15.不機嫌な背中 その1
突然、目の回るような速さで広海の手が鍵盤を駆け上った。大きくてしなやかな広海の手が、鍵盤の上を舞うのを最後に見たのはいつだったのだろう。
魔法のように心を揺さぶる音を紡ぎだすこの手が好きで、真っ直ぐに伸びた背中が頼もしくて。
弾きながら時々目を閉じて、次に開けた瞬間ちらっと絡む視線にどきっとして。
この人と寄り添って生きていきたい、と思った時がなかったわけではない。
変わったのは短くなった髪くらい。
幻ではない。あの頃のままの広海が、今凛香の目の前でピアノを弾いているのだ。
校内の各行事でのピアノ伴奏は、東高の場合、生徒が弾くことになっている。というのも、人前で弾くチャンスを出来るだけ彼らに与えようと広海が配慮しているため、凛香が学校内で広海の演奏姿を見ることは、これまで本当に一度もなかったのだ。
裏を返せば、生徒たちも広海の演奏姿はほとんど知らないということになる。
中には、鶴本先生は全くピアノが弾けないから生徒に弾いてもらっているのだとまことしやかな噂が流れることも度々あった。
だが、音楽の授業でたまにその勇姿を目にした日には、あまりの演奏力の高さと、洗練されたパフォーマンスの美しさに、広海ファンの女子生徒たちが授業中失神寸前になった……とこれまた大げさな情報が一人歩きすることもある。
この曲は確かシューマンの子供の情景だったかな。いやそうじゃなくて、クライスレリアーナだ。
残念ながら凛香が弾くにはまだ技術が及ばないため、聴くだけにとどめているが、好きなピアノ曲ベスト五に入るくらい、彼女にとって思い入れのある曲でもある。
どんなにテンポが速くても、どの音も奥まで深く鍵盤を押さえ込み、それでいて滑らかで繊細な音を生み出す広海のテクニックは、今も健在だ。
意外とうまいじゃないかと危うく声に出して言いそうになり、凛香は慌てて口を閉ざす。
文句なしの見事な演奏だと素直にそう思う。
そりゃあ、音楽教師だもの、それくらいは当然だろうと憎まれ口のひとつも言ってみたくなるけれど。それを差し引いても、やっぱり広海はうますぎる。
たとえあの憎い広海が弾いているにしても、凛香はこの音楽教師のたぐい稀な才能を認めざるを得なかった。
聴けば聴くほど彼の音に引き寄せられ、胸をぎゅっと締めつけられるように苦しくなっていく。そして次第に目の奥までじわっと熱くなってくるのだ。
大学の卒業演奏会でも、彼は選ばれた三人に名を連ねていた。
一人はプロのピアニストとして活躍しているし、もう一人はヨーロッパに留学して実力をつけていると聞く。
大学の教えどおり律儀に教師になって、それでもこれだけの技量を維持している広海は、果たして今の自分に満足しているのだろうかとふと心配になったりもする。
凛香はいつのまにか自分の脳内が広海一色に汚染されてしまったことに気付き、頭をぶんぶんと振った。
あくまでも、聴衆が誰もいないのは演奏者にとって寂しいだろうから、我慢して聴いてやっているだけなのだということを肝に銘じ、自分を戒める。
凛香は広海の音楽にぐいぐい引き込まれていく自分を認めながらも、一方でそんな自分が情けなくもあった。
もしも目の前の広海に対して、今でも揺れ動く心が残っていることを悟らてしまったら、今までの努力が全部無駄になるからだ。
あんなひどいことをした張本人である広海を絶対に許すものかと何度も自分に言い聞かせ、八年前に凛香の中にあった広海へのすべての思いを断ち切ったのだ。
この音楽教師を喜ばせることだけは、なんとしても避けなければならない。
落ち着け。落ち着くんだ。広海の奏でる音色に聞き惚れて我を失うなんてことだけは、決してあってはならない。
どこかの知らないオヤジがわけのわからない曲を滅茶苦茶に弾いているんだと思い込め。
こんな嫌なやつのピアノなんか、誰が聴いてやるか……。
だれが聴いてなんか、やる……もの……か……。
「どうだ、この曲。おまえも知ってるだろ? 全部で八曲あるんだ。で、次は……って、おい、凛香? どうした、凛香! 大丈夫か?」
どうやら凛香は、本当に意識がなくなってしまったらしい。
気付いた時には、隣の音楽準備室のスプリングのいかれたソファの上で、寝心地の悪さと格闘しながら身体を横たえていた。
「ひろ……み?」
凛香の目の前には、心配そうに上から覗き込むなつかしい瞳があった。
どさくさにまぎれて髪を撫でられていたような気がするのだが、それを指摘する元気は残念ながら今の凛香にはない。
「おまえなあ。倒れるなら倒れると、そうなる前に俺に言ってくれよ……。おまえのこと何も気付かずにピアノを弾き続けている俺って、相当鈍感で、大マヌケ野郎だと思うんだけど」
泣きそうな顔をして広海が言った。
「いや、いつもそうなんで、別に気にしてない……」
「いつもって……。おっ! 正気になったな。貧血か? 昔も時々こんなことがあったよな。こうやっておまえを看病するのは初めてじゃないから、俺も心得たものさ。まさしく鬼の霍乱だな」
「ほっとけ! 私だって、調子の悪い日くらいあるし。あんたと違って、繊細で硝子細工のような華奢な身体なものですから」
「ほお、それは初耳だな……。女性の教師の中で一番デカイおまえが、そんなにもろいとは全く存じませんでしたね。ったく人の気も知らないで……」
「広海……」
凛香は自分の口がいつもどおりの辛口を維持していることに少し安堵する。
が、しかし……。この状況から察するに、広海が倒れた凛香を介抱してくれただろうことはもう間違いない。
ならば、恩人に対して少し口が悪すぎたのではないかと反省する。もう少し素直になって、ここは礼くらい言うべきではないかと。人として最低限のマナーだけは失いたくない。
「なんだ。まだ何か言い足りないのか? おまえの毒舌はもう十分もらったぞ」
「あっ、いや、そうじゃなくて……。ここまで運んでくれて、どうも、ありがと」
瞬く間に広海の顔から表情が消えた。眉間に皺を寄せたまま口をポカンと開けて、まさしく放心状態だ。




