7.君にはまだ選べる道はある
「こ、晃兄」
「なんだい?」
優しい声が余計に涙腺を刺激する。
「ありがとう……ございます……」
「なんだよ急に」
ほんのりと顔を赤らめた晃飛に、珪己は涙をこぼしながらも笑みを浮かべてみせた。
「ほんとうにおいしいから……。おいしいって思えたのがすごく嬉しいから……。こんなふうに優しくしてもらえたのもすごくすごく嬉しくて……。だから……」
純なまなざしで見つめられ、背筋がかゆくなるような賛美の言葉をかけられ。居心地の悪くなった晃飛はぷいと横を向いた。
「だったらもっと食べなよ。まだたくさんあるんだから。もったいないだろ」
その仕草によって、赤くなった耳が露見した。
珪己は思わず眉を下げて笑っていた。
「ふふふ」
「なんだよ? なんか生意気だな、妹のくせに」
いつものような会話になりそうになったところで、晃飛が「あ」と声を上げた。
「そうだそうだ。妹じゃないんだ。嫁だった」
嫁という言葉がまた出てきて、珪己の笑みも自然と消えた。涙も止まった。
「その嫁っていったいなんですか? 話の流れからすると、私が晃兄のお嫁さんのように聞こえるんですけど」
「おおっ!」
晃飛が両手をあげて驚く仕草をしてみせた。
「そこまで君が賢いとは思わなかったな」
「は?」
じとっと見上げると、晃飛は珪己の椀を奪い、そこに新たな粥を入れ、それを手渡しつつ当初するはずだった会話を再開した。
「君のその体調の悪さと今後のことを考えると、このままこの家に置いておくのはよくないと思うんだ」
話はそんなふうに始まった。
「仁兄に話せるようになるまでは、君は仁兄のそばから離れた方がいい。君の体調を悪化させた最大の原因もそこにあるんだし」
それは以前指摘されたとおりのことで、珪己はもう恥じ入ることもできずにただうなずくしかない。
「それと、体調が落ち着くまでは医師に診てもらわないといけないでしょ。何度も来てもらうとなると、仁兄のことだから絶対に医師と直接話したがると思うんだ。韓先生は口が堅い人だけど、さすがに仁兄相手だと分が悪すぎるからねえ」
「韓先生?」
「あれ? まったく覚えてないの? 昨夜君のこと診てくれた爺さんいただろ、あの人」
むむっと考え始めた珪己に、「まあすぐに会えるから思い出さなくていいけど」と晃飛は話を先へと進めていった。
「それに体調が回復したとしても、俺も女の体なんてさっぱりだし、しかも妊婦なんて畑違いもいいところだからさ。それであの人に任せちゃえって思ったわけ。あの人、ああ見えて四人産んだことあるから」
「はあ……」
納得はできるが、話が飛躍しすぎているような気もする。
また晃飛お得意の口車に乗せられているような気もする。
それにこんなふうにあっさりと別れを切り出されるなんて、突き放されているようでちょっと……。
「寂しい?」
顔を覗き込んできた晃飛の目がいたずらっぽく笑っていて、珪己の顔がぱあっと赤くなった。そんな珪己の頭を晃飛が乱暴に撫でた。それに珪己が嫌そうに首を振るった。その仕草はいつも通りで、晃飛は素直にそのことを喜んだ。
「大丈夫だよ。毎日会いに行ってあげるから」
「……で、芙蓉さんに預けるために、その嫁という設定が必要だというわけですか」
じとっとした声音も普段の強気な珪己そのものだ。
「そうだよ。妹だって言ってた子を、しかも妊娠している子を預けるんだしね。父親が誰かを尋ねてほしくない君には一番いいと思ったんだけど。違う?」
「違っては……いないです」
「だったらいいよね。ていうか、もうそう言ってあるから訂正なんて無理だけど」
「で、でも」
珪己は思わず晃飛を見つめていた。
「そんな嘘をついて晃兄は大丈夫なんですか?」
「大丈夫、ではないね」
晃飛が言った。あっさりと。
「あの人に大きい貸しを作ったことはすごく嫌だし、打ち明けた直後なんて何回も平手で殴られたからね。いいところの嬢ちゃんになんてことをしたんだって。それに仁兄にもいつか言わなくちゃいけないけど、俺、仁兄には殺されてもおかしくないと思う」
話を聞く珪己の顔がみるみる青くなっていき、それに気づいた晃飛が「ごめんごめん。大げさに言っただけで嘘だから」とあわててとりなした。実際は、過去の出来事は事実であるし、未来予想図は可能性を否定しきることは難しいのだが……。芙蓉の、細腕の女の攻撃なんて可愛いものだが、怒りに狂った仁威に立ち向かってこられたら、それはもう……。
少し想像しただけで晃飛の体がぶるりと震えた。それに眉間を寄せた珪己に、「なんか今日は少し寒いね。秋といってもいい具合だ」とごまかしつつ、晃飛は立ち上がった。形だけ窓の方にやった視線の先では、やや茶色がかった笹がさわさわと揺れていて、その様子に、晃飛はなんとなく哀愁を感じた。
もう夏は終わる。楽しかっただけの季節が終わる。夏が終われば秋がきて冬がくる。何もせずとも暖かく過ごせていた季節は幻となってしまう……。
「まあとりあえず」
晃飛はくるりと珪己の方を振り返った。
「俺の嫁ってことにしておけば君はゆっくり過ごせるはずだからさ。なんなら出産するまであの人の家で暮らして、すっきりしてから戻ってきてもいいんだ。何にもなかったかのように。子供は死んじゃったことにして誰か欲しい人にあげてもいいし」
物騒な発言に、珪己がぎょっとした顔になった。
その顔が面白くて晃飛は笑った。
「いや、冗談じゃないよこれは」
「でもそれは……いくらなんでも」
「非道だって?」
正確に言葉を継がれ、珪己がうっと唸った。
晃飛は珪己に近づくと、その額を人差し指でつんとつついた。
「子供ができたからって君にはまだいくつも選べる道があるってことさ。君が望んだとおりにね」
はっとした顔で珪己が晃飛を見上げると、晃飛がもう一度額をちょんとつついた。
「これが俺が君にしてあげられる最大限のことだよ」
そう言う晃飛の瞳はいつものように澄んでいた。
「だから君は答えが出るまでじっくり考えればいい。いいね?」
その瞳に、珪己はさらなる強い意志を感じた。
だから珪己は迷いながらもうなずいていた。本当はこんなふうに誰かを犠牲にしてまで選んでいいわけがないとも思いながらも、晃飛にそれを言う勇気もなく。
今後、仁威に対してどのような態度をとればいいのか。その重い判断を先延ばしにできたことに、正直なところ珪己の心は安堵していた。とはいえ……。
(知られたら、十中八九見限られるんだろうな……)
思い至ると、悲しくてまた涙が出そうになった。
(相手が誰かも言えないんだもの……)
だがまさか言えるわけがない。相手は皇帝陛下であるなどと。この国で最も尊い人物との間に成した子だと。しかもそれはたった一夜のことで、珪己を芯国の王子から救い出すために侑生や仁威がすべてを懸けた日の夜のことなのだ。
あの雨が降り続いた日には様々なことがあった。きっと誰にも一寸先のことを想像できず、また保障することもできなかったに違いない。
でも。だからといって。
あれほど自分のために身を尽くしてもらって、珪己がその夜にしたことといえば、我が身可愛さに皇帝に泣いて縋ったことだけで……。
(もうだめ……)
(きっと軽蔑される……)
(こんなことになったら、もう好きでなんていられないよ……)
先ほど晃飛は言った。まだ道は選べると。
だがこの恋を失うことが確定した未来しか、今の珪己には残されていないように思えた。
そのことが辛い。
だが『辛い』と、その一言を発する権利も自分にはないことも分かっていて、珪己はぐっと涙をこらえるしかなかった。両手に包んだ粥の椀がやけに温かく感じ、それがまた涙腺を刺激したが、それにも珪己は耐えるしかなかった。
次話からは最終章です。




