16.不機嫌な背中 その2
「お、おまえ。本当に大丈夫か?」
「うん」
凛香は広海が屈んで覗き込んでいる方向に横向きになり、こくっと頷いた。
「なんだよ。おまえがしおらしくなると、気持ち悪いな」
「悪かったな」
「いや、悪かないよ。素直で結構。今日みたいな凛香は大歓迎だぞ」
「それはどうも」
また不意打ちのように、広海の手が前髪をかすめる。凛香は触れるかどうかのすれすれのところで首をすくめ、広海の手をかわした。
「おっと、逃げられたか……。それはそうと、さっき何度も俺の名前を呼んでくれたんだけど。おまえ、憶えているか?」
凛香の顔が一瞬にして曇る。どうしてこいつの名前を呼ばなければいけないんだと、さも不服そう口を尖らせた。
「おやっ、その顔は、俺の言ったことを信じてないな。言っとくけど嘘じゃないぞ。いやあ、俺って頼りにされてるなあって、マジで嬉しかった」
にやけた顔と長く伸びた鼻の下が、全くもって目障りだ。
でも、なんとなくこの目の前の男の名前を呼んでいたような記憶が残っている。
でもそれは仕方のないこと。この場所で凛香の側にいるのは広海しかいないのだ。関係のない他の人の名前を呼んだところで、誰が助けに来てくれるというのだろう。
だが、しかし、だ。無意識で呼ぶ相手の名前が広海だとは、やはりいただけない。
凛香には恋人がいる。瑛子に言ったのは口から出任せでもなんでもなく、結婚まで申し込まれた相手が本当にいるのだ。
今までの交際経験の中で最高に長く付き合っている恋人だ。もうすぐ三年になるだろうか。
なのに今の今まで恋人の顔すら思い浮かばなかったのはどういうわけだろう。
最近忙しくて、ずっと会っていない。電話もメールも、していない。今までそのことを極力考えないようにしていた自分への罰のように、不安がどっと押し寄せる。
「凛香、そんな様子で電車に乗るのは無理だろ? 俺の車に乗っていけ。おまえの家まで送っていくよ」
「えっ? そ、それは……」
「遠慮するなよ。それとも何か。俺の車には乗れないとでも?」
「いや、そう言うわけではないけど、そ、その……」
ここまで広海に世話になっておきながら今さらなのだが、これまで一人きりで他の男性の車に乗らないように常に心がけてきた凛香は、いくら広海が親切心で言ってくれたことであっても、そのポリシーを簡単に曲げることは出来ないのだ。
疑わしき行動は取らない。それが恋人への忠誠の証しのように捉えていたのだ。
「迷惑か? あ、そっか……。おまえ、付き合ってるやつ、いるもんな。なら、そいつに連絡するか?」
急に不機嫌な声色になった広海が立ち上がり、机の上に置いてあった時計を腕にはめた。
「あっ、それ!」
凛香は時計を目にするや否や、ソファの上に上半身を起こした。
「これか? おまえさ、ほとんど意識が無かったのに、この時計は離さず握り締めていてくれたんだ。おかげで投げ出されなくてすんだ。この通り、ちゃんと動いてるぞ」
広海が掲げた左手を見て、ほっと胸を撫で下ろす。
この時計は、広海が大学時代から大切にしていた時計だ。父親からもらったと言っていた国産のどこにでもある時計。
でも、どんな時でも肌身離さず持っていたその時計への広海の思いを知っているだけに、意識を失った時に落としたりどこかにぶつけていたらと、不安になったのだ。
「で、どうする? 来栖さんに電話するのか?」
「いや、いい。……って、な、な、なんで? なんで来栖のこと、知ってるんだ?」
凛香は、誰も知らないはずの恋人の名を告げた広海を訝しげに見上げた。
「私、広海にそこまで言ってなかったはずだけど。東高の職員は誰も知らないはず……」
「ああ、そうだろうな。多分誰も知らないだろう。そして、来栖さんとおまえは、うまくいって、ない」
目を丸くする凛香をさらに追い詰めるように、広海が言った。
「そのとおりだ。でも、なんであんたが知ってるんだよ。誰に訊いた? ねえ、教えろよ」
凛香はソファから立ち上がり、つかみ掛からんばかりに広海に詰め寄る。
ところが、再び目まいがしてそのままソファに座り込んでしまったのだ。
「なあ、凛香。そんな身体で、一人で帰れるのか? 意地を張るのはやめて、今日は俺の言うとおりにしろ。なんなら車までおぶってやるぞ。ほら、ほら、つかまれ」
そう言って背中を向ける広海の肩を借りて、なんとか立ち上がった。いくらなんでもおんぶは勘弁して欲しい。
その時、凛香のお腹のあたりで、きゅうーっと怪しげな音がした。
広海が振り返り、凛香の顔を覗きこむ。すると今度はぐるぐるっともう一度音が鳴った。
「広海。ごめん。お腹……すいた。死にそう。私、今日一日何も食べてなかったんだ」
「おいおい、凛香、マジで? じゃあ、その貧血。空腹のせいだとでも?」
「うん。朝も寝坊したから、コーヒーを一杯だけしか、飲んでない」
「昼も、食べなかったのか?」
「……うん」
「よし。そうとわかったら、今から腹ごしらえだ。仕事はこれで切り上げるぞ」
広海がその持ち前の長い足を有効に使って、あっという間に準備室と隣の音楽室の電気を消し、戸締りを済ませた。
「おまえの来栖さんのこと、店に着いたら話すよ。それならいいだろ?」
凛香は返事をする間も与えられず、広海に引きずられるようにして、駐車場に連れて来られた。
いつの間にかすっかり広海のペースに巻き込まれてしまった凛香は、まだ駐車場に残っている車を見渡し、瑛子が社会科研修に行ったまま戻っていないのを確認する。
凛香は恋人の来栖にごめんねと心の中で小さく詫びて、まだ少しふらつきながら、恋人でもない男の車の助手席にやっとのこと乗り込んだ。