第十八話 「見解の相違」
風穴内の大気が揺らいでいた。
地の底から轟く、怨嗟の如き重低音。
鍾乳石が震え、天井から水粒が滴り落ちる。およそ普通の生き物からは発せられない、悍ましき声が男たちの総身を震わせた。
「お前ら急いで武器を構えろ! どうやら、やっこさんのお出ましだ!」
号令一下の警戒態勢。
それぞれ剣や斧を抜き、サムエルは短筒の口を多叉路の一つに向けた。
どすん、どすんと巨大な塊が移動する気配。ぱっくり開いた間口は暗黒に包まれ、何か途方もない存在が急速に接近する。
「あ、ぁ……駄目です、もう間に合いません。あいつが来る……みんな、殺されてしまう」
「セルジュさん、しっかりしてください。急いでボクの後ろに」
セクトは、激しく動揺するセルジュの腕を引いて後方に押しやる。
その合間も、彼はうわ言のように口の中で謝罪の言葉を紡いだ。
「ごめんなさい、私のせいです……全て私が悪いんです……私が案内さえしなければ、貴方がたのような優しい人が、あの怪物の生贄になることもなかったのに……」
「縁起でもないこと言ってんじゃねえよ、坊ちゃん。俺たちがそんなヤワに見えるか?」
「安心すると良い、セルジュ。大方、お前の馬鹿親父は私たちを怪物の餌にしている間に、採掘作業を再開させようとしていたのだろう。この半年間、シメールを訪れた旅人たちと同じように。しかしその程度のことは、サムエルもお見通しだ」
「そうそ、相棒の言う通り――って、そうだったのか?」
「まさか……本当に考えなしで依頼を引き受けていたのか」
アンガスはサブリーダーとして、呆れ顔で頭を抱える。
しかしサムエルはボスの務めを果たすように、自信満々で総員を鼓舞した。
「なーに、俺たちの手にかかりゃ、悪党連中だろうが、零れ人だろうが形無しさ。お前らのボスは誰だ? そう、このサムエル・ファルコナーの名を怪物に知らしめてやれ」
『オーケー、ボス!』
仲間たちはその背中を信じ、肉薄する怪物の気配に備えた。
だが、セクトは術代の発動を準備しながらも、拭いきれない不安が鼓動となって全身の血流を駆け巡った。
セクトの操る蝶は、あらゆる攻撃を防ぐ盾として機能する。
この鍾乳石に囲まれた風穴であれば、岩盤そのものが術代の依り代となる強固な防壁だ。
たとえ敵が巨大な岩石を放って来ようが、セクトは全身全霊を懸けてそれを防ぐ。仲間たちに、傷一つ加えるような真似はさせない。
――そのはずなのに、セクトの内には黒い靄が燻って離れなかった。
「敵影を視認する。お前ら、見逃すなよ」
サムエルは短筒の砲身を雄叫びの反響する穴に固定する。
彼の用いる顕具は引き金を引いた瞬間、内部に発生した火花を依り代として、そこに自我を込めることで術代を射出する仕組みだ。
炎の隼を操るゆえに、彼は自らファルコナーの名を冠している。
「さっすが、ボス! 奥の奥まで丸見えっすね! こっちから先制攻撃しましょう!」
「ちょっと待て。俺はまだ何もしちゃいねえぞ!」
暗闇の奥に、ひと際盛んな炎が走って内部を照らした。
しかしそれは向こう側に広がるのではなく、こちらの空洞へ拡散されている。
「真横に飛べ!」
とっさにサムエルが呼びかけ、速やかに回避行動を取る。
セクトはセルジュの腕を引っ張り、手近な岩陰に身を隠した。他の面々も、同じように身体を隠せる場所に退避する。
次の瞬間、鍾乳洞が真っ赤に染め上げられた。
風穴の奥から放たれたのは、全てを焼き尽くさんとする業火。地面から天井を埋め尽くし、あらゆるものを焦がす放射が、一気に風穴内の温度を跳ね上げた。
「あっつ! お前ら無事か!」
「お、おいらたちは大丈夫なんだな。ウォーレンも一緒にいるよ」
「良い感じの穴があって、こっちも問題ないっす!」
「私も生きているが、この炎は怪物のものか? 火を噴くなら相応の器官があるはずだが」
「セクト、そっちは!」
「大丈夫です、セルジュさんもいます!」
全員の安否が確認できて、束の間の安堵がセクトの胸を空く。
されど、すぐに畳みかけて来る強烈な悪寒。
この炎を発生させた存在が、すぐそこまで迫っている。
「あ、あ、あの怪物には敵いません。ひと月前に訪れた、屈強な戦士たちでさえ、二度と帰っては来なかったのですから」
セルジュが腕を抱えて、恐怖に慄いている。
どうやら以前にも、怪物の犠牲になった戦士たちがいたらしい。セルジュが彼らを案内したのかを確認する暇はないが、セクトの抱く不安は徐々に膨らんだ。
火炎放射が収まり、再び暗闇の灯る鍾乳洞。
ゴタゴタでランプが割れてしまい、辛うじて地面に撒かれた油の残り火が唯一の頼りだ。
【ゴバアアアァァァァァァ――――――――ッッッ!】
そこに、怪物の雄叫びが木霊する。
セクトは、ぐっと心臓を握られるような恐怖を覚えた。
「よし、怪物が来たら俺の術代で照らす! この暗闇に乗じて不意打ち食らわすぞ!」
「駄目です、サムエルさん! これは、たぶん――ボクたちを、見てる!」
「どういうことだ、セクト! 主語をはっきりしろ!」
「セクト? ……そうか、サムエル! 蝙蝠は暗闇に超音波を発し、反響を感知して周囲を認識する! この声はおそらく、それと同じ原理だ!」
瞬間的なセクトの気づきを、アンガスが言語化する。
「岩陰から出るな! 敵にこちらの位置がばれるぞ!」
「はんっ、そういうことか。これだから、お前らの冷静さは頼りになる」
「いや……駄目だ、それだけじゃ……この感覚は、前にも……」
セクトの胸騒ぎは一向に収まらない。
この怪物の声に、セクトは奇妙な懐古を感じていた。
憤懣、あるいは慟哭。
何かを訴えかけるような響きには、紛れもなく感情が乗せられている。
だがそこから読み取れるのは、敵の心境だけではない。
三年前、双頭の巨人と相対したとき、セクトが敵の戦力や急所を理解できたときと酷似する感覚。心を落ち着かせ、冷静に物事を見極めたとき。
「……孤独が、近づいている」
未だ理解が及ばない、孤独の在り方。
己が身に宿した力のほとんどを、セクトは識ることも引き出すこともできない。
されど、自らの自我に深く刻まれた〝孤独の宿業〟は、数秒先でセクトの身に引き起される孤独を幻視させた。
「みんなが、死ぬ……大切な人たちが、ボクを残して逝く……」
何が起こるのかは分からない。
しかしセクトは、サムエル、アンガス、クライヴ、ヒューバート、ウォーレン、そしてセルジュを含め、誰もこの場から生きて帰れないことを認識させられた。
それは不可避の運命であり、果てなき世界の自我の導き。
この場の全員が、怪物のために命を落とす。
ただ独り、孤独という名の宿業を背負ったセクトを残して――
「違う」
気づけば、セクトは岩陰を飛び出していた。
「何やってんだ、戻れセクト!」
大声で呼びかけるサムエル。
それに負けず劣らぬ声量で、セクトは喉を振り絞った。
「みんな近くの穴に飛び込んでください! 急いで!」
「いきなり何を訳の分からないこと――」
「お願いします、サムエルさん!」
残された時間は少なかった。
サムエルはセクトの強い覚悟を感じ取ったように、頭上に短筒を向けた。
パァン、と炸裂音が反響する。
刹那、洞窟内を眩しく照らす炎が羽ばたいた。
「目の前の穴に飛び込めェッ! セルジュのことは任せとけ!」
「な、なんだかよく分かんないっすけど、ボスがそういうなら!」
「ほれ早く走らんか、ヒューバート!」
「ま、待って欲しいんだ。おいら、足が遅いの知ってるでしょ」
「……生きて帰れよ、セクト。お前の冴えは、私が保証する」
各々セクトの指示通り、いくつにも別れた多叉路を目指してひた走る。
それでも、人間の脚力には限度があった。
目前に肉薄する、怪物の四足には適わない。
だからこそ、セクトは鍾乳洞の中央で待ち構えた。
風を切る速度で、暗闇から這い出した死の権化。
天井間際に、跳躍した怪物の巨影が浮かぶ。続けざま、四つ足を支える肉体の後尾から、異様な細長い管が伸びて、最も近くを走っていたクライヴに差し迫った。
「他人の死によって成り立つもの――それは、ボクの孤独じゃない」
なれど、これを防ぐは鍾乳洞全体を包み込む突風。
両手を仰ぎ、翠に光る円環の陣より顕現させしは、風を纏う蝶。
あらゆる困難を薙ぎ払うセクトの自我の化身は、この空間に無秩序な暴風を引き起こした。
「セクトの奴、ここまで強い術代を使えたのか――ぐっ、久々の揺り戻しはキツイぜ」
炎の隼が掻き消され、サムエルは苦悶を浮かべながらも、呆然とするセルジュを引きずる。
同時に、クライヴを背後から射貫かんとした、異質な管が巨影に引き戻された。
闇に逆巻く風の大渦。
尋常ならざる本流は、鍾乳洞に致命的な破壊をもたらした。
「この場所で使うには、狭すぎたみたい」
セクトの引き起こした嵐は、天井を砕いて瓦礫の雨を風穴に降り注がせる。
崩壊する鍾乳洞。
落盤に巻き込まれることを嫌って、怪物が最奥へと続く穴に飛び込み、引き返していく。セクトも急いでこの場を離れたかったが、周囲の崩落は仲間たちの逃げた多叉路を全て塞いでしまっていた。
「残ったのはそこだけか……ええい、ままよ!」
意を決し、セクトは怪物の逃走した同じ穴に飛び込む。
続々と天井から降り注ぐ落盤から逃れるように、一同はそれぞれ風穴の奥へと突き進んだ。
完全なる離散を伴いながらも、彼らはひととき窮地を免れるのであった。




