4.俺を導いてくれ
近衛軍の第一隊隊長であった仁威からは、幾多の死線を潜り抜けてきたがゆえの、嘘偽りのない殺気が放たれている。それは晃飛の纏う剣気とは質も濃度もまったく異なっている。
それでも晃飛は剣を構える姿勢を崩すことなく、それどころか真向から仁威を睨み返した。
途端に晃飛の体が膨れた――ように見えた。
ほんのわずか遅れて、仁威の体も同じ変化を遂げた。
二人の体からは雷光のごとく激しい気が発せられている。
向かい合う剣、向かい合う体、それらは媒体でしかない。
二人はお互いの精神をぶつけ合っているのだ。
どちらの心が強いか、はたまた弱いか。
それを量る究極の状態といえば、それは命を賭する時でしかない。
だから二人は剣を介してお互いの内面の優劣を比較している。
剣を向け合ってすぐに晃飛の全身からは汗が噴き出している。額を流れる汗は眉を超えて目に流れ込み、先ほどから地味に眼球を痛めつけている。油断すれば剣を取り落としてしまいそうなほど手汗もひどい。上半身が次第に硬直していく。力を抜け、そう初日に仁威に指摘されているが、格下の晃飛にとっては無理な話だ。力を抜いたが最後、緩んだ隙に斬撃を浴びる幻想がはっきりと見えるというのに、一体どうやって?
やる前からこの勝負の先は見えている。
それでも晃飛はやるしかなかった。
(俺……やっと分かった)
天下の猛将と実剣を向け合うことは相当な試練だ。それでも晃飛は己が最大限の力を振り絞って剣を構え続けている。命を刻一刻と削られているかのような壮絶な場に身を置きながら、一歩も退くことなく耐えている。
(俺は自分自身にとらわれ過ぎているんだ……)
このような状況だというのに、いや、だからこそ。
その想いは自然とわいてきた。
(自分がやりたいと思うことをして、その結果を自分の価値観だけで判断して)
(だから……俺は仁兄とあの子を傷つけてしまうんだ)
自分を慈しみ愛すること、それ自体は良いことだ。
だが己を過剰に愛してしまうと、時として周囲と軋轢が生じる。
なぜなら、人は完璧ではないから。
完璧ではないものを物事の絶対的指標にしてはいけないのだ。
(だから俺は知らなくちゃいけないんだ。俺が大した人間ではないことを――)
一度完膚なきまでに叩きのめされなくては、何かが欠落した自分を実感できない。
本当は怖い。
光る刃を向けられているせいだけではなく、心の奥底から怖い。
命を失うよりも恐ろしいこと、それは自我の否定ではないだろうか。
晃飛はこれまで自分自身をこそ信じてきた。それしか頼れるものがなかったからだ。
家族は血が繋がるだけの他人だった。親しい友はいなかった。親しくなりかけていた少年はいたが、自分のために傷ついた姿を見せつけられて以来、自分から距離を置いた。唯一心を寄せた愛犬も数年ほどで死んでしまった。晃飛がそばにいたいと思える存在は、最後には仁威一人だけとなっていた。
だが仁威は誰とも一定以上の距離を置く男だった。また、この男も自分自身をこそ信じて生きる類の人間だった。そしてその武芸の腕で若くして近衛軍武官となるために首都・開陽へと旅立っていった。晃飛を置いてたった一人で……。
晃飛に残されたものは……もはや自分自身だけだった。
その自分を、これまで自分を生かしてきた己自身を否定することは、今立つ地面が奈落に変化するのと同じだ。底の見えない暗闇に落ち、二度と光さす世界に戻ってこれないかもしれない恐怖に、晃飛の体がぶるっと震えた。
それを押さえつけるかのごとく、晃飛の纏う剣気が一回り膨れ上がった。
ここまで気を解放したことはほとんどない。必要がなかったし、そのような場を避けてきたが故だ。案の定、限界に近い気の発動は晃飛の手を小刻みに震わせた。巨大な力を完全に制御しきれていないのだ。
晃飛の見せた変化とほぼ同時に、仁威の放つ気が同量にまで増幅された。
晃飛の放つ気が燃え立つ緋色の炎だとしたら、仁威のそれは静かに燃える青炎のようだ。一見熱を含んでいなさそうな、揺らめきも見せない炎。だが見た目に惑わされてはならない。深い沈黙で満ちた気には、その性質を雄弁に語らないからこその恐ろしさが秘められている。
もう一度、晃飛の体は大きく震えた。
一向に体は言うことをきかない。震える、その行為が収まるまでの数拍のうちに攻撃を受けたらひとたまりもない。
だが仁威は動かない。
動かない、ということに晃飛は一瞬怒りを覚えた。どこまで余裕があるのだ、と。次にその怒りは自分自身に向けられた。なめられた態度をとられるほど弱い自分に腹が立ったのだ。だがその怒りは次の瞬間には泣きたくなるほどの決意に打って変わっていた。
(いい加減に目を覚ませ、俺……!)
必死でにらみつける目には自然と涙が生まれていた。こぼれる寸前をこらえ、晃飛は柄を持つ両手にあらためて力を込めた。
今握ったものは柄だけではない。
弱い己の心を握りしめたのだ。
己を縛るすべてのものから解放され、まっさらな自分に生まれ変わりたい。そう願い、弱くて愚かな自分の心に活を入れたのだ。
(殻を破ったその先にあるものを俺は見つけたい……!)
(自分以外の信じられるものを、正しいと思えるものを見つけたいんだ……!)
心が痛い。
否定されることに慣れていない心が、痛い痛いと悲鳴をあげている。
それでも晃飛は逃げなかった。
(仁兄、俺に教えてくれ! 俺を導いてくれ……!)
晃飛の嘘偽りのない意志に呼応するかのように、仁威の気が爆発かと見まごうほどに急速に増幅した。それは光の速さで晃飛の放つ気を完全に覆い、次の瞬間、晃飛を四方から圧迫した。
キーン……。
澄んだ鐘のような音が一度だけ響いた。
晃飛の手にあったはずの長剣は、美しい弧を描いて道場の片隅に突き刺さった。
――すべてが終わり、力尽き膝から崩れ落ちた晃飛に。
それまで表情を変えることのなかった仁威が、ようやくほほ笑んだ。
「それでいい。それでいいんだ」
晃飛は最後の気力でもって笑ってみせた。
にっと笑って、そのまま背中からどうっと床に倒れた。
次話から第七章です。
以降からは読む時間、心理状況を選ぶような描写が予告なくでてきますのでご注意ください。




