1.その夜の妓楼は
その夜は確かに違和感があった。店の雰囲気が常になく緩んでいたからだ。そのことについて、仁威は何もすることのなくなった深夜になってから一人考えてみたが、しばらくして合点がいった。
「……そうか。芙蓉がいないからか」
普段、この店――環屋という名の妓楼――の女将・芙蓉は自身の部屋に引きこもって一人で酒を飲んでいる。酒に強く、明け方近くまで延々と飲み続けるのだ。店のことは主だったものに一任して。
とはいえ、芙蓉の部屋を訪れる者は常に途切れることはない。それは店を開く前の明るい時間帯から、店を閉めた後までずっとだ。番頭であったり妓女であったり、調理人であったり丁稚であったり。ここでは、芙蓉は相談役に徹することで己の価値を生かしていた。
その相談側の人員には、当然仁威も名を連ねている。だが主目的は純粋な相談事ではない。連絡や報告がほとんどだ。特に最近は、訪れる客や妓女を通して開陽の情報を入手させてもらっている。しかし、あれから特に変わったことは起こっておらず、紫苑寺で僧や武官に怪我を負わせた異国人が捕まったという話も聞かない。
と、袖を引かれそうになり、仁威はやや体を半身にずらしてそれをかわした。
その直後、背後から桔梗が現れた。
だが持つべきものを持てず、前のめりになって体勢を崩しかけている。
「おっと」
さすがに店の女を転ばせるわけにはいかないと、仁威はよろめく桔梗の体を手を伸ばして支えた。触れた薄紫の衣の奥に潜む体は、見た目どおり非常に軽くてしなやかだった。
「もう! 急に避けないでよね」
そう言いながら顔を上げた桔梗は、仁威との距離の近さに気づくと、途端に赤面し離れていった。色を売る女でありながらも、こういうところは初心なままだ。
「すまない。癖でな」
頭を掻いて詫びる仁威に、「そんな変な癖のある人っている?」と拗ねてみせながら、桔梗の頬の赤みはなかなか消えなかった。耳の先まで赤い。
「それで、俺に何か用があったんだろ? なんだ?」
「あ、そうそう」
言われ、桔梗が高揚した表情になった。両手を一つ叩き、
「実は今日のお客が珍しい人なのよ!」
真実嬉しそうに語り出した。
「珍しい人?」
「武官よ」
「武官? 街の西の?」
街の西といえば、ここ零央に居を構える廂軍のことである。ここは一応、零央一の妓楼だから、禄の少ない武官はあまり来ないのだが……。
「そう。多分ね」
桔梗の返事は確信があるようで曖昧だった。
「どこの隊だ?」
「どこだったかなあ。ちゃんと聞いてないかも」
首をひねる桔梗に、「別に分からなくてもいい」と仁威は言った。その男がどこの隊の者でも別によかったからだ。
ただ、十番隊だけは別だ。あの隊には仁威自身いい思い出がないし、それ以前に横暴を地で行く彼らを相手にしたら店の女たちに被害が起こりえる可能性がある。
だが街の事情に詳しい桔梗が『どこの隊か分からない』と言うのであれば、その客が十番隊である可能性はない。それほどまでに十番隊とは悪名高く、かつ一見して隊名が露見する稀有な存在なのである。
そんな仁威の心中を知ってか、桔梗が上目遣いで仁威を見つめてきた。
「ふふ。ありがと」
軽い笑みを含んだその艶めく瞳に、仁威はむずがゆい思いをしたが何も言わなかった。
「じゃ、行ってくるね。また仕事が終わったら部屋の下でお話ししましょ」
それはこのところの二人の習慣となっていたことについてだ。
習慣といっても、仕事に一息ついた仁威が外の空気を吸いに出ると、二階の自室から桔梗が顔を出して話しかけてくるだけなのだが。それでも仁威にしてみれば、他人と言葉を交わす楽しさを少しずつ覚えだした頃でもあり、積極的に声をかけてくる桔梗の存在は悪くはなかった。
実際、桔梗との会話は仁威にとっては悪いどころか有益そのものだった。その日に起こった出来事を、芙蓉とは別の解釈、見方によってあらためて耳にすることで、情報の精度が格段にあがったからだ。
たとえば、十番隊隊長が美貌の剣士に一撃でやられたとか、それに十番隊がピリピリしているとか、至るところで小さな騒動を起こしているとか。開陽の状況や異国人のことだけではない、この街の情勢についても仁威は詳しくなりつつあった。
ちょうど廂軍の話題が出たこともあり、仁威は桔梗に以前から気になっていることを尋ねた。
「十番隊は隊長を倒したという剣士を今でも狙っているのだろうか?」
それに去りかけていた桔梗が足を止め、少し悩ましい顔をした。
「うーん、それは聞いたことがないわ。隊長さんがかんかんに怒っていて、それに隊員が感化されて悪さばかりしているって話しか聞いてないの」
「そうか」
それなら晃飛の身も、ひいては晃飛の家に住む珪己の身も安心かと、仁威が小さく安堵のため息をもらした。週に何度か屯所にでかける晃飛が今もピンピンとしているのだから気の回しすぎなのかもしれない。
桔梗が仁威の様子に目ざとく気づき、すかさず提案してきた。
「そのあたり聞けたら聞いてくるわね」
「ああ、それはいい」
申し出は嬉しいが、仁威はすぐさま断った。経験上、武官は自分の身を探るような人間にはとたんに警戒心を抱くものなのだ。もともと、誠実を売りにするような、疑われることのない職に就いているがゆえに。また、軍や隊における機密事項を有しているがゆえに。それは武官の職業病の一つと言ってもいい。
「そう?」
桔梗のきれいに描かれた眉が残念そうに下がったが、仁威は重ねて「大丈夫だ」と言った。それでも引き下がりたくないという顔をする桔梗に、「探るような真似をするとかえって警戒するのが武官というものなんだ」とやや丁寧に説明しているところへ、薄黄色の衣をまとった女が速足で近づいてきた。
「桔梗ちゃん、お客様がお待ちだわよ」
「あ、ごめんなさい水仙姉さん。すぐ行きます。じゃあ隼平さん、またあとでね」
仁威に少し頭を下げると、桔梗は仲間の女と共に急ぎ足で去っていった。
*




