ける。