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「ねぇ、お母さん」
「なぁに」
「お父さん……飛んでっちゃう……」
立ち昇る光の粒を見上げながら、わたしは思わず母の裾を掴んだ。
父が空に奪われてしまう――そんな感情に襲われた。
母はわたしを優しく撫でると、
「大丈夫だよ」
と微笑んだ。
「お父さんはね、これからおやすみするんだよ」
「おやすみ?」
「そう。だから一緒に待っていようね」
「……うん、分かった」
柔らかな光が立ち昇る。
それは遠く山を越え、やがて彼方へと消えていった。
これが初めて目にした還りの光だった。
それは綺麗で、儚くて。
とても悲しい光景。
【還】は世界の理で、生と死を繰り返し、人の歴史は紡がれている。
でも最近、それに疑問を感じ始めていた。
忌物には【還】が適用されるのだろうか。
還れなかった者達が辿る結末。
人に仇なす成れの果て。
しかしいざそれらを目の前にしたら、そんな悠長なこと考えている暇はない。
やらなければやられるのだ。
自分も、守るべき大切な人達も。
だからこの剣を振るってきた。
だけど。
刃を交えるその瞬間。
少しだけ心が沈むんだ。
◇
「甘いな」
アズウェル上官が膝を叩く。
続けて勢いよく袖を捲り上げると、抉り取られたような傷跡があらわになった。
「追い詰められた獣ほど恐ろしいものはないぞ」
失敗したな、と思った。
いつもならこんな話はしないのに、レオが一緒だからだろうか、思わず昔話がこぼれてしまった。
「それは忌物に?」
食いつくようにレオが尋ねた。
「ああ、そうだ……」
少し間を開けて上官は続ける。
「俺は運が良かった。ただそれだけだ。やっとの思いで始末した時には仲間は半分になっていた」
「それって、人型ですよね?」
レオが苦い顔をした。
「ああ、そうだ。今回も同じことが起こる可能性だってあるんだぞ」
「……」
「なんだかんだで、ノアは怖いんですよ」
レオがいつものペースでちゃらける。
どこか呑気な性格が、今は少し羨ましくも感じた。
「大体ね、ノアがこの場にいることが不思議でしょうがないっスよ」
「お前が選ばれたのもな」
焚き火に薪をくべながら上官が笑った。
それを聞いたレオの顔が引き攣る。
冗談と受け取れず、真に受けたようだ。
「慈しむことが悪いとは言わない。いつか割り切れるといいな、ノア」
「ったく。お前最近おかしいぞ」
「……」
上官が肩を叩いた。
分厚く固い掌の感触が洋服越しでも伝わった。
「見張りは二時間交代。先に休ませてもらうぞ」
上官が天幕に潜り込み、それにレオが続く。
「何かあったらすぐ呼べよ」
「余計な心配はいりません」
「可愛くねぇ奴」
……うざ。
わたし達はコルド山脈を訪れている。
近くの住居区で異常事態が連日発生しているからだ。
異常事態の原因は忌物。
ここ数日間で死者、行方不明者合わせ五人の被害が出ていると報告が上がっている。
相対すれば戦闘は避けられないだろう。
気持ちが揺らぐ最中の任務。
迷いがないと言えば嘘になる。
忌物は殺さず捕えよ、これが原則。
捕らわれたその後はわたしでは知る由もないが、想像するに容易い。
刃を交えることになったら、戦うしかない。
その時はせめて一思いに――なんて余計なことを考えてしまう。
割り切れない思いを抱えたまま、夜は静かにふけていった。
「……冷えてきたな」
木々が揺れ、枯れ葉が散った。
肩をすくめ火に身を寄せる。
目撃情報があったのが山中とはいえ、時期の悪さが重なっている。
底冷えする気温に、強い季節風。
それらが疲弊した体に鞭を打つ。
体を伸ばす。
雲の切れ目から月が顔を出した。
アズウェル上官の言葉が脳裏を掠める。
同情は無用。
理外の相手なら尚更だ。
もちろん、十分に理解している。
それでも、どうしても忘れられない。
死を前にした瞳が瞼に焼き付いて離れない。
せめて【還】を――。
いつしかそう願うようになり、感情が揺れるようになった。
訓練で制御していたはずの心が痛む。
レオはわたしの変化に気づいているのだろう。
あんなでも一応幼馴染だ。
心配してくれているのだろう。
うざいけど。
「……」
生木が小さく爆ぜた。
その音が闇に吸い込まれていく。
静寂が森を包んでいる。
風に乗って舞い上がる火の粉。
その奥の茂みが微かに揺れた。
背筋が強張る。
獣、或いは小動物の類か。
それとも――。
「……なんだ、脅かさないでよ」
飛び出してきたのは、野うさぎだった。
こちらに気づくと再び茂みに飛び込んでいった。
一瞬張り詰めた気が緩む。
その時だった。
遠くで音もなく何かが横切った。
まるで人のような――。
「ヤあ」
同時に、背後から頬を撫でられた。
肌が粟立つ冷たい感触。
鼓動が大きく跳ねた。
手を振り払い焚き火を飛び越える。
即座に反転し、声の主と対峙した。
揺れる炎が男の顔を不気味に照らす。
(こいつ……)
油断はしていなかった。
あの距離を一瞬で?
真紅の瞳、青ざめた肌――忌物だ。
報告された特徴とも一致している。
「くク。くくくク」
「攫った人達はどうした」
柄を握る手に力が入る。
鼓動が耳の奥で脈打つ。
「さあネ」
と、忌物が髪をかき上げた。
痩せ細り骨張った指には血の気を感じない。
あの指で触れられたと考えると身の毛もよだつ。
「こんナところで――」
仲良く会話をする気はない。
躊躇なく焚き火を蹴り上げた。
火の粉が散り灰が舞い上がり、忌物の視線を遮った。
「小癪ナ女ダ」
安い挑発――相手にする必要はない。
死角へと回り込み、ナイフを声の方向に投げつける。
ナイフが煙に消えた直後、低い笑いが響いた。
煙が風に流され忌物が姿を現す。
「……っ!」
投げたナイフは、確かに胸元に突き刺さっている。
しかしそれを気にする様子はない。
それどころか指でつついて遊んでいる。
小手先の攻撃は通用しない。
やはり頭を切り離すしかない。
抜刀と共に一足飛びで間合いを詰めた。
甘さは捨てろ!
今はひたすら非情になれ!
着地と同時に剣を振り下ろす。
忌物が身を翻すも、返す刀で首元に狙いを定める。 柄を握る手に鈍い感触を捉えた。
僅かに届いた切っ先が、忌物の喉を裂く。
それでも忌物の余裕は変わらず、驚いたことに出血すらもしていない。
過去に対峙してきた相手とは一線を画すことに、ここでようやく気づいた。
「その程度か」
忌物はナイフを逆手で抜き取ると、そのまま反撃に転じてきた。
眼前に刃が迫る。
それを柄尻で弾き、そのまま後方へと大きく距離を取った。
じりじりと弧を描くように間合いを保つ。
長引いてはこちらが不利。
大きく深呼吸をし、肩を回す。
「んなわけ」
一気に距離を潰し確実に葬る。
今度は避けられない速度で――。
「少し稽古をつけてやろう? 兵隊のお嬢さん」
踏み出した足が止まった。
忌物がまるで別人のような声を発したのだ。
表情もまるで憑き物が落ちたようだった。
「……お前、軍人か」
明らかに素人の構えではなかった。
半身の前傾姿勢。
踵を浮かし、こちらの呼吸に合わせ、身体を上下に揺らしている。
「さあな。だが、この得物には覚えがあるな」
雰囲気が明らかに違う。
けど飲まれちゃダメだ。
飛び込む隙を窺う。
体格からして膂力の差は歴然。
しかも異様な耐久力で生半可な攻撃も通らない。
ならば先の先で初動を潰し――そのまま一気にケリをつける!
「残念」
踏み込んだ矢先、額に衝撃が走った。
硬い鈍器で流れたような感覚。
踏みとどまることもできず、足が地面から離れ、そのまま茂みへと吹き飛ばされた。
なんだ……?
殴られた……のか?
「動きに迷いがある。致命的ダぞ」
思考が定まらない。
立ちあがろうにも力が入らない。
「ハ、反応モ鈍イ、ィ。練度が、足りないナいな」
忌物の声色がまた変化した。
「お前……何者、だよ」
揺れる視界が赤く染まっていく。
体が言うことを聞かない。
「ラ、楽ニぃ死ネルと思うナよ」
突き出された忌物腕が霧状に変化していく。
夜の闇が、更に色濃く広がり辺りを包む。
ここで致命的なミスを犯したと気付く。
相手は正真正銘の化け物。
すぐにでも救援を求めるべきだった。
慢心が招いた結果。
自分ならこいつを苦しませずに倒せる、そんな風に考えていた。
なんの言い逃れもできない。
上官に指摘されたばかりだったのに。
「ノア!」
レオの声が耳を掠めた。
はっきりとは聞き取れないが、上官の声もする。
その瞬間、意識が飛びかけた。
二人が駆けつけたとはいえ、未だ安心できる状況ではない。
まだ囮くらいにならなれる。
少しでも二人の役に立つんだ――しかしレオの声を聞いて、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れてしまった。
目の前が徐々にぼやけていく。
何度か金属音がした。
忌物の悍ましい叫びも聞こえる。
「……くそ」
もう地面に臥すことしか出来なかった。
頬に一粒の雪が落ちた。
森には静かさが戻っている。
どれほど気を失っていたのだろう。
「くっ」
なんとか指が動いた。
しかし体を起こすまでに至らない。
「う、動いて……よ」
なぜわたしは生きている。
上官は?
レオは?
忌物はどうなったんだ……?
「おやおや」
「……だ、れ?」
聞き馴染みのない声だった。
少なくとも先ほどまで、この場には無かった。
淡々とした、感情のない音。
「ごほっ、な、なに!?」
困惑していると突然襟元を掴まれた。
体が宙へと持ち上げられる。
「やあ」
「っ!」
顔を覗かせたのは、怖気がするほどの美貌を持つ女性。
だがそれ以上に冷たい瞳に釘付けになった。
目が、離せない。
「なんだか顔色が悪いね」
「あ、貴女こそ」
「そう? しばらく自分の顔なんて見てないから分かんないや」
女が視線を外す。
その先には仰ぐように虚が倒れていた。
浅い呼吸を短く繰り返している。
「もう時間の問題だね」
「貴女が、忌物を?」
「関わるつもりはなかったけれど……まあ、成り行きさ」
ところで――女は首元に目を落とした。
「この模様、彼等と同じね」
その言葉に言いようのない不安が過った。
恐る恐る、顔を上げる。
既に忌物は死に体。
じゃあレオと上官は……。
「……っ!」
風が雲を押し流す。
暗く沈んだ森が月に照らされた。
「上官……」
赤く湿った土がぬらぬらと光っている。
血臭が風に乗り鼻を刺した。
ひしゃげた剣が突き刺さる傍には、千切れた足が無機質に転がっている。
「レオ……なんで……」
力を振り絞り手を伸ばした。
物言わぬ二人に向けて。




