14.ピアノと腕時計の相関図 その2
「珍しいな……」
「はあ? なんでここに?」
「おまえのピアノ、久しぶりに聴かせてもらった。そのノクターン、今のおまえの気持ちか?」
絶対に認めたくないが、黒板にもたれるその姿がやけにさまになっているこの男に、いとも簡単に心の中を覗かれたような気がして落ち着かない。
「いったい、何だよ。勝手に入ってきやがって……」
凛香は広海を前にすると、なぜか攻撃的になる。そして言葉遣いも当然のように勇ましくなってしまうのだ。
わかっているのだが、止められない。
「ここは俺の聖域だ。入って来て何が悪い。おまえな……。いい加減、素直になれよ。俺が何か話そうとすると、すぐにはぐらかすし目も合わそうとしない」
「あんたと話すことは何もない」
「いや、あるだろ。こうでもしないと、おまえ、俺から逃げてばかりだ。なあ、凛香。あれからもう八年以上経つんだぞ。もう時効だ。俺たち、そろそろ普通に付き合えるんじゃないか? あっ、もちろん、まずは、同僚としてだが」
「広海。私は普通にあんたと付き合ってるつもりだけど。これ以上どうしろと言うんだ? これでも、あんたには同僚としての最低限の気配りはしてるつもりだ」
「最低限ね……。確かにおっしゃる通りで。昨日も、ご丁寧にコーラをプレゼントしてくれて、俺は嬉しかったぞ。背中に入れるのは想定外だったけどな」
やはり広海の皮肉は本日も健在だ。でもちょうどいい。あの時、何を言うつもりだったのかと訊くのに、いいチャンスかもしれない。
「あれは不可抗力だから。あんたが余計なことを言おうとするから、ああなったまでのこと。私はちっとも悪くないから」
「おまえ、相変らずだな……」
「うるさい。ほっといてくれ」
「はいはい、わかりました。それで?」
「いちいちうるさいんだよ。ちょっとくらい黙ってれば?」
次第に不機嫌さを露わにし始めた広海がむすっとして黙り込む。
「なあ、広海。昨日はやっぱり、あのことを里見先生にばらそうとしたのか?」
「あのこと?」
「とぼけるな」
「おいおい、俺は、とぼけてなんかいないが……。って、もしかしてあのことか?」
二人にとってのあのことは、ひとつしかないはずだ。誰にも知られたくない若気の至りともいう、過去のあの失態。
「あれしかないだろ? 他に何がある?」
本当にあのことを忘れてしまったのか、はたまた、からかっているのか。凛香は広海の本心を探るように、執拗に攻めていく。
「わかった、凛香、わかったよ。あのことだよな。他にはない。でも、あのことは関係ないんだ。そうじゃなくて、ただ俺たちは昔も今も仲がいいんだと言いたかっただけだよ」
「はあ? なんだよ、それ。少なくとも今は全く仲がいいとは思えませんが……」
「いや、だから。そこはおまえが話を合わせてくれれば、里見さんもあきらめてくれるかな、と。俺、里見さんタイプはどうも苦手で……」
「ったく、なんで私が、あんたの悩み相談の手助けをしなきゃならないんだよ。里見先生、ああ見えて、結構一途でかわいいんじゃないかな。あんたにぴったりだと思うけど」
「おまえ、本気で言ってるのか? 俺の気持がどこにあるのか知っててそれを言う?」
「あんたの気持なんて、知りませんが……。まさか八年間も同じ思いでいるなんて、信じろと言う方が無理な話……です、け……ど」
「おい、凛香? 大丈夫か?」
凛香は急に意識が遠のきそうになって、手でこめかみを押さえる。ふと横を見ると、広海が腰をかがめ、心配そうに覗き込んで来る。
「あー。大げさだな。大丈夫だって。軽い貧血だよ。最近、夏バテぎみだから」
「おまえ、かなり疲れてるだろ」
広海の眉がその男前を台無しにするくらい、情けなく八の字に下がった。
「少しね」
「なんか俺、責任感じるよ。この補習講座をおまえに頼んだの、間違ってたのかもしれないな……」
「同情はいらないね。引き受けたからには、最後まで務め上げる。広海には絶対に迷惑かけないから安心しろ。……それにしてもうかつだった。まさかあんたに私のピアノを聴かれるなんてさ。防音効いてるし、ちょっとくらいならいいかと思った私が甘かった。あんたに聴かれるのだけは絶対に嫌だったのに」
「俺も、嫌われたものだな。でも、いい演奏だったぞ。人間いろいろ経験を積むと、それが音に出るって本当なんだな。おまえも人並みに、いろいろあったってわけだ。なあ、もう一度弾いてみないか? なんだったら、俺がレッスンしてやってもいいぞ?」
「バカ! あんたの前では二度と弾きませんっ!」
レッスンとか、絶対にありえない。
「昔と変わらず、態度デカイな。でもおまえがショパンのノクターン、それも作品九の一だろ? あれをそこまで情感をこめて弾くなんて、はっきり言って驚きだな。昔はショパンといえば、エチュードの革命一本やりで。あれは確かに笑えた。なんでそこまで怒ってるんだよって感じで、切れもよかった。タッチも文句なし。自由で、奔放で。でも嫌いじゃなかったな。おまえのピアノ。もちろん歌も……」
言わせておけば、どこまでも人の心に土足で入り込もうとする。凛香は調子に乗るこの男が癪に障って仕方ない。
「ひーろーみー。いい加減にしろよ……。昔のことをあれこれ蒸し返すな。あんただって、言われたら嫌だろ?」
「俺か? 俺は気にしないな。昔のことなんか、何も思っちゃいない。別に知られたってどうってことはないな。そりゃあ、あの髪の色はやりすぎだったかもしれないが。いくつかあったピアスの穴も、今じゃすっかり塞がっちまったしな。もし俺がここの生徒だったら、間違いなく停学二週間、始末書つきってやつだ。いや、退学かな? でも今となっちゃあ、いい思い出だよ。凛香、ちょっと替われ」
凛香は無理やりピアノの椅子からはじき出される。広海がでんと陣取り、シャツの袖を捲り上げた。
時計をはずし、当たり前のようにそれが凛香の手に渡る。
シルバーのオーソドックスなタイプの腕時計。見覚えのあるそれは、八年ぶりに凛香の手のひらに収まった。
広海の指が流れるようにパラパラと空中で折れ曲がる。これも昔と変わっていない。演奏する前に必ず行う準備運動のようなものだ。
早く職員室にもどって仕事がしたいんだけど……。そう思ってはいても、今からピアノを弾く気まんまんなこの男を放置しておくわけにもいかず。
というか、凛香は学生時代この男のピアノ演奏が何よりも好きだったのだ。
だから。ここから出て行くなんてことがそう簡単に出来るわけがない。
凛香は身体の力が全部抜けていくような疲労感を覚えながら黒板にもたれ、今まさに音を紡ぎ出そうとしている広海の横顔を、凝視していた。