5.そういうあんただから
夜特有の濃い闇の中、灯す蝋燭の炎がゆらゆらと揺れている。
室内には店中の女が所狭しと集まっている。部屋の中央には息絶えた若い女が一人寝かせられている。汚され斬られた商売道具の衣は脱がされ、今は新しいが生成りの質素なものを着せられている。体は清められ、顔には薄く化粧がほどこされている。そうすると、女はまるで生きているようだった。生きて心地よさげに眠っている、ただの街娘のようだった。
「桔梗」
「桔梗ちゃん」
「桔梗姉さん」
誰もが女の名を呼びながら泣き続けた。泣いて泣いて、いつまで泣いて。こらえきれない悲しみを分かち合って。そうして長い夜を共に過ごし朝を迎えた。もはや涙は誰の目にも一滴も出ないほど……泣いた。
小鳥の囀る声を聴き、誰かがふらつきながらも立ち上がり、閉めきっていた窓をそっと開けた。すると一筋の光がまっすぐに入り込み、眠る桔梗の体を照らした。
誰もが一瞬息を飲んだ。
それはあまりにも神々しい光景だった。
まるで天に召されるための儀式が執り行われているかのようだった。
「桔梗……ちゃん」
ぽつりと誰かがつぶやいた。
沈黙を、芙蓉が手を軽く打ち鳴らして破った。
「さあさあ、こんな湿っぽいのは桔梗だって嫌いだよ。ほらみんな、顔を洗ってご飯を食べておいで」
女が一人、また一人と立ち上がり室から出ていった。最後に室に残ったのは、芙蓉と、そして部屋の隅で壁にもたれて座っている仁威だけとなった。
仁威は斜め下をじっと見つめている。
それに芙蓉が苦笑いを浮かべた。
「あんたまでそんなふうにしけた顔をしてるんじゃないよ」
「……」
「隼平のせいじゃない。これが桔梗の運命だったんだろうよ」
「……運命だと?」
ようやく仁威がその顔をあげた。朝日が差し込むこの場で、仁威の顔にだけはいまだ影がしっかりと貼り付いていた。
「こんなものが運命なのか。こんな結末のために桔梗は生きてきたのか……!」
「そうだよ」
あっさりと肯定され、仁威がさらに猛った。
こぶしを握り締め、立ち上がりながら叫んだ。
「俺がいなかったら桔梗は死ななかった……!」
その顔は涙で濡れていた。
それは仁威が他人の死に対して初めて流す涙だった。
「俺のせいだ、俺のせいでっ……」
「いいや違う。隼平のせいじゃない」
「俺は隼平なんて名前じゃないっ!」
「それ以上は言うんじゃないよっ!」
その強烈な叱咤に――仁威は激昂を忘れた。
長い沈黙の後、芙蓉が言った。
「……あんたが隼平という名じゃないことくらいとっくの昔から分かっているさ」
そして深くため息をつくと、きつく仁威を見つめた。
「だけどあんたは『それ』を言ったらいけないんじゃないのかい? あんたにとって『それ』は桔梗の生き死によりも大切なことのはずじゃないのかい?」
静かな物言いはまさにすべてを的確に見抜いているが故だ。
「くっ……」
唇を噛んで堪える仁威に、「それでいいんだ」と芙蓉が言った。
「それでいいんだよ。あんたはやるべきことを定めて生きているんだろ? だったらそれを最後まで貫いてみせな。そういうあんただから桔梗は惚れたんだ。女が一生に一度の恋を捧げたんだ、あんたには最後までそういう男でいてもらわなくちゃ困る。それ以外のものに惑わされたり足を止めたりするんじゃないよ」
「……芙蓉」
「一つ頼まれてくれるかい」
芙蓉はそう言うと一つの棚に近寄り、開け、奥から小さな袋を取り出した。そしてそれを仁威に渡した。
「これは?」
「桔梗がこの一年で貯めた金さ。弟妹のためにってね」
芙蓉は仁威のもう一方の手を取ると、金の入った袋を両手で握らせた。
「ここは今のあんたにとっては危険だよ。それはあんただって気づいているはずだ」
「……」
「さっきは適当なことを言って誤魔化せたけど、きっとまたすぐに『奴ら』は調べにやってくる。その時あんたがいたらよくない。違うかい?」
「……芙蓉」
「これを持って砂南州に行ってきておくれ。今すぐに。桔梗の弟と妹に渡してきておくれよ。これは女将の命令さ。ほれ、これも餞別に持っていきな」
芙蓉は開いた胸元に手を入れ、桔梗の袋と同じくらいの大きさの袋を仁威の手の上に載せた。
「それでお前は大丈夫なのか……?」
それに芙蓉が片眉をあげてみせた。
「大丈夫さ。男の扱いでこの零央であたしに勝てる女なんていないからね」
そして片目をつむってみせた。
「桔梗の弟と妹には、これが姉ちゃんの惚れた男なんだぞって自慢してくるんだね」
「自慢、か」
はは、と仁威が笑った。ようやく。
まだ頬は涙に濡れているが……ようやく笑えた。
「そうさ。そしたら弟も妹もきっと安心するさ。ああ、姉ちゃんは幸せに死ねたんだなって」
その時。ふふふ、とどこかで女の笑い声が聴こえた。
仁威はその声を確かに耳にした。
だが光に包まれた桔梗の体は今も変わらず動こうとはしない。
「どうした?」
「……いや」
仁威は小さく頭を振ると、二つの袋を懐に入れて芙蓉に頭を下げた。
「すまない。あとこのことは」
「分かってるって。うちの馬鹿息子には伝えておくからさ。大丈夫、年が明ける頃には戻ってこれる。それまで辛抱強く待ってるんだ。何かあったら文を出すよ」
「頼む」
仁威はもう一度頭を下げた。
だが顔を上げた瞬間、その表情はいつものごとく何の感情も映していなかった。踵を返し、仁威は室を出ていった。一度も振り返ることもなく。
芙蓉はよく眠る桔梗のそばにいくと、朝日の下で光り輝く女のそばに顔を伏せた。
やがて聴こえてきた芙蓉のすすり泣く声はいつまでも途絶えることはなかった。




